「グローバリズムのなれの果て」エデン 楽園の果て かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
グローバリズムのなれの果て
主演のジュード・ロウを筆頭に結構なメジャー俳優が顔を揃えているにも関わらず、なぜか日本公開が見送られた作品だ。ガラパゴス諸島のフロリアナ島で起きた実在の殺人事件を元に撮られた心理スリラーなのだが、その実態は、人類共同体の誕生から崩壊までを寓意に満ちた文体で描いた映画なのである。アメリカの凋落と共に資本主義の限界が叫ばれている昨今、現代グローバル社会の縮図としてご覧になっても十分通用する中味のつまった1本だ。
2度の世界大戦の狭間、ドイツ人哲学者フリードリク・リッター博士(ジュード・ロウ)は、文明を捨て、弟子であり恋人でもあるドーラ・シュトラウヒ(ヴァネッサ・カービー)を伴ってガラパゴスのフロレアナ島へ移住し、話題を集める。より良い人生と新たな社会モデルを追求する彼らの姿に刺激を受け、退役軍人のハインツ・ウィットマー(ダニエル・ブリュール)も妻(シドニー・スウィーニー)子を伴い島へやってくる。しかし、隣人の存在を望まないリッターとドーラに歓迎されず、両者の間には緊張が走る。その後、島にやってきたのは「男爵」を自称する大胆で謎めいた女性、エロイーズ・ベアボン・ド・ワグナー・ブスケ(アナ・デ・アルマス)。彼女は島に高級リゾートを建設する野望を抱き、ほかの住人たちを追い出そうとするが……。
映画.COMより
リッターとドーラしかいない原始的な共同体では、日本の縄文時代のように精神的なつながりが重視されている。そこへ、勤勉なウィットマー家が合流し、弥生時代の稲作のように本格的な野菜栽培と牧畜を開始、土地やロバの“所有”という概念がそこに生まれるのだ。さらに武器と兵士?を携えた植民地開拓者エロイーズが現れ、リッターやウィットマーが貯蓄している缶詰を隙をみて略奪し取引に流用、両家の分断&統治を常に画策しながら放蕩三昧生活はDSそのものといってもよいだろう。移民労働者や腹心の部下も容赦なくリストラする冷酷さを見せるのだが、しまいには両家のクーデターにあいあえなく殺されてしまうのだ。
その殺人の濡れ衣をリッターになすりられることを予測したウィットマーの夫人マーガレットは、難病を患っているドーラにフェミ的連帯で接しリッターの殺人教唆に見事成功する。(立膝片腕で)子供を産んだ女房ほど恐ろしいものはないというが、赤ちゃんに母乳をあげるため片乳をもろだしにしながら警察の取り調べに平然と応じるスウィーニーちゃんのたくまししさは、アナ・デ・アルマスのそれを軽く凌いでいた。日本のような人口減少国家とインドのような人口増加国家の勢いの差をまざまざと見せつけられた瞬間だ。
自分たちで作った農作物なんかの物々交換をしている間はそれなりに上手くバランスがとれていたものの、そこに貨幣が媒介して使われ出すと、なぜか共同体は心身ともに腐敗していく。ドーラの重症化する多発硬化病や歯の化膿、腐った鶏肉等の効果的メタファーにも注意したい。歯をすべて抜いてまで“腐敗”に気をつけていたはずのリッターが、なぜあんなことになってしまったのだろう。本作では唯一描かれていない“信仰心”や“モラル”が、この共同体に欠如していたからではないだろうか。
マックス・ウェーバーが唱えた勤勉さの喪失、不正を呼びやすい多数決という民主主義の根幹をなす制度、そして忘れてはならない信仰心や道徳心の欠如。物理的に言うならば、(グローバリズムの影響で?)曖昧になった国境、水利権をきちん定めておかなかったことも大きな問題だろう。今までお金、軍事力、科学にばかり頼りすぎていた私たちが見失っていたもの、“風の時代”といわれる今後200年の世界で最も重視される価値観を、故意か偶然かこの映画は映し出しているのかもしれない。
