「見えないレイヤー」彼岸花 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
見えないレイヤー
小津安二郎はじめてのカラー映画だそうです。小津映画解説でよく引き合いにされる赤いやかんも出てきました。
大企業の常務である平山渉(佐分利信)が長女節子(有馬稲子)の突然の嫁入りに気を揉むという話で、父としての心境の変化をコミカルに描いていきます。
佐分利信が演じる父は、他の小津映画で笠智衆が演じる優しい父ではなく、昔ながらの封建的な父です。
前段で友人や人の娘にたいしては、結婚は当人の主体性に任せるというリベラルな結婚観を披瀝しておきながら、いざ自分のところへ佐田啓二が「娘さんをください」と願い出てくると、すっかり憤慨し、実質的に節子を家に軟禁してしまうのです。今なら虐待になるでしょう。
彼岸花の主題は娘を嫁にやる父の悲哀ですが、同時に父と母もしくは夫と妻の課題の違いが描かれています。
両者の意識と役割の差を如実にあらわしている会話がありました。
一家は箱根へ家族旅行に来ていて娘二人は芦ノ湖で手漕ぎボートに乗っています。湖畔でその様子を眺めながら、夫婦は久しぶりの一家団欒にしみじみとしています。
平山清子(田中絹代)『戦争中、敵の飛行機が来ると、よくみんなで急いで防空壕へ駆け込んだわね。節子はまだ小学校へ入ったばっかりだし、久子はやっと歩けるくらいで。親子四人、真っ暗な中で、死ねばこのまま一緒だと思ったことあったじゃないの』
平山渉『うん、そうだったねえ』
清子『戦争はいやだったけど、時時あのときのことがスッと懐かしくなることあるの、あなたない?』
渉『ないね。おれはあの時分がいちばんいやだった。ものはないし、つまらんやつがいばっているしね』
清子『でもあたしはよかった。あんなに親子四人がひとつになれたことなかったもの』
渉『なんだ、このごろおれの帰りがちょいちょい遅くなるからか』
清子『でもないけど。四人そろって晩ご飯食べることめったにないじゃない』
渉『そりゃあおれの仕事がだんだん忙しくなってきたからさ。そのかわり暮らしもいくらか楽になってきたじゃないか』
清子『でもやっぱり』
渉『やっぱり、なんだ?』
清子『ううん、もういいの』
この会話には三つのポイントがあると思います。ひとつ目は戦争、ふたつ目は高度成長期、みっつ目は家父長制社会です。
戦争が必要悪となって家族・夫婦の絆をつくり、戦争がおわると高度成長がきて夫は忙しくなり、夫の収入をあてにする妻は必然的に夫に従属的になる──という図式がこの会話から見えてくるからです。
小津安二郎の映画は総じて、戦後、民主化と西洋化の波が一緒くたになって押し寄せ、社会と文化が急速に変化しているときの映画です。平山はじぶんのビジネスや仕事量がじょじょに拡がることと、収入がふえるのを日々実感しながら、一方で娘が結婚するというごくありふれたイベントに直面しなければなりませんでした。これらの社会背景は小津映画のダイナミズムと無縁ではありません。父が娘を嫁にやるという珍しくもない出来事を描いた映画がわたしたちの心をうつのは、娘の嫁入りに戦後と高度成長期と家父長制社会(封建社会)が絡んでくるからこそです。彼岸花や秋刀魚の味を、今リメイクしたって面白くもなんともないわけです。
おそらく父・夫の気持ちは純粋な寂しさからくるふてくされだと思います。彼は封建的で頑迷な男ではありますが、最終的には、娘のためなら自我は引っ込めておこうとする賢さもありました。母・妻とは当初意見が食い違いましたが、完全に決裂することはありませんでした。
ある意味、平山渉の強情さを突き崩したもの、つまり封建的な男を教育した出来事が戦争だったとも言えるはずです。小津映画で「つまらんやつがいばっているしね」という台詞を聞いたのは二度目ですが、復員した男たちが、威張っている者とそれに隷属する者の構造、家父長制社会に不条理を感じるのは順当なことだと思います。敗戦が男たちの意識を変えたのです。
旧友である佐分利信、中村伸郎、北竜二らはクラス会をやりますが、そこで笠智衆が詩を吟じます。生きて帰ることはないと決心したので如意輪寺の門扉に矢じりで辞世を彫った──という太平記の一場面となる楠木正行の詩だそうです。そんな詩をしんみり聴くのはこの時代のクラス会が必然的に戦争で生き残った者の再会になっているからでしょう。
娘たちのあたらしい門出と戦争での喪失が同居していることも小津映画のダイナミズムを支えているはずです。
つまり、わたしたちは赤いやかんなど絵的に美しく配置された小道具に小津映画の美学を見いだしますが、じつは戦争や高度成長期や家父長制社会・その崩壊という、絵には見えない奥のレイヤーがあるからこそ小津映画はわたしたちの心に響くのだ、と思ったのです。
一方で、小津映画は日本の裕福な一側面だとは思います。平山は都心で仕事をしていますが、家には縁側がありどこからともなく練習中のピアノが聞こえてくるようなのどかな戸建てです。清子は専業主婦に見えますが女中を雇っていますし、帰ってくると背広を着物に着替え、風呂にするか晩ご飯にするか選ぶような暮らしぶりです。
こうしたポジションの人々を描くのは、おそらく衣食足りて礼節を知る──からだと思います。衣でも食でも住でも、足りないのであれば、娘の嫁入りが悲しい父の悲哀を描く以前の問題になってしまうからです。娘の結婚に対する父の心境に焦点をあてたいのであれば、他の問題が見えては焦点がぼやけてしまうからです。
と同時に、小津安二郎に、映画とはきれいなものを描くものだ──という強固な信条があったから、だとも思います。小津映画の、現代の日本映画よりも美しい画面構成や女たちを見ればおのずとそれがわかるはずです。
撮影に際して赤の発色がきれいという理由でわざわざドイツ製フィルムを選んで使ったそうです。そのせいか、赤いやかんが、たしかに鮮烈な赤でした。
また、すでにカラフルな彼岸花のコントラストをさらに強くしていたのは山本富士子でした。その母役の浪花千栄子が演じた、やかましくてそそっかしいキャラクターも出色で、昔の映画だと思ってたかをくくっていましたが、所々ほんとに笑えました。
英題Equinox Flower、imdb7.8、RottenTomatoes88%と87%。