「人類の人類に対する罪と神から受ける罰と許しを強く意識させ、感情を動かされる最高のアニメ映画」フランダースの犬(1997) eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
人類の人類に対する罪と神から受ける罰と許しを強く意識させ、感情を動かされる最高のアニメ映画
絵の才能があり画家を目指している主人公の少年ネロは生活は貧しかったが優しいおじいさんと犬のパトラッシュと共に仲良く暮らしている。ネロは絵画コンクールに入賞して画家として成功することに人生の希望を託しているが学費も絵具代もなく厳しい。そんなある日、神の奇跡が起こる。
点数:5.0。お勧めします。すごく泣けます。目がウルウルするなどではなく滝のように涙がでます。犬という嘘をつかなそうな存在と嘘をつく冷たい大人たちとが対比されさらに悲しくなって泣けます。
この作品はキリスト教的な「人間の罪」がテーマとなっていると思った。ネロや友人の少女や疑り深い大人たちや金をとる教会や見る目がないコンクールの選者など誰もがいろいろな「罪」を負っていてパトラッシュという犬だけが「罪」を負っていない存在として描かれている。周囲の助けさえあれば将来有望な主人公ネロは「えん罪」という「罪」を負わされていてそれが共感できるので私はすごく泣けました。
視聴:液晶テレビ(有料配信アニメタイムズ) 初視聴日:2025年7月27日 視聴回数:1(早送りあり) 視聴人員:1(一人で見た)
追記1:
1988年の日本のSFロボットアニメ映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988年)ではネオ・ジオン軍総帥シャア・アブナブルが、自己の利益を優先し争いをやめず破壊行為にまい進する人類の罪深さに絶望し、小惑星アクシズを地球に落として人類に罰を与えようとした。だがフラ犬では社会的弱者のネロとパトラッシュを無残に見捨てた人々に罰を与えるものはいない。差別や偏見を作り出したのも人類であり、貧富の差をつくったり他の動物をいじめたり戦争をして弱者を排除するのも人類である。だから人類は罪深い。フラ犬での哀れな人々は生き残った大人たちのほうである。彼らは権力者が怖くて正義を主張する者は誰もいなかった。その点シャア・アズナブルは主人公のアムロ・レイよりも究極の理想を追い求める正義の人だと思った。主人公のアムロ・レイはシャア・アズナブルとは対照的に現実主義者の正義の人である。彼は人類が反省し悔い改めれば罪を許す事を選択した。
追記2:
スタジオジブリの宮崎駿監督作品の「君たちはどう生きるか」(2023年)と本作は共通点があると思う。「君たちはどう生きるか」(2023年)の主人公の眞人は同級生にケンカで負けた腹いせにわざと自分の頭を石で打ちつけケガをつくりその同級生に罪をなすりつけ権力者の父の力を使って仕返ししようとする。しかし物語の最後には眞人は成長し自分のしたことを反省して「この傷は自分でつけました。僕の悪意のしるしです。」と自分のした罪を悔い改める。この「君たちはどう生きるか」(2023年)も本作も「罪」の話である。登場人物たちは主人公も含めてすべて「罪」を負った人たちである。そして「君たちはどう生きるか」も「フランダースの犬」も主人公だけが「罪」を悔い改める。「フランダースの犬」の主人公ネロはえん罪であるが結果として教会という罪を悔い改めるための場所で倒れる。ネロは形式的には罪を悔い改めたことになる。すべての人には「罪」があるが眞人もネロも唯一の反省者ということが両作品の共通点である。そしてこの「フランダースの犬」には続きがあり、ネロと仲が良かった少女が大きくなって修道女となりネロと同じような孤児の面倒を見ている。修道女となった彼女もまた「罪」を自覚し悔い改めている。話を変えるが「君たちはどう生きるか」(2023年)でいちばん興味深いキャラクターは主人公の眞人を塔に閉じ込めようとした大叔父である。彼は物語中で終始善人として描かれるが実はいちばんの大罪人である。罪のない鳥たちや若い眞人の母やキリコや夏子を塔に閉じ込め子孫の眞人までも大嘘の大義名分をかかげて塔に永久に閉じ込めようとした。彼の積み木は悪意でできているのでそれを積まないと塔が崩れるというのは大嘘である。塔が崩れた原因はインコ大王が偶然に石の積み木を剣で真っ二つにしたからだと思う。本当の大叔父はもう死んでいてあの作中の大叔父の正体は悪の魔法使いである。彼は石を壊されると死ぬという弱点があった。なので眞人は石を積むと塔を出られなくなっていたと思う。善人そうな人物が実は大悪人という設定は「フランダースの犬」にも通じる興味深い設定だ。このように人類は気が付いていないだけですべての人類は悪人であり罪を負っている。
追記3:
ロシア帝国時代のドストエフスキーの小説「罪と罰」(1866年)は本作「フランダースの犬」と同じように「人間の罪」を扱った作品だ。現代の日本の人口の半分以上は年収400万円以下であり税金や養育費や物価高や家賃や光熱費などで所得は引かれていくので日本の人口の半分以上は実質貧困層であるが、多くの哀れな日本人は愚かなテレビ番組や大嘘のスマホの売れっ子タレントや年収が数十億のプロスポーツ選手を一日中見ては自分も同じ金持ちであるかのように錯覚させられている。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは法律を学ぶ貧しい学生で「フランダースの犬」の主人公ネロも貧しい少年だ。つまり両作品の主人公たちは国民の大半を占める貧困層のことを指している。自分が貧困層であることを自覚してこの両作品を自分事としてとらえたほうがいいと私は思う。ラスコーリニコフもネロも大部分の国民のことを指している。「罪と罰」の話の中で主人公のラスコーリニコフは強盗をして本当に罪を犯してしまう。ラスコーリニコフは法律を自分の都合のいいようにねじまげて解釈して大義名分をつくり金貸しの老婆とその妹の命を奪ってしまう。ラスコーリニコフは犯行後、家に閉じこもって大いに罪の意識に苦しむようになる。自分の大義名分のためとはいえ普通に暮らしている老婆の命を二人も奪ってしまったので悩むようになる。ネロとラスコーリニコフは罪の種類は違っても神に罪を悔い改める同じ結果になる。ラスコーリニコフはヒロインの少女ソーニャに罪を打ち明け悔い改める。ソーニャは聖母マリアの暗喩でありラスコーリニコフは彼女によって心が救われ自首をする。
追記4:((映画「ジョーカー」(2019年)と本作の共通点))
人類は罪を負いながら生きている。その罪を裁いたり許す、すなわち「人類を救う」存在が必要である。逆に言うと罪を裁かれない、許されない人類は救われない。主人公ネロはすべての人類の罪を背負って教会でパトラッシュと倒れたので彼は人類の救世主キリストである。作者はネロとパトラッシュをかわいそうに描いてはいない。キリスト教では死者の復活が信じられているのでネロとパトラッシュはキリストと信者の比喩でありそういう見方をするとこの物語は悲劇ではなくなり感動劇または喜劇となる。悲劇と見せかけて実は喜劇だったという作品は2019年のアメリカの実写映画「ジョーカー」(2019年)だ。映画「ジョーカー」の主人公アーサー・フレックは突然笑い出す障害をもつ障害者であったが、真面目な性格の常識人で社会的に道を踏み外さない誠実さをもち、スタンダップコメディアンになるという夢をしっかりともち、現在はピエロ派遣会社の派遣ピエロとして働いていた。彼は心理カウンセリングや投薬の治療を受けたり、社会からの理不尽な差別と暴力に耐えながら、人生を懸命に生きていた。ニューヨークの街は清掃会社のストライキによりゴミが回収されず街中にゴミがあふれかえっていた。派遣ピエロの仕事をしているアーサー・フレックは町で仕事中に貧しい不良少年3人組にからまれひどい暴力を受ける。アーサー・フレックは同僚のピエロに相談すると同僚のピエロは護身用にと実弾入りの拳銃をくれた。その後不運なことにアーサー・フレックは子供病院での派遣ピエロの仕事中に拳銃を所持していることを見つかりその場で派遣ピエロの仕事を失ってしまう。失意のなかアーサー・フレックはピエロ姿のまま地下鉄に乗るが車内で素行の悪い大企業のエリート若手社員3人組にからまれる。アーサー・フレックはまだ所持していた拳銃で素行の悪い大企業のエリート若手社員3人組を全員撃ち無慈悲にも命を奪う。アーサー・フレックは我に返り黙って家に帰る。家で見たニュースではこの大事件のピエロ姿の犯人がまだ見つかっていないことを告げる。~~中略~~。アーサー・フレックはその後自分の人生は悲劇ではなく喜劇だと気が付く。映画「ジョーカー」と「フランダースの犬」は共通点があると思った。「ジョーカー」の主人公アーサー・フレックも「フランダースの犬」の主人公ネロも生まれながらに悲惨な人生をたどりながら物語の最後には「救い」を自分の力で発見する。ネロは自分の足で教会まで歩いて行って見たかった絵を見て死ぬことによって救われ、アーサー・フレックは最初はテレビ局で自殺しようとしていたがテレビ局でマレー・フランクリンを倒しジョーカーになることによって救いを得た。ネロは人類の罪を一身に背負い死ぬことによって自分を救い、またネロを集団ストーカーしていじめた町の人々におのれの罪を気が付かせたことにより町の人々を救った。ネロを集団ストーカーしていじめた町の人々はネロの死によって自分たちの罪に気が付き救われた。このラストは人類の罪を一身に背負って死んだネロの犠牲によって町の人々は救われたと解釈できる。一方でアーサー・フレックもまた悪人を倒し貧しい人々を救った。アーサー・フレックが倒したのは、素行の悪い大企業のエリート若手社員3人組と児童虐待をしてアーサー・フレックの障害の原因を作った母ペニー・フレックと障害者を馬鹿にし差別した同僚ピエロのランドルと視聴率をかせぐためアーサー・フレックを侮辱し自分の番組のために食い物にした大物コメディアンのマレー・フランクリンだ。彼らはみな人類に対する罪を犯している。アーサー・フレックは彼らの罪を裁き、人類を救ったのだ。また、口先だけわかった風で本当の市民の苦しみがわかっていない政治家トーマス・ウェインもアーサー・フレックの行動がきっかけで倒されている。私は結局はアーサー・フレックは罪人たちを裁くことによって、ネロは罪人たちの罪を肩代わりして自分が死ぬことによって両作品は「人類を救う物語」だと思った。
追記5:
これまで人類の罪とそれを裁き許すことがテーマの作品を取り上げた。「フランダースの犬」(1977年)が感動的なのはネロが人類の罪を肩代わりし人類が裁かれ許されたと視聴者が感じたからである。映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988年)ではシャアが罪深い人類を裁こうとするがアムロは人類を許す。映画「君たちはどう生きるか」(2023年)では主人公の眞人が自分のことしか考えず同級生や家族を自分勝手に利用しようとした自分の罪を正直に告白し罪が許された気分になる。小説「罪と罰」(1866年)では主人公のラスコーリニコフがヒロインのソーニャに罪を告白して警察に自主し罪が裁かれ許される。映画「ジョーカー」(2019年)では主人公のアーサー・フレックが神と同等の力を持つジョーカーに変身して悪人たちの罪を裁き許してやる。このように視聴者は、「人類の罪」が裁かれ許されると感動を感じるのである。ネロ自身は死んでしまうが彼を取り巻く人々は人類として生きのこって罪を負わなくてはならない。そしてその罪は裁かれ許されないと人類は決して救われない。人類はその歴史において罪を重ねている。争い、戦争、暴力、破壊、差別、偏見、性犯罪、格差、詐欺、ものの奪い合い、上から目線など人類は罪を重ねてきた。ネロはその人類の罪をすべてひとりで肩代わし、自らが神の生贄となったと思う。それはキリストと同じである。ではフランダースの犬ことパトラッシィはネロにとってなんだったのだろうか。私はパトラッシィは精霊だと思う。キリスト教では三身一体の教えがあり、神(父)、キリスト(神の子)、精霊が一体という教えがあるがそれぞれ教会、ネロ、パトラッシィが相当すると思われる。そうするとヒロインのアロアは聖母マリアということになると思う。人類の罪を裁き許す方法はいろいろある。