配信開始日 2025年10月24日

「正しさという幻想」エデン 楽園の果て R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 正しさという幻想

2025年10月28日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

エデン 楽園の果て —— 正しさという幻想の果てに

誰が正しかったのか?この問いが、映画『エデン 楽園の果て』を観る者の胸に、終始重くのしかかる。

実話をもとにしたこの作品は、ガラパゴス諸島の孤島に集まった人々の、理想と現実、信念と欺瞞、そして「正しさ」をめぐる静かな戦争を描いている。最後に語られるナレーションは、島を出たドーラの手記と、それに反論するマーグレットの手記の存在を明かす。そして、マーグレットはその後も島に残り、ホテルオーナーとして生きたという。

果たして、正しいのは誰だったのか?この問いに対し、映画は明確な答えを出さない。だが、殺人事件の真相、論理の整合性、そして何よりも「その後の生き様」が、監督の視線がマーグレットに向いていることを静かに示している。

人はいつも、「正しいことをした者だけが救われる」という幻想を抱いている。それは、リッター博士が信じた「哲学で人々を救える」という妄想と、どこか似ている。

博士の思想に惹かれて島を訪れた人々。ハインツ一家も、バルメス一行も、皆が「逃避」という共通項を抱えていた。そして、島にやってきたばかりのマーグレットが感じた不安と孤独は、誰もが共感できるものだろう。特に、リッター博士からの冷遇は、彼女にとって「誰にも頼れない」という現実を突きつけた。

博士は「人を救う」と言いながら、隣人を冷たくあしらう。その矛盾に気づかない彼の姿は、まさに多くの白人知識人が陥るダブルスタンダードの縮図だ。彼らはもっともらしい理屈を語るとき、常に自分自身を蚊帳の外に置く。

バルメス一行は、支配欲と独占欲にまみれながら、それを自覚することなく行動する。一方、ハインツ一家は「誰とも争わない」だがそれは、争わないのではなく、争えないほどに弱かったのかもしれない。

マーグレットは、そんな一家の中で最も無知で、最も弱く、そして最も成長した人物だった。彼女は観察し、気づき、行動した。リッター博士の策略を見抜き、ドーラの不信感を察知し、腐った鶏肉をめぐるやりとりで博士を論破するような言葉を差し出す。それは、ハインツ一家が逮捕されないための、静かな保険だったのかもしれない。

ドーラは島を出たが、逮捕されなかった。証拠がなかったからだ。だが、彼女は後になって復讐に打って出る。なぜハインツが罰せられなかったのか?なぜ自分が信じたものが崩れたのか?その怒りと混乱が、手記という形で噴き出したのだろう。

だが、マーグレットの反論手記によって、ドーラは初めて自分が彼女の「掌の上で転がされていた」ことに気づく。そして、信じていたビーガンや呼吸法が「嘘だった」と思った瞬間、彼女の病は再発し、命を落とす。それは、信仰の崩壊がもたらした心因性の死だったのかもしれない。

リッター博士もまた、自らの哲学に酔いしれ、そのドーパミンに満たされていた。ドーラという信奉者の存在が、彼の「正しさ」を証明してくれる限り、彼は自分の思想に疑いを持たなかった。だがそれは、自己満足のための「正しさ」にすぎなかった。

マーグレットは、そんな人々の中で、唯一「進化」した存在だった。彼女は、リッター博士やドーラ、バルメス一行という反面教師たちから、注意深さと深い思慮、そして「したたかさ」を学び取った。それは、ガラパゴスで進化したトカゲのように、環境に適応し、生き抜くための変化だった。

そして、そこには「正しさ」などなかった。あったのは、ただ「生きようとする覚悟」だけだった。

R41