「大きな差別のなかのアイヌ差別と「先生」という位置」コタンの口笛 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
大きな差別のなかのアイヌ差別と「先生」という位置
1959年。成瀬巳喜男監督。アイヌの子として生まれた中学生の姉と弟。学校での差別的な視線に苦しみながらも、理解ある周囲の大人や友達に囲まれて暮らしている。姉は美術教師に淡い思いを抱きつつ離れ離れとなり、弟はしつこくちょっかいを出してくる同級生との関係を思いつめた末に決闘に及び大けがをする。姉弟以外にもアイヌの人々の苦労が細かく描かれており、例えば、隣に住む明るいお姉さんは日本人青年と仲良くなっていくが、その青年の父であり公平な日本人としてアイヌの人々から神のように尊敬されている小学校校長は、本人たちの知らないところで持ち上がった結婚話に拒絶反応を示す。
有形無形の差別構造が描かれ、世代や個人ごとに差別構造の受け止め方の違い(我慢する、逃げ出す、抵抗する)が明らかになっていくが、アイヌと日本人の間の差別構造に限らず、アイヌの中にも日本人の中にも差別構造があることも明らかになる。かなり赤裸々に描かれていて、アイヌを演じる役者がわかりやすく濃い目の化粧をしていることについてやかましい議論があるのだろうが(黒人役へのブラックメイク)、民族問題に限らない本質的な差別構造に迫っていることがすごい。全体のトーンは「壊れゆく家族」。
姉弟の周囲にはたくさんの「先生」がいる。姉をモデルにして絵を描きたいという美術教師は姉の思慕の対象だが、少なからずアイヌとしての姉に異国趣味的な興味を抱いていそう。そのほかに、前述の小学校校長もいるし、アイヌでありながら小学校で教えており中学校教員の免許もとろうとしている教師もいる(校長は結婚話の拒絶を境に、心の中ではアイヌ差別をしながら口先だけ理念的なことをいう理想主義者のように言われるが、結婚問題には慎重にならざるをえない胸中の苦悩も描かれている)。ここにはアイヌを巡る教師に三類型がある。アイヌにあいまいな興味を持つ日本人教師、崇高な理念をもつ日本人教師、アイヌ人の教師。アイヌの青年がアイヌとしては、日本人にへつらうか、日本人を利用するか、日本人に抵抗するか、の3つの道があると言っていた。すると、この映画は客体や対象としてのアイヌと主体や主観としてのアイヌの両面が描かれているということになるだろう。思ったよりもいい映画だった。