「権力に使い捨てられた不器用な男の哀れな悲しみを描いた良作」人斬り pipiさんの映画レビュー(感想・評価)
権力に使い捨てられた不器用な男の哀れな悲しみを描いた良作
ソフト化されていない本作がアマプラで観られるとの情報に、急ぎ鑑賞。
いやぁ、武市半平太が悪(ワル)だわぁ。
以蔵を主役、武市を悪役に据えた脚本だから致し方無いけれども、後の歴史人物イメージに与えた影響は多大過ぎるんじゃないかな?
武市は潔癖で高潔だと思うので、非情なエゴイストとして描かれた下記のシーンは残念に思う。
原作では、牢にて以蔵の事を「知らぬ。以蔵ではない。」と否定したのは、武市ではなく山内容堂の再組織させた藩内閣の警吏だ。
この時、すでに武市一派は捕らえられ、凄まじい拷問に耐え続ける日々を送っている。
しかし、1人でも多くの同志を活かす為、誰も口を割らない。
容堂は武市一派を抹殺すべく、以蔵を手に入れたのだ。
しかし、以蔵には武市も藩も区別はつかない。武市達同様の恐ろしい拷問が加えられたが以蔵は藩憎しで吐かない。その代わりに凄まじい大声で情けなく泣き叫ぶ。
武市が毒を差し入れたのは、むしろ温情だったのだが、以蔵に理解出来る筈もない。
「飼い犬を利用し、支配しようと続ける主人に対する憎悪」が以蔵を貫いたのだろう。以蔵がすべてを暴露したのは映画の通りだ。
もっとも、史実では牢では「ただの脱藩者」として処理され、土佐に戻ってからは女子供でも耐える程度の拷問で口を割ったらしい。
以蔵の自白により真っ先に犠牲になったのは武市の身内。にも関わらず、以蔵毒殺を提案する仲間達を止めたのは武市であった。
ま、武市の弁護はこの辺にして、勝新の創り出した以蔵には非常に納得であった。
実在の以蔵の写真などから痩躯の印象が強かったが、司馬遼の文章にはこうもある。
「学問が無く、学塾に行くほどの頭脳もなかった」
「血に飢えた狼が噛み付くような下品(げぼん)な身動き」
「掛け声も品がない。獣が咆えているよう」
「髪の生え際が不揃いで、毛がちぢれており、目がくぼみ、眼裂が赤くただれている。やや猫背」
「無教養で言葉の使い方を知らない」
「泣きっぽく、不甲斐なく顔をくしゃくしゃにして泣き喚く」
「以蔵にとっては、武市も龍馬もどちらも「偉い人」だから、理に誤りがあるはずはない、と考えている。攘夷・開国の違いもわからぬ」
なるほど!勝新、ある意味、雰囲気ぴったりではないか!(笑)
外見の印象よりも、重要なのは中身。
野生的で涙脆くて人情家かつ愚鈍な以蔵であれば良いのだ。斯して、勝新オリジナル解釈の岡田以蔵が誕生したわけだが、実に人間味があって良いと思う。
裕次郎。まぁ、脚本でもう少し上手く龍馬を使えた気もするが、勝が食われても困るからあの程度でよいのかな。
そして三島!
私が物心ついた時には、すでに市ヶ谷事件後であった為、銀幕の中とは言え、そこに三島由紀夫が存在している姿は感慨深い。
カメラに見事な上腕二頭筋が映し出されるが、幼少期から虚弱体質だった三島がいつ肉体改造したのかな?と、思わず調べてしまった。30歳頃、「金閣」寺執筆の頃かららしい。
大手映画会社達の五社協定が崩壊し、映画スター達の独立プロダクション設立が相次いだ時期、勝プロ立ち上げて間もない頃に放たれた、渾身の作品の一つに間違いない。
権力闘争の中で使い捨てられた、暗殺しかできない男の、きわめて荒削りでむき出しな、おろかであればあるほど哀切深い悲しさが描かれている。
それはまた、長年尽くしてきた大映に対する勝新の心情。
豪快な一匹狼を装いながらも、組織と完全に切れる事は出来ない情けなさや惨めさを「以蔵」というキャラクターに投影した勝自身の物語でもあったのだ。