「どこまでが幻覚なのか?」狂った一頁 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 どこまでが幻覚なのか?

2025年10月23日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

日本映画史の中でも、これほど特異な作品はほとんど存在しないと思います。
衣笠貞之助監督による日本初のアヴァンギャルド映画であり、脚本は若き川端康成。さらに特撮に円谷英一が関わっており、1926年という時代にすでに多重露光などの実験的技法を駆使した、日本の映画表現の原点とも言える作品です。

物語は精神病院を舞台に、養務員として働く男と、その病院に入院している妻、そして結婚を控えた娘をめぐる幻想的な悲劇として展開します。男はかつて船乗りで、放蕩の果てに妻を捨て、贖罪のために病院で働いている。妻は過去に娘を池に落としてしまった罪の意識から心を病み、精神病院に閉じこめられています。娘は結婚の報告に母を訪ねますが、母が精神病院にいることを婚約者に知られまいと苦悩し、そこから現実と幻覚が入り混じる混沌へと物語は沈み込んでいきます。最後には病院がパニック状態に陥り、男が暴走する場面が描かれますが、それが現実なのか幻覚なのか、観客には判然としません。結末は、すべてが養務員の見た幻覚だったのではないか、とも解釈できるつくりになっています。

この映画の最大の特徴は、多重露光や重ね合わせによって「精神の内面」を可視化している点です。冒頭で登場する踊り子の少女は、実際に当時の前衛舞踊のダンサーであり、彼女の舞いは患者の幻想世界の象徴として描かれます。格子状の球体の前で踊るシーンは、精神の歪みや閉塞を表しており、ドイツ表現主義映画の影響を明確に感じます。檻や影といったモチーフが繰り返し登場し、精神の“折”=無意識の拘束を象徴しているようにも見えます。これは同時代に広まっていたフロイトの精神分析とも響き合うもので、衣笠と川端が「人間の無意識」を映像で表そうとした試みのように感じます。

特筆すべきは、この作品が「字幕をあえて廃した」点です。
もともとは字幕付きで制作されましたが、完成後に監督が「言葉による説明を排して、映像だけで精神を表現する」ことを決め、すべて削除したと言われています。その結果、観客は意味を掴もうとしても掴めず、映像の奔流に呑まれるような体験を味わうことになります。私自身、最初に見たときは音楽だけを聴きながら完全に理解不能で、途中で眠ってしまいました。それほどまでに、意味の手がかりを徹底して排除した映像です。けれど二度目に、脚本を解説してくれる人の動画と併せて見たとき、ようやく構造が見えてきました。それでも、これは「理解する映画」というより、「感じる映画」なのだと思います。

多重露光によって現れる重なり合う人物像、踊り子の回転する身体、森の光のちらつき――これらはすべて「狂気」そのものではなく、狂気を通して見える人間の内面を描いています。
つまり、夢オチ的な構成ではあっても、夢そのものを描いているのではなく、夢という構造そのものを映画化した作品なのです。

『狂った一頁』は、意味の消失の中にこそ美を見いだす、きわめて大胆な実験映画です。
日本映画が後に到達する「精神の映像化」――たとえば黒澤明の『どですかでん』や増村保造の心理的カメラワークなど――の原点を、すでにここで提示していたと感じました。
観る者を混乱させ、眠らせ、そして無意識の奥に連れ去っていく。そんな、1926年という時代にしか生まれ得なかった、まさに“狂った”一頁でした。

鑑賞方法: Youtube

評価: 80点

neonrg