「意図的な作劇にある、敗戦直後の民主主義スローガン」女性の勝利(1946) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
意図的な作劇にある、敗戦直後の民主主義スローガン
一言で云えば、メッセージだけが伝わり心に響かない映画である。立派な主張が主人公たちから述べられているにも拘らず、観る者の胸を打つような反応が生まれてこない。言葉に血が通っていないような、自分の言葉として発していないむずがゆい演技が観て取れる。溝口監督の演出に、それを修正する気力も希薄に感じた。溝口監督の戦後第一作は、時勢を反映した民主主義のスローガンだけが関心事として残る。
物語の始まりから、それは顕著だ。戦時中政治犯として獄中生活を強いられた自由主義者山岡啓太が、病身の状態で釈放される。彼を愛する女性弁護士細川ひろ子の姉婿河野周一郎の力添えの御蔭なのだが、皮肉にもこの男は多くの自由思想家を牢獄に送った検事であり、狂信的な封建主義者である。姉みち子は、夫と妹の板挟みにあい摩擦を避けようとするが、そのことで自身の身の上の不幸を痛感せざるを得ない女性の立場を担っている。この三人の関係が、ある愛児殺しの事件で衝突する。ひろ子の女学校時代の同窓生朝倉ともが、貧困のどん底で夫を失い、悲嘆の末錯乱状態となり愛児を死に至らしめてしまったのだ。ひろ子はともを弁護するため公判に立ち、義兄河野検事と対決することになる。
河野検事は、被告に対して母親の責任を鑑みて懲役5年を求刑する。ここで、ひろ子は事件の問題点と原因を過去の日本社会の封建制にあると述べて、追い詰められた犠牲者ともの境遇を弁明する。日本社会が未来に向けて変化しなければいけないと力説するのだ。映画の見所は、結局この裁判劇になっている。両者の思想対決はそれなりの迫力はあるが、余りにも意図的な対比であり、事件の真相追求より拡大解釈した切り口のため、言葉の対決に終わっている。対決する人間ドラマになっていないのだ。登場人物の性格描写がないのも物足りない。それ故、山岡啓太の病死のエピソードが物語の中で生きてこない。ひろ子演じる田中絹代、とも演じる三浦光子、共に熱演ではあるが、それだけの感想しか残らない。
しかし、これは全て、当時の日本社会と敗戦直後の日本映画が置かれていた過酷な状況を反映した作品であることも、想像に難くない。GHQの検閲と、日本的民主主義を追求する手探りの真摯さは、作品鑑賞の上で考慮すべき最低限必要なことであろう。
1978年 7月6日 フィルムセンター