ミレニアム・マンボのレビュー・感想・評価
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【ミレニアムを迎えた台湾で、どうしようもない恋人と頼りがいのある中年ヤクザとの間で心揺れる美しき女性を独特のタッチで描いた作品。】
■2001年の台北のバー。人々はミレニアムに浮かれている。
ヴィッキー(スー・チー)は恋人のハオと一緒に暮らしているが、仕事もせずに彼女に纏わりつく紐のような彼にうんざりする日々を送っている。
閉塞感の中、ヴィッキーはホステスのバイトで出会ったガオのもとに逃げ込む。だがガオはもめごとに巻き込まれ、彼女を置いてメモを残し日本へと旅立ってしまう。
ー という内容が、2001年の映像と共にヴィッキーと思われる女性により、回想するかのように語られていくのである。-
◆感想
・侯孝賢監督作品を数作観て来たが、ドラマティックな展開がある訳ではない独特の退廃感溢れる作風が、どこか惹かれるものがある。
・特に、夜の映像の映し方はコレマタ、独特の美しさに満ちており、今作で言えばヴィッキーが務めるバーの店内のミラーボールや、彼女がガオを追って渡った日本の夕張の雪が積もった中に映し出される、石原裕次郎の”黒部の太陽”などの名画の看板の中、ヴィッキーが台湾では見せた事がないような笑顔で歩いてるシーンも、印象的である。
・この頃の台湾の監督と言えば、エドワード・ヤンであり、彼が残した名作は印象深いが、侯孝賢監督作品の作品は、それに比べると過剰な演出はされずに、描かれて行くものが多い気がする。
そこが、”侯孝賢監督って、そんなにすごいの?”と言われる事が多い所以であろう。実際に今作後の「珈琲時光」などは、小津監督への憧憬により制作された作品だそうであるが、地味である。
<が、この監督の作品には何処か、不思議な美に溢れており、その対極で退廃感も漂っている。そのアンビバレンツなバランスが魅力なのかもしれない。
もしかしたら、この監督の作品は配信で観てもその真価が伝わらないのかもしれない。うらぶれたミニシアターで、誰もいない中で一人観ていると、更に良くなるのかもしれないと思ったモノである。もう少し、この監督の作品を観て観ようと思わせてくれる屹立した独特な作風は癖になるからである。>
新たな千年紀が始まった頃
4Kレストア版で20年ぶりに再観賞。舞台は2001年の台北。地方から出てきて男と同棲している主人公の若い女性は、仕事もせずにDJの真似事やクラブ通い、ゲーム、酒、タバコ、ドラッグと遊び呆け、そのくせ異常なほど嫉妬深く束縛してくる男にうんざりしているが、なんだかんだで別れることができない。生活費のためにホステスの仕事を始めた主人公は、そこに客としてよく来る包容力のある中年ヤクザに惹かれていく。ある日、同棲相手の暴力に耐えかねた主人公はアパートを飛び出し、ヤクザのもとに駆け込むが、やがて彼も子分の揉め事から彼女を置いて日本へ高飛びする。主人公は彼を追って、東京、そして北海道の夕張へと赴くのだが……。
刹那的に生きる現代の若い女性を主人公とした映画だが、最初に観た当時はそれまでのホウ・シャオシェンの映画とかなり違うのでちょっと戸惑った。全体的な作風は間違いなくホウ・シャオシェンなんだが、流れる音楽がそれまでのホウ・シャオシェン映画には無いエレクトロミュージックだったし、香港映画でスターとなったスー・チーを主演に起用したのも意外だった。だが今になってみると、この映画が21世紀のホウ・シャオシェン映画を方向づけたということがよくわかる。ほとんど脚本らしい脚本もなくリハーサルもせず、あらかじめ決まったセリフさえ無いというスタイルの撮影だったとのことだが(ただし状況設定だけは入念にディテールを盛り込む)、スー・チーはホウ・シャオシェンの高い要求に応えられる俳優だったのだろう。ホウ・シャオシェン自身がスー・チーの存在で自らの映画の方向性が変わったと言っているし、スー・チーもホウ・シャオシェンとの出会いで演技や映画の哲学が変わったという。その後、『百年恋歌』、そして結果的にホウ・シャオシェンの最後の映画となった『黒衣の刺客』まで、ホウ・シャオシェンはスー・チーを主演に起用し続けた。
とにかく観ていて痛感するが、スー・チーが存在するだけで映画になるということが素晴らしい。観ていてつい彼女を目で追ってしまう。まさに映画女優だ。夕張で片言の日本語をしゃべり、積もった雪にダイブするスー・チーの愛らしさ。そういえば2010年の中国映画『狙った恋の落とし方。』でもスー・チーは北海道に来ていた。『ミレニアム・マンボ』と前後して公開された香港映画『スイート・ムーンライト』は東京が舞台だし、意外に日本と縁がある女優だ。2001年(か2000年)の冬の夕張が映し出されるのも今となっては貴重。あの頃はまだ夕張映画祭が盛んだったんだな。懐かしい。
65点ぐらい。
2001年の台北、ある女性の回想の物語。 若気の至りとか、ダメな男...
すべてが影に沈む街で
群衆には顔がない。それゆえ大都会の中にありながら人は孤独を感じる。『平面論』で松浦寿輝がそんなことを言っていた。
ヴィッキーの暮らす台北の街は常にうっすらと翳っている。そこに集う人々の表情はほとんど見えない。ダンスミュージック、喝采、夜伽、すべてはどうでもいい雑音として空間を滑り落ちていく。孤独の重力に唯一抗うように上昇する紫煙は空中に溶けて消える。
夕張は天国だ。ヴィッキーは童心に帰ったように雪と戯れる。しかし天国は虚構に過ぎない。夕張は映画の街。したがって虚構の街。そこは彼女のいるべき場所ではない。台北への帰還。
異国の斥力に、あるいは自国の引力に抗うようにヴィッキーは東京へ向かう。言葉は通じず、想い人は群衆に紛れてしまう。留守電の音だけが虚しく響く部屋の中で、彼女は長い夢からゆっくりと醒めていく。
この映画はヴィッキーの回想である。そこではヴィッキーは自分のことを「彼女」と呼ぶ。
遠い昔の話。
目まぐるしい台湾うらぶれて少し温かい日本
ミレニアム。
意識したことなかったけど、この映画をうつるミレニアムは、躍動する台湾鬱屈していてもパワー、欲望感じる台湾
。台湾にルーツある日本の兄弟DJ 台湾のクラブではキラキラな感じでおばあちゃんのいる夕張ではなんとも純心な少年のようでおばあちゃんはミレニアムも関係なく台湾から戦時中に日本に来たのだろうか、日本で長い我が人生を夕張の雪景色の中ですごす。なんか古い映画の看板、夕張の映画の街のアーチ、ここでは電子音のダンスミュージックもならない、なんだか時が止まったような静けさと温もり。ガオさんがヤクザ同士の問題ほとぼりをさますため東京にきて新宿の安宿にビッキーを呼び寄せる、。宿のフロントの女性の辿々しいが優しく温かい話し方ガタガタと電車が走る宿の窓からの風景は台北の喧騒、欲求不満気味中持て余すエネルギーとはまるで反対のなんだがうら寂しい感じ、これもミレニアム、、だったんだな。日本のミレニアムはたしかにそんなキラキラした希望もなかったのかも。台湾シーンはミレニアムにかける期待と虚しさ、空元気。ハオはダメなやつだけど、徴兵回避のためのドラッグ、減量。台湾の抱えてるものはミレニアム間近でも私らの知り得ないおもくるしい時の流れを感じる。
ビッキーがひたすら美しく流れるたばこのけむりのようにさまよう表情。
夕張は監督撮りたかったのかな。おばあちゃんや雪のシーンや古い日本映画の看板や。
素晴らしい映像、音、俳優たち、小道具美術。個人的な私的な物語にならないところがさすが侯監督、ということか。
とても良かった
夕張が出てきた。
ミレニアムに時代が移る頃、台北でハオと同棲しているビッキー(スー・チー)が彼のあまりの酷さに耐えきれずに逃げ出し、ヤクザのガオ(ガオ・ジェ)の元に身を寄せる。しかし、ガオが身を隠してしまったので、彼を追って日本に来る。スー・チーがともかくかっこいい!
ハオは、くすりとアルコールの過飲によると思われる嫉妬妄想を抱えていて、ビッキーにつきまとう。彼女は何度も逃げ出すが、懇願されて戻ることの繰り返し。むしろ、映画の中で、喫煙と飲酒が目立つのはビッキーの方で、飲んでいるお酒はビールとカクテル、ジョニーウォーカーとワイン、どれもバブルの頃のお酒。台北は繁栄に向かってまっしぐら。お金は出回っているけど、彼らのように世の中の動きに付いてはいけない人たちは、必ず出てくる。
ただ、ストーリーがあるというよりは、各エピソードをスー・チーが10年後の未来からみたナレーションと、テクノポップでつないでゆく感じ。ちょっとだけフランス映画の香りがした。
侯孝賢監督が、日本に寄せるノスタルジックな思いは半端ない。きっと、小津の映画が好きなのだろう。途中で、彼女は夕張にゆく。映画が恐ろしいのは、ミレニアムの頃、既に、低迷してゆく日本を見切っていたこと。台北と対照的で、日本が出てくるシーンには全く緊張感がない。日本になくて、彼らにあるのは兵役か。従来の香港映画と比べると、侯孝賢の台湾映画には、背景に力強さがありながら、全体として、すっきりした清冽さがある。潔いと言ってもよいかもしれない。それが、かなりのところまで日本および日本映画から来ていると思えるところは嬉しいが。
ただ、最初にあった全体のシノプシスとか情景が中盤で繰り返されたり、最後に出てくる場面で「今年の東京は雪が多い」というけれど、実際の背景は夕張であったりとか、やや繰返しが目立ち、混乱もあることが気がかり。
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