「文学的行き止まりを打ち破る咲耶の突破力。」星と月は天の穴 あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
文学的行き止まりを打ち破る咲耶の突破力。
1969年を舞台とした作品である。この年にあったことで映画内で映像が取り上げられているのはアポロ11号の月面着陸だが、全学連による東大安田講堂事件があった年である。実に時代は政治の季節だった。政治と文化は一体化しており、その中で政治とは一線を画して恋愛と性愛をベースとした文学を志向した吉行淳之介の初期作品群(この「星と月は天の穴」は1966年の作品)は軟派な文学とされてマイナーな位置づけであった。
吉行の文学が、さらに性愛を濃く激しく描く一方で、時代がそれを容認して、より幅広い読者に支持されるようになるのは、政治的動態が一段落した80年代近くになってから。作品でいうと「夕暮れまで」である。
さて、映画は、綾野剛演じる作家の矢添が、自分をモデルにした小説を書きながら、複数の女性の間を揺れ動く物語である。全編モノクロームであり矢添が性欲を感じる対象(スモークサーモン、女性の唇、女性の身体の傷跡など)だけが赤のパートカラーで表現される。舞台も矢添の部屋や、銀座や国立の店店ばかりであり(「ロジーナ茶房」とかね)人工的で閉鎖的な印象を与える。つまり吉行=矢添の世界は、その世界の中にいる女性への興味、欲望に内向しており、外の世界には開かれていない。
これが文学的内宇宙であることは、原稿用紙の文章が映画内クレジットとしてそのまま現れることや、基本、出演者が皆、セリフを棒読みすることでも表現されている。そして内宇宙では、星も月も書き割り的な穴ぼこに過ぎず固有の光も熱ももたないことからこのタイトルになっているのだろう。
唯一、矢添が、外界と接する可能性があるのは、矢添の部屋の下にあるブランコのある公園だけである。
だから矢添は、最終盤まで公園に足を踏み入れない。
実にグジグジした作品であり、正直、途中で席を立とうかと思ったほどである。それを救ったというか、映画的に決着をつけたのは、主演女優咲耶のラストカットとエンドロールのブランコを漕ぐ姿である。このシーンは、彼女が矢添を赦し、違う世界に導いたことを暗示している。おそらく、その世界では、矢添はミソジニーな女たらしではなく、一人の男として、おそらくは同じ性癖をもつ女と対等な関係をもっているのだと思う。というか、そうあって欲しい、そうあるべきだと思うのだが。
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