「単なる政治的な映画を超えて普遍性を獲得した見事な傑作だと思います」清作の妻 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
単なる政治的な映画を超えて普遍性を獲得した見事な傑作だと思います
舞台は広島県のどことも知れない山間の寒村、時は日露戦争の直前から始まります
冒頭、お兼が見下ろしていたのは呉の軍港かも知れません
お兼が生まれ育ったその村に帰る事に至った経緯がタイトルバックのなかで展開されます
こんなタイトルバック観たこと無いというものです
何しろそのプロローグが丸ごとタイトルバックに使われているのですから
監督の名前がでるまで12分もあります
それだけ構成やカット割などに工夫を凝らしてあるというわけです
テンポ良くリズム感あるカット割で、集中力を途切れさせることも、まどろむすきも与えません
清作は子供の頃から真面目で優秀であったことが家の賞状の数々で示されています
兵役でも模範兵として連隊長と県知事に表彰された何度も台詞で語られます
除隊の土産は、その時に貰った褒章金で拵えた梵鐘です
彼は在るべき国民の姿に村を変えるために、これからも模範たろうとしています
一方、お兼は他人は他人の人です
孤独に生きて行かざるをえなかった事情が彼女をそう凝り固まった性格に彼女をしています
つまり清作は、自分だけでなく家や村の名誉から、国家に貢献するまでを含む、国家主義的な生き方を象徴している人間です
そしてお兼は個人主義的な生き方の象徴なのです
国家主義的な生き方は、行き着くところ国家の犠牲となり戦死するかどうかとなります
そして個人主義的な生き方は、そんなことに意義や意味、価値を感じないことに行き着くのです
その生き方が正反対の二人が愛し合った結果起こった悲劇
その伏線は釘よりももっと前の鎌から張られています
結局のところ、清作は国家主義的な生き方の馬鹿らしさに気づいて梵鐘を投げ捨てます
それどころか、村の国家主義的な現状を否定し、個人主義的な行き方を敢えて認めさせるため村に留まる決意をするのです
つまり失明とは個の確立の暗喩なのです
ラストシーン
清作に代わって懸命に畑を耕すお兼の姿
今は国民に理解されなくとも、いつかは日本も変わる時がくる
それは60年安保闘争に敗れた世代からの闘争継続の決意だったのかも知れません
本作のテーマはそこにあると思います
しかし、新藤兼人の脚本と増村保造監督の演出はそんな単純ではありません
なぜに清作がお兼を妻にしたのか?
なぜ、お兼の首を締めかけて止めたのか?
それは若尾文子が演じるお兼の肉体の艶めかしさです
首に手をかけたときに触れた、肌の弾力、肉の温かみ
清作はその瞬間までお兼を殺すつもりであったのだと思います
手が首に触れたとき、手を伸ばした時に触れる肉体、体温、匂い、ほつれ髪
その時、彼にコペルニクス的転換が起こったのです
肉体とそこに宿る精神、人間の持つ自然な感情
それに忠実であることが何故悪いことなのか?
人間が人間らしく生きることが悪い訳はない
そのメッセージこそが本当のメッセージだと思います
若尾文子のエロチックさが本作を、薄ペラい観念の対立の映画ではない高みに、本作を押し上げることに成功しているのです
本作が成立したのは彼女の配役にこそあります
単なる政治的な映画を超えて普遍性を獲得した見事な傑作だと思います