「脚本・寺山修司という地獄」初恋・地獄篇 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
脚本・寺山修司という地獄
さあ羽仁進を観るぞ!と勇みながらビデオデッキを立ち上げたものの、冒頭で「寺山修司」の名がデカデカと表示された瞬間に何か悪いものを直感し、それは現実となった。
ショートコント的に連発される過激な表現主義的描写は、隣接するシークエンスと共鳴することも時間経過との比例関係を取り結ぶこともなくただただ単発的に並べ立てられていく。気を衒った画角を狙ったり女の裸を躊躇なく活写したりするような小手先のテクニックで映画が色気を帯びるわけもなく、ひたすら退屈な2時間を強いられた。
物語にしてみても「拗らせた青年がファム・ファタール的な女との出会いによって煩悶する」という凡庸きわまる代物であり、今更何か言及する気にもならない。
映画にいっちょかみしようとする左翼系演劇人の空転ぶりは『田園に死す』で既に証明済みであるのに、こともあろうに映画人が彼らの暴挙に手を貸してしまうとは何事か。本作だけでは羽仁進の本懐は図りかねるとは思うものの、本作のような最悪の一例を知ってしまうともはや気が進まない。
ただ、70年代の上野周辺の雰囲気を知るための映像資料としての価値はあったように思う。
23区東部が東京最大の都市であった頃はそこかしこに市電が張り巡らされ、東北の玄関口たる上野もまた現在とは全く異なる活況を呈していた。
おりしも石川淳『焼け跡のイエス』を読んでいたのだが、そこで繰り広げられていた混沌ぶりに、私はふと本作の上野を重ね合わせていた。『焼け跡のイエス』では上野の市場を抜けた主人公が人気のない上野東照宮で浮浪児に襲撃される一幕がある。混沌と静謐、聖と俗の隣接性が上野という街の磁力であることを見抜いていた石川による見事な描写だ。
『初恋・地獄編』もまた主人公が「友人」である少女と上野公園裏手の寺院で逢瀬を重ねるのだが、ここに関しては上野という空間の精神への卓越した理解があったと評価できる。本作のロケ地を選定したスタッフにだけは手放しの賞賛を送りたい。