長屋紳士録のレビュー・感想・評価
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当時の「再会すること」の重みを感じる作品。
○作品全体
終戦間もない時期の物語。街に戦争の爪痕が残り、孤児も当たり前のように街をうろついている。一方で物不足が少しずつ解消され、以前のような日常を少しずつ取り戻しつつある時期だ。ほとんどが余裕のない生活を送っていた時期が過ぎ、そこから抜け出す者もでてきた。
ガレキのままの建物の隣に、普通に生活できる家屋が建っているような、そんな「ゆとりのあるもの・ないもの」がはっきりとした世界で、長屋の隣人たちとのんびり生活するおたねと、父とはぐれた孤児同然の幸平が出会う。戦後東京の二つの面が顕在化したような二人の物語は単に戦争の悲惨さを語るのではなく、その時代を生きる人々を活き活きと描き出していた。
他人同士が出会い、親睦を深めて家族のような関係性になるが、本来の居場所へと別れていく。物語自体は今の時代に見るのであれば既視感あるものだったが、個人的にグッと来たのはおたねが幸平と別れたあと、泣きながら「父と再会できたことは幸平にとってどんなにうれしかったか」と話すところ。別れた悲しみより幸平の気持ちを慮るおたねの人柄が滲み出ていて良かったが、それに加えて戦争で二度と会うことができなくなってしまった人がいたり、独りぼっちにさせられてしまった子どもが当たり前のようにいる世界で、再び会えることがどれだけ奇跡に近いかということが伝ってくる涙だった。また、そんな世界を目の当たりにしてきたからこそ、おたねは別れの悲しみよりも再会できたことを喜べたのではないか、と感じた。
作品の主題としては、おたねが長屋の住人たちに話す「今の子どもたちは心に余裕がないといったが、余裕がないのは私たちだった。子どもたちのほうが心に余裕を持っている」という「近頃の若者は」的な世代の歪みをつまびらかにする部分なのだと思う。しかし個人的には、「ゆとりのあるもの・ないもの」として別れてしまった二人が、「再会の喜び」を共有したことにとても感動した。
戦争の悲惨さを具体的に語らないのは公開当時の人々にとって語るまでもない共通言語だからなのかもしれないが、その悲しみに卑屈にならず、喜びを分かち合うことに重きを置いた本作は、悲しみを抱えながらもとても前向きな作品で、心が暖かくなるものだった。
〇カメラワークとか
・襖や家具のなめ構図で画面を狭く、ローポジで撮る小津作品らしさは戦後復帰1作目でも健在。人と人との近さが感じられて、長屋に住む登場人物たちの関係性とシンクロしていた。
・おたねが家に帰ってくるシーン。屋内にある手前のヤカンにピントを合わせ、おたねが引き戸を開いたらそちらにピンを送る。まあよくあるピン送りなんだけど、1940年代にピン送りやってるのって凄いのでは。
・奥と手前の構図は小津作品でよく見るけど、手前の屋内から道路挟んで奥の家中までぶち抜いてるのは初めて見た。
〇その他
・おたね役の飯田蝶子のしゃべり方がとても良かった。テンポの良い早口なトーンなんだけど、すごく聞き取りやすい話し方をしていて素晴らしい。古い作品だし、ところどころ何を話してるんだか分かりづらいところもあったけど、飯田蝶子の声はすごく聞き取りやすかった。
・聖ルカ病院方面から築地本願寺を奥に映したカットは衝撃的だった。あそこらへんって川があったんだ…。
・会話の中に「燃えちゃった」とか「宿無し」とか、戦争の残り香がする部分が結構あったけど、当たり前のように建物の隣にガレキが積まれていたのが一番戦争を感じた。似たような小さな家が並んでいる茅ヶ崎の街並みも心に残った。
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