初恋・地獄篇のレビュー・感想・評価
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ヌードモデルと心を閉ざした若者の、壊れ易くして実らなかった初恋物語の虚しさ
羽仁進監督作品の初見学。この一作だけでは、羽仁監督の演出の特徴を述べることは出来ない。ドキュメンタリー映画の演出タッチは窺えるが、それ以上の個性は感じられなかった。関心を抱いたのは、この60年代後半の時代を背景とした青春映画の暗さである。個人的な子供時代に経験した世の中の雰囲気は、もっと明るく未来に対して楽観的だったはずだが、日本映画界の斜陽とリンクするかのように映画の内容も暗い。強いて挙げれば、大人と子供の間にあった価値観の相違が戦後の高度成長と共に広がり、安保問題と反戦の主張を告発した学生運動の社会的なムーブメントによる焦燥感の深刻さだろうか。若者の価値観がひとりでに大きな社会批判となり大人社会と対立して、その闘争の激しさが社会不安を煽っていた。しかし、その状況下で傍観していただけの若者がいたことも、また事実である。
この映画の主人公は高校を卒業後大学には進学せず、家業を継いで地道に生活する若者だ。だから授業をボイコットしてまで抵抗した学生運動の背景は描かれていない。それなのに暗いイメージにつながるのは、彼の中に人生の目標がなく、あくまで生きて行くだけの為に家業の仕事がある。そんな主人公の若者らしい欲望は、女性との性交渉に直結する。街で知り合ったヌードモデルの女性と連れ込み宿へいって行為に及ぶが、上手く行かない。と言うのも、彼の家庭環境の特殊性が大きく影響している。育ての両親がいて、その父親が同性愛を強いる少年期があったためである。映画は、そんな孤立した若者が公園で知り合った少女に性的な興味を抱く倒錯した世界まで描いている。この男女のセックスに到達していない若者の、欲望が彷徨う未成熟さを表現する寺山修司脚本の独特な世界観が、作品全体のイメージを構成している。それに対比させて、ヌードモデルに関わる好色な大人たちのマニアックな写真撮影を描く。理解に苦しむのは、少女役に羽仁監督が実の娘を使っていること。悪戯をされる少女にまだ性的欲求を知らない実子の配役は、表現者としての配慮なのかもしれないが、親としては大胆であろう。ラストはタイトルの地獄編を象徴するエンディングで終わり、悲劇的な若者の青春残酷劇として完結する。打ち砕かれた性の欲求の彷徨と、それでも初恋の体験に生きる意味を求めた若者の虚しさ。
1980年 4月10日 フィルムセンター
ドラマのストーリーとは直接関係ないが、文化祭での8ミリ映画の不出来を言い訳する発表場面が可笑しかった。自分も高校生の頃から8ミリ映画を制作していたが、どうしても編集で誤魔化せない駄目なところを承知で使わざるを得ないカットがあった経験がある。素人ならではのあるあるエピソード。この登場人物には、甚く親近感を抱いてしまった。
暗い過去
ホテルではキスしかできなかった童貞のシュン。暗い過去がそうさせたのか、本気で好きになったのか、とりあえず2人は恋人同士になった・・・。シュンにはいつも行く公園で幼いガールフレンドと遊んでいた。が、あるとき、おしっこさせていたところを目撃され、幼女レイプ魔と思われたのか、男たちに取り押さえられる。そのとき精神鑑定を受けるのだが、ショウは幼い頃から彫金師の養父(満井)に何度もレイプされたというトラウマがあったのだ。
ナナミは相変わらずヌードモデル。ときには変態プレイをさせられるような撮影会でも脱いで踊ったりする。
最後には精神的に立ち直ったシュンは、今度こそちゃんとセックスできるからとナナミとホテルに行く約束をする。が、変態プレイで儲けようとする男どもに追いかけられ、敢無く事故死というエンディング。
ドキュメンタリータッチを多用した作品。アフレコの台詞は口に合わせず、すべてがナレーションのようだ。感情移入させるよりは、現代の性風俗や若者の考えとか、高校にも行けない彼らを見る世間の冷たい視線をテーマにしたような作品。
不思議なもので、高校の文化祭での8ミリ上映会のワンシーンだけカラーになってる。
寺山修司らしい設定
寺山修司らしい設定。
終始モノクロで
内容も至って単純。
恋をすると世界は変わりますね。
ただ、幸せにはなって欲しかったなあって思います(だったら地獄篇にはならないですけどね)
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