笑む窓のある家のレビュー・感想・評価
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インチキ炸裂の爆笑「最後の一撃」! 退屈でもゆめゆめ最後まで席を立たれませんように!
こ、こ、これは……!!!?
マジでか。
えええええ!? びっくり!!!(笑)
くっだらねええええ!!!
でも、最高!!!
そうきたか、の、大爆笑必至のフィニッシング・ストローク!
これがやりたくて撮った映画だったのかよ。
アホちゃうんか、この監督(誉め言葉)。
しかも、これ思いっきり、インチキだろう!!!(笑)
比較的退屈で物事の起きないジャッロだと思ってだらっと観ていたので、完全に虚を衝かれました。
必ずしも、この「ネタ」に見覚えがないわけではない。
某ダイハード俳優出演の、サスペンスとか。
某有名マジシャン出演の、学生ホラーとか。
奇想天外映画祭で再映されてた変態映画とか。
そういえば、いずれのときも僕は見事に騙された。
自分は、この手の「ネタ」にはつい「油断しがち」な人間なのかもしれない。
それにしても、あまりに予期していなかったネタをくらったので、映画館で思わず馬鹿笑いしてしまった。
なるほど、こういうバカネタが仕込まれてるって裏情報が、なんとなくマニア間に流布しているから、意外に観客がちゃんと入ってたんだな! なんでこんなどうでもいいようなジャッロ(60年代後半から70年代にかけて作られたイタリア製残酷ミステリ映画)に、思いがけずたくさんのお客さんが入ってるのか、ホントに不思議に思いながら観てたんですよ。
あああ、なんの予備知識もなく観られてホントによかった!!
― ― ― ―
相変わらず仕事が目の回るくらいの忙しさで、前の映画鑑賞から1ヶ月くらいが空いてしまった。久々に観る1発目が敢えてこれなのか、と我ながら思わざるを得ないが、ジャッロの劇場未公開作が小屋にかかるとなれば、アルジェント信徒の僕としては、万難を排して参加するしかない。
なんだか今、シネマート新宿では僕が観たくなるような映画ばかりをやっていて、ベルリン・フィルの帰りに会社に寄ったあと、ついついレイトショーに足を運んだ次第。
ここ数年、『殺しを呼ぶ卵』(68・伊、ゴダールがジャッロに与えた影響を教えてくれた)や、『メサイア・オブ・デッド』(73・米、思いがけないアルジェント様式の前史が確認できる)など、興味深いカルト映画が何本も劇場公開されている。
ただジャッロのなかでも、本格ミステリテイストと異常心理傾向の強いタイプの作品には、なかなか出会えない飢餓感みたいなものがある。まさに、本作はその渇を癒してくれる一本といえる。
アバンは、良い感じにショッキングだ。
最初、なんの臓器か生殖器かもわからないようなセピア一色の肉塊が画面に大写しになり、ナイフが何度もそこに突き下ろされる。
観ているうちに、それがローマ人のような腰衣をまとった男だとわかる。
彼は天井から家畜のように吊るされ、二人の人物にナイフでめった刺しにされているのだ。あたかも拷問を受ける殉教聖人のように。
その人物は、めった刺しにされながら詩を唱えているらしい。
響き渡る声。身体からあふれ出る血をたたえる奇妙な詩。
この「声」と「内容」は、本作を通じて重要なモチーフとなっていく。
その後、場面かわって穏やかな出だしを迎える。
はしけに乗って、川を渡ってくる若き紳士。
同じはしけには、妙齢の美女も載っている。
出迎えるのは、つなぎを着た大男の運転手と、
純白のスーツを着こなした街の有力者(こびと)だ。
男は、絵画の修復師。街の有力者に呼ばれて、観光資源としてのフレスコ画の修復にやってきたのだ。女性のほうはフランチェスカ。もうすぐ退任する前任者の代わりに赴任してきた小学校教師らしい。
このあとも、やたらひんがら目の友人アントニオや、陽気だが発言の意図のとりづらい神父、知恵の遅れたネズミ好きの寺男、二階のベッドで寝たきりの妖しげな老女、色情狂と噂される年増の女教師、心の病を患ったレストランの奥さんなど、一癖も二癖もあるうろんな連中がわらわらと登場する。一見、若やいだ美人にしか見えないフランチェスカも、自室の冷蔵庫で大量のカタツムリを飼っているという際立った異常性を見せつけてくる。なんだよこのルチオ・フルチ感(笑)、『怒霊界エニグマ』(87)かよ!
カメラワークは、いかにもイタリア映画らしくてドキドキする。
男女の顔を画面の左右に寄せてアップで撮るのは、文藝映画っぽくてお洒落な感じだし、やたらキャラの頭上の空間を切り詰めた圧迫感のあるフレージングも、村全体の重苦しさと閉塞感を演出するのに貢献している。
カットの最後に怪しい人影や重大な証拠物を突然アップで映して、ガーンと音楽を鳴らすマカロニっぽいケレンのきいた演出もいい感じだ。
ただ、とにかく話がたるい(笑)。
あまり何も事件が起きないまま、
だらだらと進んでいく。
伏線らしきものはたくさん出てくるが、
フランチェスカのライターのイニシャルとか
しきりに強調される汚れた地面と足元とか
結局なんだったのかよくわからないものも多い。
教会と貸家とホテルと画家の旧家を
車やバイクで行き来しながら話は展開するのだが、
今どこで何をしているのかが非常にわかりにくい。
あと、最初から「笑みのある家」に
くちびるの壁画なんかあったっけ?
家の周り一周してたような気がするんだけど。
それと、会話がびっくりするくらいつながらない。
もとのセリフのせいなのか、
字幕に多少の問題があるのか、
中盤以降、みんなの言っていることがよくわからない。
質問に対して、明後日のこたえが返ってくるし、
だんだん禅問答を聞いているみたいになってくる。
中味はただの低予算ジャッロなのに(笑)。
まあでも、これってこの作品に限ったことではなくて、ダルダーノ・サケッティあたりの脚本家がかかわっているような70年代のすべてのジャッロにおいて、似たようなテイストが支配的なので、通常運転といえば通常運転。個人的にはあまり何も考えずに、のんびりと観ることができた。
とはいえ、やっぱり、ほぼ「ホラー」として成立していないのはいささか物足りないかも。
今の感覚からすると、もう少しスプラッタ要素とかショッカー要素とかがあってもバチは当たらないとも思う。ただ、当時のイタリア人にとってジャッロは必ずしも「ホラー」ではなく、あくまで「異常な連続殺人鬼を題材にとった残酷ミステリ」という枠組みのジャンルであり、これはこれで「アリ」な演出だったんだろう。
事件の真相に関しても、いろいろとツッコミたい部分はある。
どこまでが誰のもくろみで行われていたのかよくわからないとか、ヴィレッジ・ミステリとしての整合性がよくわからないとか、結局なんのための犯罪だったのかがよくわからないとか、前半でいきなり出てこなくなったキャラが結局どうなったかよくわからないとか、誰かわかるという人に確認したい要素は山ほどある(笑)。
そもそもこんなヤバい事情があるのに、この修復師はなんでわざわざ街に呼ばれたんだろう??
だけどまあ、それはそれとして。
最後の「アレ」には本当に驚かされた。
びっくりした。
大笑いした。
突拍子のなさが、芸として昇華していた。
だから、それ一発で、もういいんじゃないか、
とも思うわけだ。
だって、もしお話にもっと整合性がとれていたら、きっとラストを見る前には真相に気づいちゃってただろうし。
わけがわからなくて、ひたすら地味で、意味もなく長くて、観ていて疲弊するばかりの、薄ぼんやりとした悪夢のような映画だからこそ、唐突にあんな素っ頓狂な落ちをつけられて、逆に凄い衝撃を受けられたんだともいえる。
個人的にはアルジェント教徒なので、もっとアルジェントっぽい「真犯人は実は●●」というパターンを考えていた。一応どの事件でもアリバイないし。で、大外れ。
たぶん、あれは監督の用意した周到なレッドへリングだったんだろうね。
― ― ― ―
本作は、ジャッロでときどき見受けられる「美術」を題材にしたミステリ映画でもある。
ダリオ・アルジェントだと『サスペリアPART2』(75)とか『スタンダール・シンドローム』(96)とか。あと未見だけど、エンニオ・モリコーネのドキュメンタリーで流れて猛烈に観たくなった『怪奇な恋の物語』(エリオ・ペトリ、68)とか。
ちなみに後者は、「荒らされるキャンバス」「飾られる花束」「画家の殺人幻想」など、『笑む窓のある家』に直接的な影響を与えた可能性が高い。本作の芸風自体もどこかエリオ・ペトリを思わせるシュールさがあるし。
本作で登場するのは、教会の祭壇奥壁に描かれたフレスコ画だ。
ふつうフレスコ画(漆喰が固まる前に絵を描いて画材を固着させる)というとゴチック~ルネサンス期に一般的だった手法だが、本作の作者ブオノ・レニャーニは20年前に死んだ20世紀の画家、ということになっている。
描かれているのは「聖セバスティアヌス」を模した絵だというが、皆さんもご存じの通り、通例、殉教聖人としての聖セバスティアヌスは「体じゅうに弓矢を射られた姿」で表現される。身体のあちこちにナイフを突き立てられた姿というのは、一般的なイコノグラフィからは外れていて、それはとりもなおさず、この壁画が聖人を模して描かれた「実際の殺害シーン」である可能性を示唆している。
さらにいえば、たとえばこれが画家自身の表現でもある場合は、その画家が「生存している」可能性をも示唆しているかもしれない。なぜなら、聖セバスティアヌスは「ハリネズミのように弓矢で射られる」刑では結局死なず、生き永らえたからだ(その後、同じローマ皇帝ディオクレティアヌス帝によって、タコ殴りにされて殺されることになる)。
両サイドに描き込まれた醜い顔は、ルネサンス期のグロテスク画の影響を強く受けた表現となっている。この二人が誰か、というのが本作におけるキーポイントになってくるわけだが、そもそも「教会の中央祭壇画の主像として聖セバスティアヌスが安置される」ことはほぼ考えられない。教会はあくまで父なる神とイエス・キリスト、聖母マリアを崇敬するための場所であり、殉教聖人の姿があるとしても三連祭壇画の一翼に、教会の守護聖人として描かれる程度だろう。
すなわちこの絵の存在自体が、本作における「真に重大な秘密」と直接つながっているともいえるわけだ。
完全に剥落した画面を本当に再現・修復できるのかとか、いきなり到着してすぐに乾いた壁に筆を走らせてるけどいいのかとか、プロの修復師が観たらいろいろ文句を付けてきそうなところも多いが、ちゃんとジョルナータで分割されているらしき下絵が出てきたり、アルカリの石灰を破壊するのにちょうどよさそうな塩酸の話が出てきたり、意外にいろいろと考えて作っている気配もある。
なお、「死に瀕した人を描く画家」というネタは、なにも本作で始まったものではない。
「メメント・モリ(死を想え)」の思想が西洋絵画史のベースにある以上、「死を描く絵画」は常にむしろ「主流」であり続けてきた。何より、キリストの磔刑図や「ピエタ」自体が「死に瀕した人物の肖像」に他ならない。殉教聖人、サロメとヨハネ、ユディットとホロフェルネス、クレオパトラ、オフィーリアなど、臨終の瞬間をテーマにした作品を挙げ出したら、それこそ枚挙にいとまがない。
臨終のシーンを描きとめる習慣は、デスマスクの習慣とともに長く西洋では伝統的に引き継がれてきたし、モネの「死の床のカミーユ・モネ」やクリムトの「死の床の老人」、カリエールの「病気の子ども」といった有名画家による作品もたくさんある。
本作では「芸術家が死を描くための殺人」というテーマが描かれるが、これにもまた怪奇小説や映画のなかに、いくつかの前例が見いだせるはずだ。
なんにせよ、絵画とジャッロ映画の相性は良く、本作のキービジュアルとしての「笑む窓のある家」のビジュアルインパクトもすこぶる強い。
しょうじき映画の出来としてはイマイチ、イマ2かもしれないが、「美術系ジャッロ」としては、相応に成功しているのではないかと思う。
シネマート新宿様におかれましては、次はぜひエリオ・ペトリの特集上映をぜひお願いしたい。
死に際の美学
20年前に亡くなったレニャーニ作のフレスコ画の修復依頼を受けて、北イタリアの田舎町の教会にやって来た男が、不穏な事態に巻き込まれていく話。
男が刺されている不気味な絵と対峙する中で、脅迫の様な電話がかかってきたり、この町に主人公を呼んだ友人が…!!
そして友人が口にしたレニャーニの暮らしていた「笑む窓のある家」に何が?というストーリーだけれど、なんだか全部コッポラだより?しかも結構唐突というか…。
そんなバーさん2人ぐらいなんとかなるでしょとか思ってしまったし、色々繋がっているのもある意味想定内だし…。
で、主犯は頭がおかしいのはわかったけれど、他が協力する理由が全然わからず、なんだこれ?状態。
古い作品とはいえ、もうちょい期待したんだけどな。
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