兵隊やくざのレビュー・感想・評価
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さながら愛の逃避行
「兵隊やくざ」という物騒なタイトルとは裏腹に、奏でられているのは甘美なメロドラマだった。勝新太郎演じる大宮二等兵と田村高廣演じる有田上等兵の関係には、単なる上司と部下の信頼関係以上の何かが時折瞬いている。 これを「BL」という語彙で括るのは何か悔しいものがあるので近しい構造を有した作品を挙げるとすれば三浦健太郎の『ベルセルク』だろうか。やはり一匹狼の荒くれ者と頭脳明晰な上司というのは関係性としてかなり「尊い」よなあ。暴力と制御の危うい均衡。ともすれば一瞬で崩れ去ってしまうガラス細工のような。そのフラジャイリティが格別の耽美をもたらす。 監督に増村保造を据えたというのも大きな勝因だろう。しなやかでモダンな増村の作風によって描き出される敗戦直前の満州からは、硝煙や貧困といった戦争の泥臭いイメージがほとんど脱臭されている。こうした平坦できめ細かな画面から唐突に血飛沫が噴出する瞬間はきわめて鮮烈でエロティックだ。一方で大宮が女郎の女と「臍酒」という遊びに興じるシーンは明らかな性的描写にもかかわらず妙に恬淡としている。あまつさえ大宮自身も「そういう気分にならねえ」とそっぽを向いてしまう。 思うに、大宮にとっては暴力こそが最も苛烈で情熱的な性行為なのだ。有田が上官命令で大宮に懲罰を下すシーンでは、有田は竹刀で大宮の頬を一度ぶっただけで懲罰を終えてしまう。するとその後大宮は自分の顔に岩をしたたかに打ちつけ血だらけになる。そして大宮の傷の深さを見た上官は、有田を「よくやった」と褒める。もちろん大宮はこうなることを見越したうえで策略的に自分の顔に傷をつけたのだと思うが、それにしたってやりすぎだ。思うに大宮は、敬拝する有田が自分を殴ってくれることでより高次な結び付きが可能になると考えていたのではないか。しかし有田は元来暴力を好まず、懲罰の折にも情が走ってつい手を緩めてしまう。大宮にしてみれば不完全燃焼だ。ゆえに彼は自身の満たされなさを埋めるために自涜的に自傷行為に及んだ、という側面もあるように思う。 また大宮が女郎の女になぜか猛烈に好かれているが、それというのも、大宮が「誰にでも暴力を振るう」という点において「誰とでも寝る」女郎と同様の悲哀を抱えているからではないか。 終盤、南方派遣が決定した大宮が有田を殴りつけるシーンは衝撃的で切ない。これに関しても「上司に不義をはたらくことで南方派遣軍から外してもらう」という大宮の策略があるのだが、それを大義名分とばかりに馬乗りになって何度も有田の顔を殴りつける。暴力を振るってもらえないくらいならこちらから振るってやろうという腹だ。しかし暴力では有田と繋がり合うことができないことは大宮も重々承知している。それは策略という必然性が許した一度限りの愛の交感なのだ。切ない。 戦局はますます悪化の一途を辿り、遂に全部隊に出征命令が下る。兵隊たちは汽車に乗り込む。幾時間か経った頃、大宮と有田は汽車の先頭へ向かい、機関車と客車のジョイントを外す。大勢の兵士を乗せた客車を尻目に、大宮と有田の乗った機関車は満州の平野をどこまでも悠然と突き進んでいく。それはさながら愛の逃避行だ。しかも本作全体に挿入される有田のモノローグからもわかるように彼らの脱走は成功を収めることができたようだ。 その後二人の関係がどのような顛末を迎えたのかは明かされないが、正直うまくはいかないんじゃないかなあと思う。そこを敢えて描かず機関車が去り行くカットで映画を終幕させた増村の徹底した耽美主義に拍手を送るべきだろう。
フルメタルジャケット
初見。 田村高廣の代表作、いい役だ。 寅とリリーに触発されて、でも、だからこそ、日常側に戻る船越英二を想う。 敵も戦闘も出さず寧ろ喜劇な反戦。 フルメタルジャ〜の原典か。 階層毎に疲弊腐敗絶望する兵士たちを強烈な異物たる勝新の目線で炙り出さんとする撮る動機の強度。 支持。
中学生一年の時見た。テレビで見たと思うので、差別用語を使うような場...
中学生一年の時見た。テレビで見たと思うので、差別用語を使うような場面は、カットされてコマーシャルだったと思う。今日はTSUTAYAで9本借りてきた。
勝新の当たり役の一つ
満州の関東軍に配属された型破りの初年兵が主人公(勝新太郎)、相棒となるのは軍隊が大嫌いなベテラン上等兵(田村高廣)。 二人は権力を笠に着る上官をこてんぱんにやっつけていく。 戦局が悪化し、二人は逃げ出すことに。 このコンビ、とても面白い。
国民を乗せた日本という客車を軍国主義に向かおうとする機関車から切り離せというのが、本作のテーマだったのです
さすが増村保造監督の作品です 単なる娯楽映画では決してありません 冒頭、大映マークと共に兵隊ラッパが鳴り響き、主人公の有田上等兵のモノローグで始まります 兵隊の話はもうごめんだって? 私も同感だ 20年が経った今でもカーキ色を見ると胸糞が悪くなる 本作は単独で娯楽映画として十分に面白く、楽しめます しかしこの作品のテーマを理解する為には、事前に見ておかなければならない映画があります 一つ目は1952年の真空地帯 二つ目は1959年から1961年の人間の條件全6作 この二つの映画を見ていなければ、本作を観ても娯楽映画として楽しむだけに終わってしまうかも知れません それではもったいなさすぎです 本作はその二つの映画に対してのアンサーなのです 真空地帯は、人間性を吸い出して真空にしてしまう軍隊の非人間的な実態を初年兵の目で描いています 人間の條件は、大学出の元エリートの上等兵の目からソ満国境に駐屯する日本軍の実態を描いています そう、本作はその二つをかき混ぜた舞台設定なのです 兵隊の話はもうごめんだ 思い出したくもない嫌な思い出はその二作に濃縮されて詰まっています そこに、このような初年兵や上等兵がいたらどれだけ痛快であったろうか!という映画なのです 本作を観るかって軍隊生活を送った人々にとっては、溜飲を下げてくれる映画であるのです そして戦争に行かなかった若い世代にとっても こんな生活は絶対にごめんだと感じるでしょう 共通するのは、戦争に負けて良かったのだという思いでしょう つまり本作は強力な反戦映画なのです 戦闘により人間が破壊されるのか、戦闘以前に人間が破壊されるのかの違いであって、後のベトナム戦争を描くアメリカ映画と共通するものなのです 脱走して自殺する初年兵の名前は野木です 日露戦争の英雄、乃木将軍をもじっています 南方に転戦すべく彼らの部隊は軍用列車で雪の満州平野を進んで行きます 南方のフィリピン、ビルマ、ニューギニアなどは既に戦況は悪化どころか全員戦死の運命が確実に待ち構えていることを、兵隊達はみな知りながら眠りこけているのです 途中蒸気機関車だけが切り離なされて、兵隊達を満載した客車は雪の平原の中に取り残されます 兵隊達が戦場に行こうとしているのではない 機関車が彼らを戦場に連れて行くのだという意味です つまり軍国主義の政府が機関車にメタファーされているのです 大宮と有田の二人が、南方に送られて戦死するくらいならと機関車に屋根伝いに乗り込み、機関士と缶焚きを実力をもって従わせて客車との連結器を外させたのです もちろん革命の暗喩です 国民を乗せた日本という客車を軍国主義に向かおうとする機関車から切り離せというのが、本作のテーマだったのです だから大宮初年兵は下層階級の男であり、あれほどまでにタフで強いのです そしてインテリの有田上等兵は、大宮から信頼され有田の指導に従うのです そして二人は機関車の切り離しに成功した時、カーキ色の軍服を蒸気機関車の缶の炎の中に投げ入れるのです つまり戦争放棄のメタファーです 機関車の奪取に拳銃が必要であったのは当然です しかし二人は機関車の奪取に成功したあとも、拳銃を護身用に必要と考えているのか捨てはしなかったのです 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼をしていないのです 戦争は放棄しても、自衛は放棄していないのです シナ服は当然中国人に扮装して逃げる為です つまり情報工作活動です 生き延びるためには情報工作も必要なのです 本作は単なる娯楽映画では無いのです かといって左翼臭い洗脳映画では決してありません 正しいバランス感覚のある反戦映画だと思います
やはり勝新の存在感
人気シリーズの第一作目。1965年増村保造監督。勝新と監督目当てで鑑賞。 満州の北の果てに駐留する関東軍。最後まで敵との戦闘シーンは無く、軍隊の中でのしごき・いじめ・体罰の嵐。その中で軍隊嫌いな二人(勝&田宮)が友情を育むというかなりな変則的戦争映画。 とにかく愛嬌たっぷりな大宮=勝新が最高。有田上等兵がそんな大宮を可愛がるのも理解できる。大暴れするのも反抗するのも筋が通っているのだ。だが半端なく暴力的な映画なのでその辺に抵抗ない人にしかオススメはできない。とにかく全編荒々しい(指のシーンとか特に)。軍隊というのはそういう暴力と不条理がまかり通っている所なのだ、というメッセージでもあろう。 インテリ上官と愛嬌豪腕コンビに友情以上な匂いも漂わせ、ラストに向かってゆく。有田上等兵のクールなナレーションも効いて映画を締めていた。 増村監督はシリーズでこれのみの監督だがバランスのとれた見事な手腕を発揮していたように思いました。
日本が勝ち進んでいるのは天皇陛下のおかげ
戦争映画といっても実際に敵国と戦うシーンは全くない。満州の兵舎において上下関係の厳しい兵士の実態を描いたもの。その点では山本薩夫監督の『真空地帯』と似ているかもしれない。新しいところでは新藤兼人監督作『陸に上がった軍艦』なんかもそうだ。「日本が勝ち進んでいるのは天皇陛下のおかげ」とか、何かにつけて天皇陛下を賛美する声もあるが、どこか虚しく響く。 上等兵の田村高廣のキャラもなかなかいい。大卒で試験さえ受ければ将校の道が開けるのに、あと1年辛抱すれば除隊できると、昇進試験を受けないでいる。暴力は嫌いで、ビンタが名物ともなっている兵舎において、初等兵を殴ったことさえなかったのだ。そんな弱々しい上等兵に元ヤクザの大宮(勝新太郎)が預けられる。暴力には暴力ではなく、頭を使った上官の手腕を期待されていたからだ。 問題はいっぱい。上官を上官とも思わない態度。すぐにケンカ。それでも今の常識から考えればまともだというところが面白い。強い男ということもあるが、真っ当なことが通らないのが旧日本軍。痛快という言葉だけで評価するのは惜しい。
勝新太郎がチャーミングすぎて吃驚。
田村高廣との掛け合いなんて殆どカップルのそれで、なんとも微笑ましい。こんなタイトルだけれど、戦争映画でもヤクザ映画でもなく、男二人が終始イチャイチャしてるだけという大変に牧歌的な作品で、最後まで明るく笑って観られる。後続のシリーズ作品もおいおい観ていきたい。
男臭くはない男の話
勝新太郎演じる新兵が、教育係の田村高廣との間に不思議な友情を育んでいく物語。 組織の垂直性と暴力が支配する軍隊生活への怨念を、これでもかというほど描いている。どこまで現実の軍隊内部のリアリズムに迫っているのかは別として、暴力機関である軍の内部が、このように内に向いた暴力で満ちていたとすれば、外国の軍隊との戦闘をする以前に疲弊してたであろう描き方である。それとも、血の気が多い男たちの社会には、このような暴力がエネルギーのはけ口として必要だったいうのだろうか?冒頭の田村のナレーションの声を聴く限りでは、こうしたことを忌み嫌っている視点からの語りだということになる。 この物語の面白いところは、男社会の中で、その暴力性や権威主義に背を向けている男が、その暴力に満ちた男の世界を突き抜けてしまった男と心通わせるところにある。本来であれば、お互いの生き方を認めるはずのない地点に立っている者同士が、双方の尊厳や命を守るために身を投げ出し合う。 ホモソーシャルに背を向けた男同士のたどり着くのは、ホモセクシャルという映画は観たことがるが、ここにはホモソーシャルを超越したホモソーシャルな関係が発生するのだ。この映画は、この新たな関係を描くことで、戦争や軍隊という暴力を批判している。
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