「部落解放活動の前身」破戒(1962) Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
部落解放活動の前身
部落解放運動家、猪子蓮太郎(著書『懴悔録』)の心が一番わかりやすく、感情を移入しやすい。
猪子(三国連太郎)は自分は部落民の出身で 自称穢多だとし、部落解放運動の前身に入っているたくましい人だ。この人は実在かどうかは知らぬが、私感だが、水平社(1922)の前身的な運動家なわけで、当時としたら(1906)稀に見る人権革命家であったわけだ。彼の思想がもっと詳しく解説されていたら、水平社の創始者たちも藤村の破戒を紐解いたかもしれないね。 それに、懺悔に満ち溢れていた瀬川丑松は嬉しいことに何が正しいかに気づき、東京に行って、猪子のような活動家を目指すようになっている。
瀬川丑松はなぜ、教えている生徒の前で謝ったんだろ? 私は感情的にも、論理的にもよく理解できていない。生徒に部落民だということを隠していたことより、嘘をついていたということで詫びる気持ちが強かったんだろう。でも部落民だと言うことを言わないことは嘘につながるんだろうか。生徒は先生に部落民かどうか質問していないじゃないか、嘘をついてはいないんだよ。生徒は家庭で部落民の話を聞いたことがあるかもしれないが、部落民の生徒はこの学校で教育されていないだろうから。生徒にとって、大人が持っている(全員ではないが)慣習を含めた差別意識があるだろうか!親から聞いていればあるかもしれない。でも明治の先生は明らかの聖職者と同様な立場だったと思う。それに子供の理解だから丑松先生がずうと嘘をついていたとは思っていないと思うなあ。丑松の生徒の前での謝罪を完全に理解するのは難しい。
この映画、それに藤村の小説。すでに読んでいるが、瀬川丑松に全てを感情移入しにくい。明治だから、現在部落民の存在がうやむやになってしまい歴史上の事実として学んでないから? それに、かず多くの部落民地域はジェントリフィケーションでその場は都市化されてしまったようだ。そこに居住していた部落民はどこに移されたか私には知る術もない。私は以前、教材として使いたくて大阪にある部落解放運動事務所と連絡を取ったことがあるが、もうその存在ですら危ぶまれているようで、資料を集めることが日本語以外の多言語できなかったのを記憶している。天皇をトップには言うまでもないが、士農工商穢多非人の江戸時代の負の遺産である身分制度が今でも残っていようとは大釈迦様も知らなかったろう。このカースト制がまたもや学校でのカースト制として頭を持ち上げてきたようだ。人間に差をつけることにたいする問題意識を持たないと。差別は心でこの問題を解決するとができる。教員の同僚の親友土屋(長門裕之)やシホや猪子の奥さん、住職たちのようにならなければならないと思う。
同僚、土屋は頭から丑松が穢多ではないと決めつけていた。本人に確認もせず。丑松の性格や傾倒している活動家、猪子の本を読みすぎて人に誤解されていると思っていた。早がってんの性格で丑松の心の悩みに寄り添えなかった。
しかしシホの一言で丑松に対する見方が変わった。シホは穢多では無い。シホは『丑松は穢多になろうとして生まれてきたのではない。両親がそうであっても丑松とは関係ない。可哀想な丑松。丑松と一生夫婦になるつもりだ』と土屋に。土屋はシホの言葉で目が覚めた。
でも、土屋の人権意識は丑松以外の穢多非人に対しても自分と同じだと考えられるだろうか?丑松は教養があって優秀だと思っているから土屋の心は変わったのかもしれないが。ここは私にとってこの作品の謎の部分だ。