ミレニアム・マンボのレビュー・感想・評価
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傑作
映画におけるフレームが「世界」の絶対的な境界であったことなど一度もなかったという事実をあらためて突きつける本作が、同時期に、これも同様に4Kレストア版で上映されているタルコフスキーの『ノスタルジア』より軽んじられるなどということは間違ってもあってはならない。
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後半、子分が起こしたトラブルを解決できないままガオが家に帰り着く。半開きのドア。ドアの前にはスー・チーの荷物が散らばっている。誰かの襲撃があったのではないかと疑いながらガオが部屋に入る。酔い潰れてソファに横たわるスー・チー。拳銃を握るガオの手。静かに拳銃をテーブルに置く。この一連のショット、特に拳銃を握る手のショットが素晴らしい。
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始まりは浮遊感のあるスローモーション。
あまりの美しさに心が躍る。
キャメラを振り返りながらステップを踏むスー・チーは、陸橋の階段を跳ねながら降りていき、やがてその姿はフレームから消えていく。
タイトな設えの家の中。
ショットを割らず、キャメラを振って登場人物をフレームに収め、一定の持続したショットがゆるやかに登場人物を追っている。
しかし、このショットが厳密に登場人物を追っているかといえばそのようなことはなく、気がつけば登場人物がフレームから立ち去り、再び帰還しもするだろう。
フレームを意識しない俳優の存在と不在が画面を活気づける。
『工場の出口』が、フレーム内に収まった工場の出口から出てきた労働者や馬車がフレーム外の場所へそれぞれ去っていく様子を、あるいはフレームを横切り通り過ぎていく人々の運動を捉えたものにほかならなかったように、映画はその誕生から、フレーム内の存在と不在、フレームの中に収まる運動とその外にも広がる「世界」が画面を活性化させてきたといって間違いなく、フレームが形作る「構図」に被写体を耽美的かつ静的に配置することで「構図」内に切り詰められた「世界」をそれらしく「表現」してみせようとする作品がおよそつまらないのは、それらのフィルムにフレームの外に広がる「世界」への不信が焼き付いているからにほかならない。
それゆえ、フレームの中に窓やドアの枠を置くことでフレームにフレームを重ねる「台湾の小津安二郎」の『ミレニアム・マンボ』は、画面の窮屈さよりむしろ「世界」の豊かな広がりを獲得していると言っていい。フレーム内フレームの内側からその外へ、さらにその外へと被写体が運動することは映画におけるフレームなど所詮「世界」における偶然の産物に過ぎず、絶対的な境界などではまったくなかった事実をあらためて突きつけるのであった。
長万部じゃなくて夕張
プレミアムなマンボだと勘違いして喜んで観たら全然違った。
マンボNo.5はかからなかった。
全編テクノだった。
ホゥ·シャオシェン監督とトランスポーターのスー·チーの初タッグ作品。
2001年作品。
台湾のある街で女子高校生がクラブで羽目を外し、親元を離れ台北のアパートで男と同棲。そのまま高校中退。まったく働かない嫉妬深くてどうしょうもない遊び人のヒモ男のスケになって、逃れられなかった過去を自ら「彼女は····」とナレーションを入れて振返る構成。逃れられなかったというより逃れるチャンスは再三あったのに逃げなかった。先に説明が入り、スローな展開で映像が追いつくのはかなりかったるい。しかし、撮影は花様年華の撮影監督で、とてもムーディ。薄暗いアパートに蝋燭の灯はエロかった。煙草に酒、時々コカイン。キャバクラ???でのティーバッグシーン。ジョニ黒をキリン一番搾りで割って飲んでた。後半、夕張、新宿など日本が舞台に。冷蔵庫のキティーちゃん、МDコンポなど、最初から台灣よりも日本だった。そこの意図するところはちょっとわかりにくい。竹内兄弟の実家のおばあちゃんの割烹着。「スタンプ細胞はあります」のあのヒトを思い出してしまいました。
ガオさんは台灣の高倉健なんですかねぇ?
ハオ君のうなじフェチ、汗フェチ的な前技はなかなかだった。
ミレニアムという節目
【78点】
こんなにラストの印象的な作品はなかなかないと思います。掴み所のない映像に、中盤まではもやもやさせられますが、その鬱屈があってこそのラストだとも言えます。
ミレニアム・マンボというタイトルは、ミレニアムという歴史的な節目と、マンボのリズムのように繰り返すというところから来ているのでしょうか。実際、似たような場面が続く映画です。回想という形態で時系列がシャッフルされているだけに、話が進展している感じはなく、断片が繰り返されているという印象が強調されています。
主人公のビッキーは冒頭で、「ミレニアムなのに」とか「繰り返す」とか「催眠術のように」ということを言っていたと思いますが、そのあたりがこの作品のテーマだと考えて良さそうです。つまり、ミレニアムは歴史上の節目ではあっても、それは女性の恋にとっては何の関係もない話なんだということでしょうか。
ところで、この映画は映像が凝っています。リー・ピンビンのカメラは、その催眠術のような繰り返す生活というものを嫌というほど体感させてくれます。全体像が掴めないほどに人物アップやピンぼけを多用するカメラ、暗闇や仕切りに隠された空間などに、混沌朦朧とした雰囲気が良く出ていました。小道具も良く効いていて、中でも最も印象深いのは、何と言ってもビッキーが常に燻らせている煙草の紫煙でしょう。どの場面でも煙草を持っているから、繰り返しの感じが強くなるし、煙という切れ間のないものが映像中にいつも漂っているのは、テーマが一貫していて素晴らしいです。
しかし、そういった退廃的な印象とは無縁の場面もありました。それは彼女が日本に来たときです。ここで彼女は初めて外の世界を歩き、雪景色のなかで人が変わったように無邪気に笑います。ずっとこんな笑顔が続くといいと思い始めたころに、やはりまた退廃的な場面に引き戻されるので、あれは何だったのかという感じでしたが、その雪景色の意味は終盤になってから分かりました。
結局、物語の鍵となるのは、この雪景色と、携帯電話だったと思います。終盤になると、やたらと携帯電話が登場します。ハオの前から消えたビッキーは、ハオの元に携帯を残していましたし、ビッキーの前から消えたガオは、ビッキーの元にやはり携帯を残しました。そして思い出してみると、ビッキーと竹内淳の出会いは「番号ちょうだい」で始まったのです。
つまり、この映画において携帯は、恋人の縁の象徴以外の何物でもありません。そして、相手の手元に携帯だけが残るというのことは、縁が完全に切れていない、恋の移ろいが曖昧なものであったという暗示ではないでしょうか。ミレニアムという歴史的節目に対して、ビッキーの恋の移ろいは曖昧だったという解釈です。
ただし、ビッキーが自分自身を「彼女」と呼んで回想していることを忘れてはいけないとも思います。自覚的か否かは別として、自分を第三者的に見ているということですから、以前と今の彼女との間には何らかの区切りがあったと考えるのが自然です。それは何だったのでしょうか?
思うに、あの雪景色が区切りだったのではないでしょうか。ビッキーがかつて退廃的な日々を繰り返す中で燻らせ続けてきた紫煙がたまりにたまって一つの季節を形成したというのが、あの大雪なんだと思います。あの光景は、ビッキーの心象風景の反映のようなものであり、そう考えると、実は彼女自身が恐らく自覚していないミレニアムの区切りはあったということです。
そして最後に、東京に大雪が降ったといいつつ夕張を映したところがミソで、あの夕張映画祭の古くさい看板が、ミレニアムになっても、昔から続いてきた映画文化は続いていくというメッセージに思えるのです。作中おいて語られたような恋愛の位置づけと映画とを、最後の最後で対応させるあたりが、非常にロマンティックなラストだと個人的には思いました。
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