戸田家の兄妹
劇場公開日:1941年3月1日
劇場公開日:1941年3月1日
小津安二郎監督の大規模な特集上映を開催! 第36回東京国際映画祭の目玉企画
2023年9月19日神保町シアター、桑野通子&みゆき親子特集
2014年11月30日⚪︎作品全体
本家が質に入れられて行き場のない母と未婚の三女・節子。家族の家へ行くけれど居場所のない日々を過ごす。
正直、自分の生活を優先して親を蔑ろにする構図は『東京物語』と重なって見えるけど、結末が全く別の方向にあって、それはそれで面白い。
『東京物語』では子どもたちに改心を求めるでもなく、両親は静かに尾道へ帰っていく。一方、本作では次男・昌次郎が兄弟へ痛烈な喝をくらわせ、昌次郎が率先して面倒を見る。これほどカタルシスのある物語を作る人が10年後に『東京物語』で哀愁の物語としているところとしては、やはり太平洋戦争が区切りとなっているのだろうか。
小津作品を俯瞰したときに、本作は多作品と比較して「自由」という要素が印象的だった。
当時は国際都市だった天津で新しい仕事に挑む昌次郎、事務員として働こうとする節子はまさにその象徴で、親や家族の意向を重んじる昭和の時代では珍しい気がする。プロップの少ない作品だが、「自由」のモチーフとして九官鳥を使っていたことも印象深い。
外へ外へと向かっていく日本国にリンクさせるような一作だった。
その一方で、家族関係のドラマを丁寧に映しているのがまた巧い。長い間、誰が自分を育て、誰が巣立つ自分を見守ってくれていたのか。それをスクリーン越しに見直しさせられる昌次郎の一喝だった。
セリフのみで語られていたが、昌次郎の一喝で兄妹たちが反省しているのも当時の時代より前からある家族関係の重さを映しているように見えた。
令和のこの時代、兄弟で揉めて疎遠になっても都合が悪いことはほとんどなく、そのまま縁を切ってしまうものも多い。ただ、本作の時代では親族の繋がりは重要だ。放映当時は意識なんぞしていないのだろうが、令和に見ると家族関係への考え方がここまで変わったのかと、気付かされる部分もあった。
小津作品では少しイレギュラーでもあり、この後作られる作品群とつながる部分もある。小津作品としても、戦前当時の家族観としても、非常に興味深い一作だった。
⚪︎カメラワークとか
・長い廊下を映すカットが多かった。一般的な家屋にはないものだろうから、それだけで豪邸感が出ていた。
・鵠沼の別荘のシーンはいつもの小津レイアウトだったけど、だからか、そこまで狭いわけでも悪い環境な訳でもないように見えてしまっていた。
・ラストカットが面白い。縁談相手の顔合わせに逃げる昌次郎。兄弟への一喝は逃げずに気風の良い感じだったのに、自分のこととなると逃げ出す始末。
⚪︎その他
・昌次郎みたいなことを今の時代に言っても他の家族は「じゃあお母さんよろしく」で突っぱねてしまいそうだよなあ。家の行事なんかもめっきりなくなった今、世間体を気にして一緒に居続ける理由は「義理と情」だけだろうし、それがなければ「縁を切った」で終わらせてしまうのかも。
・天津に行くラストだけど、どうか無事に帰って来れてると良いな…と後の時代の人間からすると思ってしまう。
家族の絆なんてこんなもん。家族の木綱なんだよ。
で、老人が亡くなり、若者は戦争で亡くなり、残るは若い女性ばかりなり。
でも、女だけでは子供はてきず、絶滅に向かう。
ニヒルな間取り映画はウィルヘルム・ハンマースホイの間取り絵画の様だ。
円満に見えていた戸田家だが家長の父が亡くなってみると子らの我欲があらわれて居候の母は冷遇され居場所がなくなり海辺の別荘暮らしを余儀なくされる。だが5人の子のなかでも次男昌二郎(佐分利信)と三女節子(高峰美枝子)の兄妹だけは母を慕っており結局次男は赴任先である天津へ母と三女を連れていく──という話。
1939年に日中戦争から復員した小津安二郎の帰還一作目にあたる。公開された1941年当時天津は関東軍が占領していた。日本は日本海をへだてて日本の三倍の面積をもつ満州国をもっていた。時代はナショナリズムが台頭し皆が日本を列強だと信じこんでいた。12月には真珠湾を奇襲し太平洋戦争へとなだれこんでいく。
戦前と戦後の小津映画の違いは男性の態度でわかる。戦前の男たちはまだ権勢と尊厳が保たれ、封建的な印象をもっている。簡単に言うと威張っている。戦後は自信をうしない受動的になり庶民生活に埋没する男像が主流化する。
戸田家の兄妹にはのちの東京物語につながる悲哀が描かれている。親が死んで葬儀が済んでみると、とりわけ悲嘆暮れることもなく、子供らは形見や遺産を整理してさっさと自分の生活に戻っていく。
東京物語においても母の葬儀が終わると実子は東京へ帰り義理の娘である紀子(原節子)が残って周吉(笠智衆)の世話をしている。それを悪びれた次女(香川京子)が「ずいぶん勝手よ、言いたいことだけ言ってさっさと帰ってしまうんですもの。お母さんが亡くなるとすぐお形見ほしいなんて、あたしお母さんの気持ち考えたら、とても悲しくなったわ、他人どうしでももっと温かいわ、親子ってそんなもんじゃないと思う」と愚痴る。それを受けて紀子は「でも子供って大きくなるとだんだん親から離れていくものじゃないかしら……誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」と言う。
東京物語はこの紀子のセリフに集約されている。結婚し出産し育てた子が巣立ちやがて孤独な最期がくる──世の家族はそのようにして輪廻というかサイクルを踏んでいくというのが東京物語の骨子だからだ。
ただし戸田家の兄妹のばあい、次男昌二郎と三女節子だけは母への孝心をもっている。戸田家の子供らは善玉と悪玉が描き分けられていて、そのことから連想していくと、東京物語につながる一方、1979年版の犬神家の一族につながる映画でもある。
高峰三枝子は歌う映画スターの草分け的存在と言われたが団塊の子供世代のイメージとしては犬神家の一族とフルムーンの印象が大きい。
23歳だった可憐な戸田家の妹が、犬神家ではおごそかな長女松子役で「すけきよ」の母親だった。
「すけきよ見せておやり!」
フルムーンというのは高齢夫婦向けの国鉄(現JR)グリーン車両切符の商標で上原謙と高峰三枝子が群馬の法師温泉に入浴しているシーンがTVCMになった際高峰の胸が大きいと話題になった。今拾いの画像を見ても節度ある肩出しで、なんてことはない。が、当時見た時は高峰三枝子の豊かな胸を目の当たりにしたかのような衝撃があった。
可憐で心優しい戸田家の妹は時代を経て犬神家の長女となり、そこでは昌二郎が天津から帰ってきたように、すけきよが戦地のビルマから帰ってくる。
佐兵衛翁の遺言状でほとんどの財を寄寓の珠世(島田陽子)にもっていかれ、三姉妹の怒りは頂点に達する。このとき次女の梅子役をやった草笛光子の2021年のインタビューがMovieWalkerにあった。
『1990年の5月、高峰の訃報を受けた草笛はすぐに高峰邸へと向かったが、それは『犬神家の一族』の撮影中に交わした約束を果たすためだった。「『犬神家の一族』で三姉妹が顔を白塗りにして、犬神佐兵衛の愛人、菊乃をいじめるシーンがありましたでしょ?その時、私のお化粧が上手だと言ってくださって、高峰さんが『今度、私が舞台に出る時は、お化粧をしてね』とおっしゃったんです」。
草笛はその時の約束を忘れてはいなかった。「ちょうど舞台で地方のホテルに泊まっていた時、テレビで高峰さんが亡くなったことを知りました。それで『お化粧をしてあげなくちゃ』と思い、大急ぎで化粧品を持って高峰さんのご自宅に伺いました。まだ亡くなったばかりで本当にきれいなお顔でした。私は高峰さんに口紅や頬紅を付けましたが、きっと楊貴妃はこんな顔をしていたんじゃないかと思えるくらいに美しかったです。『約束どおり、私がお化粧をしましたよ』とお伝えしました」。』
戸田家の兄妹は、孝心深い昌二郎が母と妹を救ったことでハッピーエンドにみえるが、現実には天津へ行ったとて、やがてすぐ終戦がきて帰国することになるだろう。1941年からずっと未来に生きているわれわれから見ると敗戦からはじまる混乱期のことを考えると戸田家の兄妹の中で語られる結婚問題が霞んでみえる。すぐにそれどころじゃない時代がやってくるのですよ・・・。しかし戦争もやがて終わる。死ぬか生きるかの戦時とはうってかわって平時では結婚するかしないかということが事実上個人の大問題になるのだ。従軍して生き延びた小津安二郎は映画の中でいつもそれを言ってきた。
戦後ヒットした「懐かしのブルース」は1948年の高峰三枝子の主演映画であり主題歌だそうだ。
『古い日記のページには涙のあともそのままにかえらぬ夢のなつかしく頬すりよせるわびしさよああなつかしのブルースは涙にぬれて歌う唄』
英題Brothers and Sisters of the Toda Family、IMdb7.3、RottenTomatoesトマトメーターなし、ポップコーンメーター85%。