「吉永小百合の目尻の皺やほうれい線を隠そうとせず写すことの意味」女ざかり(1994) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
吉永小百合の目尻の皺やほうれい線を隠そうとせず写すことの意味
1994年公開
原作は1986年刊行の丸谷才一の同名小説
エンドロールの協力の中に毎日新聞社とありますが、観ればすぐ分かるとおり朝日新聞社がモデルです
築地の朝日新聞東京本社は、1977年着工、1980年春に竣工、劇中総理から出席するのが楽しみだと印象的に語られる竣工パーティーは同年11月に行われいて、当時の鈴木善幸首相が出席しているそうです
なので、本作の映画の中の時代は1994年ですが、
物語の時代は1975年頃と思われます
ということは主人公の新任論説委員南弓子の職場は、今は有楽町マリオンが建っている旧の朝日新聞本社です
主人公は40歳代半ば
バツイチで二十歳そこそこくらいの娘と二人暮らし
元の夫は秋田の大館にいるようです
彼女も大館の育ちのようです
仙台の大学教授と東京に出てくるたびに逢う不倫関係でもう10周年と長いようです
性欲もまだまだあるようです
観音崎京急ホテルで定期的に逢っていて、彼の下半身に巻いていたタオルが落ちて全裸の前を見せても全く平気なのです
21世紀の現代ならどこにでもいそうな女性です
しかし、この女性が1975年頃の女性だと考えれば、当時では考えられないことなのです
本作公開の1994年なら、そういう自立した女性がポツポツ現れ始めた頃でした
彼女の最初の論説は単身赴任がテーマでした
読みようによっては不倫奨励にも読めるものでした
つまり自身の自己肯定の論説でもあったのです
それが思わぬ騒動に巻き込まれて、という筋書きです
しかし、新聞社と政界のの癒着とかそんなものは物語を駆動するための舞台装置にしか過ぎません
あくまで本作のテーマは自立した女性です
そこに大林宣彦監督はしっかりと焦点を当てています
吉永小百合は公開時49歳
彼女は1945年生まれ
団塊の世代の先頭ランナーなのです
物語の時代の1975年なら30歳
原作刊行の1986年なら41歳
本作公開の1994年は49歳
1994年とは団塊の世代もそろそろ初老に入ろうという時代であったのです
主人公の南弓子が老人ばかりの論説委員室に異動してくる序盤のシーンはそう言う意味であると思います
ヤングといわれた団塊の世代
その彼等彼女達もいつまでもヤングではなく、子供は大きくなり、娘は結婚を意識する年齢になっています
離婚した元夫は、ガンの病床にあります
様々なしがらみを沢山抱えてしまっているのです
といっても、気持ちはまだまだ若いままなのです
老人達ばかりの職場の中にはいれば、またヤングなのです
老人にあらぬほどの性的渇望をもたらしてしまうのです
だからこそ、彼女が初老に入ろうとしていること表現するために、吉永小百合の目尻の皺やほうれい線を隠そうとせず写すのです
老人達には白髪や老眼や年寄り臭い演技を強調させているのです
そして母と娘との関係もまた革新されています
それを大林宣彦監督は視覚的にまで表現しています
娘の千枝が恋人の解剖医に自分を解剖して、内蔵や子宮を取り出して見て欲しいというシーンがあります
言うだけでなく妄想まで見るのです
それを監督は露悪的なまでに視覚化してみせます
あれは、彼女の恋人への強烈な性の欲求の発露であったのです
そうして、ラストシーンの大館に向かう特急の中で、婚前交渉になるだろうことを娘は母に打ち明けるのですが、主人公の母は特段反対もせず本人の意志に任せるのです
ラストシーンの最後の台詞はこうでした
どこまで行っても人の家ね
それは家に縛られていない主人公の女性の詠嘆なのです
さすが大林宣彦監督であると感銘しました
吉永小百合という日本映画界の一番の女優を得て、彼女の美しさを愛でるのみで終わるのではなく、彼女のその時の年齢、世の中の時勢、女性の自立の流れ、団塊の世代のゆく末
そういったことを全て統合してこのような作品に成立させているのですから
まったく持って圧巻です
月岡夢路、水の江滝子の登場シーンは見ものです!
あと屋台のおでん屋の女将役の入江若葉が素晴らしく感嘆しました
団塊の世代
1945年生まれなら77歳
後期高齢者です
吉永小百合のように美しく元気な人もおられるでしょう
しかし普通はそんな人は希です
田丸総理のようになり果てていてもおかしくない年齢なのです
本作の劇中の論説委員の老人達は60歳手前ぐらいの設定でしょう
それよりもさらに老人になっているのです
それでも心のなかはいまだにヤングなのでしょうか?
ママは今女ざかり?
さあ?なんだか女ざかりって通り過ぎてから気がつくみたい
夢中になって通り過ぎて
気がついたら終わってる