落下の王国 4Kデジタルリマスターのレビュー・感想・評価
全183件中、1~20件目を表示
魂を救う物語の力
子どものころ、海外の昔話を収めた絵本全集が家にあり、毎晩寝る前にそれを読むのが日常で一番の楽しみだった。「落下の王国」は、そんな物語の原体験を思い出させる作品だ。
撮影での大怪我と恋人との別離に絶望した主人公のロイは、骨折で同じ病院に入院していた少女アレクサンドリアに即興の物語を語って聞かせ、彼女の気をひく。彼女に病院の薬棚からモルヒネを持って来させ、服薬によって自らの命を絶つためだ。
少女の名前からの連想だろうか、アレクサンダー大王についての語りから入ってゆく物語世界の絢爛なビジュアルは、ロイの現実の暗さとは対照的だ。主要な登場人物は現実でアレクサンドラと面識のある人々の顔をしているので、あの壮大な光景は彼女が想像したものだろう。これが本当に素晴らしい。
本作自体、ロイの物語のごとく明確な脚本がなかったため出資者が集まらなかったそうだ。ターセム監督は自己資金を投じて、CMの仕事をしたロケ地で少人数で少しずつ撮るなどしつつ、4年に渡り20か国以上でロケを行なったという。そんなインディペンデントな作品とはとても思えない映像のスケール。
石岡瑛子の衣装が、この物語の世界観を決定づけている。昔の寓話らしい雰囲気があり、それでいてどこか近未来的に見える瞬間もある。エキゾチシズムが漂い、非現実的で、この感覚は異国のおとぎ話の楽しさそのものなのではと思う。タージマハルにもコロッセオにも負けず、壮大な背景を引き立て物語のイメージを牽引する強さは、石岡瑛子ならではだ。
そうした映像のインパクトに負けず劣らず驚いたのが、アレクサンドリアを演じたカティンカ・アンタルーの愛らしさだ。いや、なんだこのかわいさは。こんなかわいい子からお話をせがまれたら、ロイみたいな下心がなくてもいくらでも語ってしまいそうだ。
重要な役どころをあんなに自然に演じていたのに、当時全く演技経験がない5歳の子どもだったというから驚く。パンフレットのプロダクションノートを読むと、監督の演出の妙だなと思った。カティンカが女優としての自意識を持たないうちにアドリブで撮影する、彼女の勘違いも演出に生かす(モルヒネのEを3と勘違いするエピソードは実際のカティンカの勘違いから生まれた)など。是枝裕和並に子役の活かし方が上手い。
ラストの、サイレント映画のスタントシーンのラッシュで流れるナレーションは、撮影から数年経ったカティンカがなんと即興で当てたものだそうだ。いや、すごい。もう1回観たい。
観る前は宣伝のイメージだけで、もろアート系の難解な映画だったら寝てしまうかも、などと思っていたのだが、よい意味で予想を裏切られた。ロイの即興とアレクサンドリアの想像が織りなす美しいおとぎ話、さらにその背景には、絶望に堕ちたひとりの青年の再生の物語があった。
ロイの語る物語が魅力的なのは、その裏に死をこいねがう彼の心があるからだという気がした。足が不自由になった彼は、アレクサンドリアを惹きつけ、言うことを聞かせなければ死ねない。「アラビアンナイト」のシェヘラザードとはある意味真逆の動機だが、死を希求する心が物語に命を宿らせるというのは皮肉めいていて、なんだか切ない。
ところが、アレクサンドリアとやり取りをしながら物語を紡ぐことで、物語の展開もロイ自身の心も変化してゆく。少女の無邪気さに心を開き、悲劇を頑なに拒む彼女の純粋な思いに触れ、彼は生きる力を取り戻すのだ。
ターセム監督は、自身の失恋がきっかけで、20年ほど構想中だった本作の製作に動き始めたという。ロイの失恋は、監督の経験を反映させたものだ。
モノクロ映画のスタントのコラージュシーンは、ロイのスタント俳優としての復活を想像させると同時に、この映画を作ることによって失恋の痛手を癒した監督の心から溢れる映画愛、現代の映像表現の礎となった先人へのリスペクトをも感じさせる。物語の筋と直接関係ない映像なのに何故かぐっときた。
ロイはアレクサンドリアとのやり取りによって紡ぎ出した物語に救われ、「これを作らずには息もできませんでしたし、私は生きていけませんでした」と語るターセム監督は「落下の王国」という物語に救われた。
本作の圧倒的な映像美は、言葉よりもはるかに雄弁に物語の持つ救済の力を語る。この印象と感動は、映画であればこそ。
癒しと希望の物語が、彩度と緻密さを増した映像美でよりパワフルに
オリジナル版の日本での劇場公開は2008年だが、製作は2006年なのでもう20年近くも経つのかと感慨深い。当時から映像美が絶賛されていたが、このたびの4Kデジタルリマスターで精細度はもちろん、彩度もより豊かに鮮やかになり、世界遺産を多く含む雄大な景観や荘厳な建築群が一層美麗に迫ってくる。
美しいビジュアルが持つ表現力が強化されたおかげで、ケガで入院した病院で出会う青年スタントマン・ロイとルーマニア移民の5歳少女アレクサンドリアが、ロイの即興で語る冒険物語を通じて関係性を変化させていく過程もよりヴィヴィッドに感じられるようになった。優れた物語には人を癒し希望をもたらす力があることを、病院内の現実と空想の物語世界を行き来しながらわかりやすく示してくれる。
アレクサンドリア役のカティンカ・アンタルーは1997年生まれで、愛らしい表情とぽちゃっとした体型も本作の魅力に貢献。キャリアは2011年と12年の短編2本のあと途絶えているが、引退してしまったのならさびしい。ターセム・シン監督は2015年製作の「セルフレス 覚醒した記憶」以降ブランクがあったが、インドで起きた悲劇的な実話に基づく2023年製作の「Dear Jassi」が高く評価されているようだ。こちらも日本で鑑賞できるようになることを期待する。
映像の面白さは現実世界の奇観を凌駕したか
初公開からほぼ20年を経てこれほど評価が上がった映画も珍しいし、4K版のリバイバル上映が連日満席になっているのも素直に凄いことだと思う。石岡瑛子の尖りまくった衣装を筆頭に、再評価されるのも当然ではあるのだが、正直なところ、ちょっと借り物感が強すぎないかという気はする。世界各地の奇観をめぐって撮影された映像の壮麗さが目を引くのはわかるのだが、たまたまそのいくつかに旅行したことがある者として言うと、映像のマジックに見惚れるというより、本当にすごい景色を見つけてきて、そのまま撮影している印象なのだ。もちろんロケーション選びと石岡瑛子要素によって誰も見たことがない映像を作ろうという意図はわかる。ただ「この景色を映画ではこんな風に見せるのか!」という驚きはなくて、しかもほとんどの景色は世界的な観光地であり、例えばクライマックスの城でのバトルの舞台に日本の姫路城とか高野山とかなんなら宮島とか平安神宮とか浅草が選ばれていたら、われわれはどう感じただろうかと思ってしまう。たぶん日本の観光地に石岡瑛子の服を着たアイツらがいればオモロカッコよくて笑ってしまう気がするが、同時にトンチキなエキゾチシズムも感じるのではないか。象徴的なのがバリ島のグヌン・カウィ寺院をバックに儀式としてケチャが行われている場面で、ケチャが持つ文化的な文脈は完全に無視した上でのそのまんまのケチャなので、わあヘンな芸能があって面白い!そのままやってみて!という植民地的見世物精神だと言われてもしょうがないとは思うのだ。考えたらターセムは『ザ・セル』でもダミアン・ハーストの輪切りアートをそのまま再現していて、少なくとも独自のビジョンを持った映像の魔術師というより引用とアレンジの人であり、ときには盗用スレスレなんじゃないかという気がしてくる。少なくともこのやり方はこの20年で世界的に許容されなくなってきており、大なり小なり時代の狭間だったからこそ実現できたアプローチだった。本作は有り体にいって、有名な世界遺産と奇観のパッチワークだ。とはいえ映画表現に引用はつきものだし、あれもこれもダメだと言いたいわけではなく、ただあまりにもターセムのやり口はひねりのない借用なんじゃないかという疑念があるという話。物語的には弱い部分があって、それを映像の凄さと映画愛(これについても思うところはある)で補っているような作品であるだけに、手放しに絶賛はしづらいし、実際映像的な部分での興奮が現実での記憶や体験に勝ることはなかった。と、こう書くともはや「俺はあそこもここも行ってますマウント」と思われることも承知していて、「いや、すごい映画だしすごい映像なのはわかった上で、ターセムという映像作家の本質を考えたいんです」なんだけど、それも言い訳として感じ悪く取られるとは思う。だから一切改行せずに文字を詰め込んで読んでくれる人を限定するような書き方をしています。そこはちょっと腰が引けている自覚はあって申し訳なく思っているのですが、ただこの映画がきっかけになって、見た人の気持ちが映画の中にとどまるよりもさらなる世界へと広がっていったらいいなと心から思っています。
聞いてたよりもちゃんとストーリーしていた
前評判を聞いて、もっとこう、台詞少なめの高熱のときに観る悪夢のような映画を覚悟していたけれど。
評判通りの美しい映像だけでなく、ストーリーも時代考証も割としっかりしていてわかりやすかった。
あらすじを読まないで見ての理解度はわからないけれど、あらすじさえ知っていれば「なるほどね」となるくらいの導入。
お話の内容が鮮烈であればあるほど、間のままならない現実(どこかで大人になるしかないと突き付けられる青年ロイ、移民の子で幼いながらオレンジ農園で働く少女アレキサンドリア)もより浮き彫りになっていく。
個人的には随所に散りばめられた一次創作あるある(後付の伏線、思考がそのまま台詞になる、ご都合主義の改変など)かツボにきました。
そして一次創作書きとして最後の最後は主人公達のジョジョの第3部かという死に様以上に。
自分の生み出した愛着のあるキャラクターを自己投影した物語の中で殺さなきゃいけない精神状態のロイに感情移入して泣きました。
献身的な猿の彼女が、彼にとっての男を踏み台にする女ちたちのアンチテーゼだったのかなとか。
映像は綺麗 構成も面白い オチも素敵 でも眠い
2025年劇場鑑賞348本目。
エンドロール後映像無し。
なんかしらんけどアーティスティックな映画なんだろうな、と思って行きましたが、現実と虚構の話を行ったり来たりして、その現実パートもただ話好きの男が子供に話すだけ、という有りがちなものではなく、ちゃんと意味があったり、少女のリクエストに応えて話の内容が変化していくのが面白いと思いました。別に本当に合った話じゃないから変え放題ですし。
予告でアーティスティックだと思っただけあって衣装やCGではない世界中を回って作った風景が幻想的で、美しい絵画を見ているような気持ちになりました。
また、最後のオチに出てくる実際のある俳優の映画のハイライトがこの映画のオチとして素晴らしく機能していて、映画として高い完成度を誇っているのですが、身も蓋もない事をいえば元々の語り手が暗い現実を抱えているだけあって話が暗く、どうしても眠気を誘ってしまいます。
終盤話を終わらせたくて富野由悠季みたいな事をしだしてからは面白かったですが(笑)
映像と衣装が素晴らしかった〜❤️
石岡瑛子さんデザインのVividな衣装、13の世界遺産を含む世界24ヶ国を巡って撮影された圧倒的にSpectacleな映像美、若干チープだけどコミカルな物語…全部引っくるめて(途中少し寝落ちたけど)興味深い作品でしたっ‼️
人生の一本に出会った
20年近く前の映画が再上映され話題になっていたので見に行った。
聞くところによると映像美がとにかくすごいとのこと。
なら、そのすごい映像美とやらを見せてもらおうか、
と、話にはたいして期待せずそんな気持ちで……正直言えば舐めていた。
まず映像だが、実際――すごい。
散々言われているように遠景でも迫力のあるロケーション、
深い青空と対照的な無限に広がる砂漠にたたずむ五人の復讐者達の絵は圧倒される。
恥ずかしながら知らない場所もあって
世界にはこんなところが実在するのかと驚きと共に息を呑むシーンが目白押しだった。
前半はこの映像美で間を保ったようなものである。それでいて退屈しないのだからすごい。
だが私が本作で惹かれたのはストーリーだ。
完全に舐めていたが、非常に面白かったし、感動した。
面白いと思った理由はこういうタイプの作品の類型は
あまり多くないことがひとつ挙げられる。
例えば事件が発生してその解決に奔走する刑事達の話なら、
これは当然どういう形であれ終わりは事件の解決が着地点になる。
しかし自殺志願者が少女に作り話を聞かせるストーリーだと、
実際に自殺は達成された上で女の子が後年に続きの話を作り出すなどの、
突飛な年代ジャンプも起きそうで、色々な方向性の締め方が想像出来てしまう。
なんなら途中で反転して、少女を作り話で救う物語になるのかな、とまで思っていた。
どうなるか読めない、だからこそどうなるかなと締め方には興味津々だった。
そして途中で語られる物語は壮大な映像美と、
陰惨な復讐劇というストーリーとは対照的に、
子供に向けた作り話であるという点から端々に愛嬌がある。
作中に出てくるキーワードは、綺麗な蝶々や入れ歯など、
話を聞く少女、アレクサンドリアが理解しやすく楽しみやすいようにチューニングされていて
ロイの気遣いがうかがい知れる。
特に作り話内で司祭は悪役として登場したのに
「司祭様はいい人よね!?」というアレクサンドリアの要望により、
打って変わって「そう、もちろんいい人だとも、鋭いね。この棒も蛇退治に使うんだよ!」という
急展開は可愛らしいやら可笑しいやらでとても大好きなシーンだ。
(ただこの作り話という点を掘り下げると、
もーっとめちゃくちゃな展開にしたっていいわけで、
そう考えると表向き真面目な復讐譚でもギャグやコメディをより散りばめた方が好みとは思った。
個人的にはまだ大人しいなと)
だが何より胸を打ったのは終盤だ。
何度となく成功しかけた自殺は失敗し、少女には怪我まで負わせ、
ロイはすっかり自暴自棄になり、
作り話は登場人物が次々に死んでいく露悪的なものになる。
どうして殺すのと問うアレクサンドリアに、
仕方ないんだと語り、物語はバッドエンドへ向かう。
もうやめてと泣いて懇願するがロイは止まらない。
そこで出た台詞が忘れられない。
「別にいいだろう! 僕の話だ!」
「二人の話よ!」
この一言が今までのどの映画体験でもなかったほど、
私の胸に深く突き刺さった。
そうなのだ、物語を紡ぐということは
作り手が受け手に何かを語ることだけではないのだ。
作り手と受け手の二人で共に夢を見ることなのだ。
アレクサンドリアの場合は自分が作中に登場までしているのだからその思いはひとしおだろう。
もちろんこれは物語だけを指すわけではない。
「僕の話」とは「僕の人生」のことだ。ロイの物語だ。
登場人物の死は自暴自棄になったロイ自身の、自分の人生への諦観の表れだ。
アレクサンドリアはその自傷行為を(無自覚ながら)咎め、
それはとても素敵なものよと、だから捨てないでと、ひしっと離さないようにしている。
彼女にとってロイと共に語る物語は――ロイとの日々はもう宝物なのだ。
もうロイの物語に登場した以上、ロイの人生はロイだけのものではない。
これが作中示唆されたように、ロイの魂の救済へと繋がっていく。
このとても無垢で美しい言葉が、深く深く私の胸に刺さって抜けない。
おそらく私以外の人間が、同じ場面で同じように感動するわけではないと思う。
というか私も10年後に見たら、いやあの時はあんなに感動したのになぁ…と首をかしげるかも知れない。
それでも今、この瞬間、私にとって今年見たベストを越えて、
人生においてもベストの一本に出会えたと思った。
その後のオチもまた良い。
映画の中のスタントマン、あれが全てロイというわけではないのだろう(おそらく)。
だがそれをロイだと思い無邪気に喜ぶアレクサンドリア。
たとえそれが勘違い、夢のようなものだとしても、
彼女にとってはその姿こそがまぎれもない真実であり喜びなのだ。
それはハッピーエンドで締められた五人の復讐譚も同じである。
私の胸にとても温かいものを残してくれた『落下の王国』は、
物語という夢を見る素晴らしさを語った名作だ。
勇者ヨシヒコ
私はめちゃくちゃ面白かった。でも、合わない人・理解できない人がいるのも分かるし、今のご時世で放送や配信が難しい理由も理解できた。
※本内容は「ネタバレなし」「補足」「ネタバレあり」でわかれています
ーーーー
ずっと『落下の王国』のことを考えている。
そもそも、この映画は大衆向けのエンタメではない。楽しめる人は限られると思う。
・ある程度映画を見慣れていて
・ある程度の状況把握能力があり、妄想能力があり、行間を読むことに慣れていて
・妄想や考察を楽しめる
こういうタイプの人には向いていると思う。
反対に
「今なにが起きてるのか分からない」
「ちゃんと説明してくれないと理解できない」
みたいな人は向いてないし、邦画しか見ない人も向いてない(配役が分からなくなるので)
◼️物語自体はシンプル。
落下による怪我で入院した少女アレクサンドリアと、スタントマンの仕事で落下による怪我で入院した青年ロイ。
ロイは「ある願望」を持っていて少女を利用するために、物語を通じて仲良くなっていきます。
ただこのあらすじも
・この時代や建物の説明
・登場人物の生い立ち
・なぜ彼らが病院にいるのか
・感情の言語化
といったことの「言葉での説明」は一切用意されてません。
全部、観客側が察して気づく必要があります。
さらに登場人物の妄想や視点によって場面は行き来し、
「理解した」と思ったら次の場面へ進みます(しかもそれも察しが必要)。
感情の揺れも表面的ではなく、含みが多くて難しい。
当時の差別や移民問題といった、ある程度の前提知識がないと理解しづらい描写も多く、たとえば「インド人」と紹介されていた表現が、もともとは「インディアン」という差別的な言葉だったこと。
あとは「なぜ子どもが通訳をしているのか」という疑問など、「移民の親子の場合、子供の方が言語能力度が高いため、親の通訳になりがちである」であるという知識がないと、意味不明な状況になってします(私は一緒に行った友人とすり合わせを行なったり、映画終了後に設定を思い返して「あっ、そういうことか」と気づいたりして気づきました)
◼️評価について。
中盤までは
「映像は美しい。でも皆が絶賛するほどか?」
と感じていました。
しかし、終盤にさしかかったところで一変します。
「あの小さな違和感は、全部伏線だったのか」
そこからの怒涛の展開。
点と点が一気につながり、最後のたたみかけは本当に凄かった。
分かりやすく提示してくれている部分もあれば、
あとになって落ち着いて理解したり、
考察を読んで初めて気づく部分もありました。
鑑賞後、友人と「ここってこうだよね」と語り合えたのも含めて、
とても良い映画体験でした。
◼️キャラクターもすごく魅力的でした。
特にアレクサンドリア。
「子どもとはこういうものだ」という大人の枠にはめず、
子どもの賢さ、純粋さ、純粋でなさ、含み、優しさ、強さ。
そして、それを取り巻くどうにもならない社会と、大人たちの優しさ。
◼️まとめ
貧困も差別も絶望も当たり前に存在し、
死はすぐ隣にあって手を伸ばせば簡単に届く距離にあるのに、
死を美化しない描写が本当にすごい。
絶望の先の希望の話だった。
「汝、落下を畏れるなかれこの美しき世界を仰ぎ見よ」
ーーーーーーー
◼️補足(上記の文が少し高尚っぽく見えるかもしれないと思い、補足します)
上記で「こういう人は楽しめない」と記載したのは
私の親が「分かりやすい大衆作品」しか楽しめなかったことや、
友人に「洋画は顔と名前が覚えられないから見ない」と言われた経験からです。
落下の王国を観て
「親が見たら『よく分かんない』って映画館出て行っただろうな……」
と推測しました。たぶん、私の親はそうしたと思います笑。
今回は「行間を読むのが好きな友人」と一緒だったからこそ、深く楽しめました。
いろいろな人と関わってきて思いますが、
漫画・小説・映画といったエンタメを楽しむこと自体にも、適性はあると思っています。
「この言葉の意図は何だろう」
「この行動はどこにつながるんだろう」
と考え、妄想し、思考を巡らせることを楽しめる人は、実は少数派だと思います。
同じ日本人(実写)の外見で、映像だけではなくセリフですべて説明してくれて、感情も分かりやすく提示しており、余計な展開を挟み込まない。
そうしないと理解できない層は、思っている以上に多いと感じます。
(これが良い・悪いという話ではなく、娯楽を楽しむ上での好みの違いです)
ーーーーーーー
■ネタバレありの感想
子どもを利用した自殺補助、奴隷問題、移民問題、差別表現。
いやーーーー。これは確かに、配信も大型映画館での放送も難しい作品ですよね。
以下、考察を含んだ感想です。
①ロイの言う「みんな知っている」
この「みんな知っている」は、出会いから最後まで3度ぐらいにわたって出てくる言葉です
・冒頭(アレクサンドリアがオレンジを投げたこと)
・中盤(アレクサンドリアが嘘つき)
・終盤(アレクサンドリアがロイの自殺補助のために薬を盗んだこと)
などを指していて、だからこそ最初に「みんな知っている」という言葉があったため、ロイの冒頭の「みんな知ってる」は「アレクサンドリアの悲劇(生い立ち、ケガした理由、英語を読めること)」も、みんなが知っている最初からアレクサンドリアを利用するために近づいたのかな?と思いました
②アレクサンドリアの嘘
アレクサンドリアが病院で、母親に向けて怪我の状態を通訳する場面。
アレクサンドリアは英語が堪能なのに、
「大したことない」
「ちょっと痛いだけですぐ治る」
「心配いらない」
と、わざと軽く訳し、英語が分からないふりをしていたそうです。
※母親はずっと「娘は大丈夫なのか」「どれくらい深刻なのか」「すぐ帰れるのか」と、娘のことしか気にしていなかったそうです。
もしかすると、
・薬を3錠以外捨てたこと
・薬を渡すふりをして砂糖菓子を食べさせたこと
これらも、
あの通訳の場面と同じ「分からないふり」の延長だったのではないか、
と感じました。
③コメディ映画か否か
私と友人は「青春映画」と思ってみていましたが、割と多くの人が「コメディ映画」と評していると知りました。
「この作品を見てコメディ映画だって思う?」と戸惑いました。
でも、
・ネックレスに書かれた長文
・猿が地動説を発見する
・誓いは嘘で、右手は嘘のポーズをしていた!
・司宰は善人!嘘!やっぱり悪人です!
・捕まっている時の結び方がリボン結びだったり
これらを思い返すと、
「確かにコメディとも言える……!」
と衝撃を受けました。
あれらの表現は「物語内の話」であることと「感情に飲まれた人間の自暴自棄」として受け取っていましたが、
改めて考えると、確かに可笑しさも含んでいたなと思います。
④配役がわからない
衣装が素敵な分、衣装のインパクトが強くって、衣装はそのままに配役が変わったシーンで混乱しました。俳優さんの顔を見て「この俳優さん、さっきの人と変わっている…?」と悩んだり。
ただ、その“分かりにくさ”自体が、この映画の現実と幻想の境界の曖昧さにもつながっているように思います。
⑤映画ガチ勢しかいなかった
過去1マナーが良かった。
エンドロール流れた時、誰も立たないし、スマホ出さないし、隣の人とも話さない。最高だった。
また思い出したり、語りたくなったら追記するかもしれません。
ひとまず今回はここまで。
(2025.12.14)
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 『落下の王国(The Fall)』とは映画のことだったのね、という話。映画好きには堪えられない時間。堪能した。
①恥ずかしながらこの映画のことは知らなかったし、ポスターから受けるイメージから小難しい話かな、と思って観に行ったらとても分かりやすい映画だった。
②映像も素晴らしい、美術も素晴らしい、石岡栄子の衣装も素晴らしい、だれないえんしも宜し、そして何よりアレクサンドラ(前半はそのこしゃまっくれた言動に少々イラッとすることもあったけど)の視点から、ロイとアレクサンドラ(と病院関係の人々)の話と、ロイの語る結構行き当たりばったりの山賊とその仲間達と悪徳総督との因縁の争いの話が平行して進み、そしてラストに向けて二つの話が収斂していく脚本が面白い。
③ラストにはここまでを観て貰った観客へのプレゼントの様に驚きの至高の数分が続き、ここ迄でずいぶん緩んだ頬に更に微笑みを浮かべさせてくれる。
「The Fall」が映画の世界を支えてくれているという賛歌になっている。
映像美、遊び心、そして映画愛
映画は、モノクロ無音のスローモーションのシークエンスから始まる。
一体どんな場面を撮っているのか、視点を変え、画角を変え、被写体との距離を変え、途切れなく繋がれる画によって徐々に明らかになっていく全貌。最後はつり上げられた馬の画で終わる。冒頭のこの場面を目にしただけで、傑作の予感がする。
カラーの映像に切り替わってからは、噂に違わぬ「本物の」映像の美しさに終始魅入ってしまった。
物語の世界を彩る赤、青、黄、緑、白、黒・・・。原色なのにケバケバしさがなく、エキゾチックで品がある衣装。バックに映える美しく雄大な自然と圧巻の伝統建築物。どこを切り取っても一枚の画として成立するように作ったかのような徹底的で尋常でない「見栄え」への拘りを感じる。
橋から落ち、夢破れ、恋に破れて自暴自棄になった青年が、木から落ちた少女に語る「つくり話」。話の筋はやや強引で、子供だましのもののようにも感じるが、青年一人が即興で紡いだ作り話は、悲劇的な結末に終わろうとしていた。しかし最後に(また落ちて怪我した)少女がもう一人の作り手として参加したことで、青年の生きる力を呼び覚ますことになった。怪我の功名とはこのことか!
少女のしゃべり方と動きが愛らしく、好奇心と遊び心に溢れている。象、猿といった動物が活躍するのも子供心を意識した演出だろうか。
そしてラストのモノクロ映画スタントシーンのカット集は、CGもVFXも無かった時代に、観客を驚かせ、楽しませようと身体を張って撮影に挑んだスタントマンやスター達へのリスペクトに溢れていた。
個人的には、バリのダンスシーン、姫の蓮の花の衣装がとても印象的だった。ターセム監督とデザイナー石岡瑛子の、自然や歴史、文化への真摯に向き合うスタンスや畏敬の念がクリエイティビティの発揮に繋がったのだろう。
映画館のロビーでスタッフに声を掛けられて手に取ったパンフレットは、壁掛けカレンダーのような見たこともない特大サイズ。写真集のような中身だった。先に購入した男性が「こんなのどうやって持って帰るの?鞄にも入らないし、家でもどうやって保管すればいいんだよー」と笑いながら持ち帰っていたのが可笑しかった。
今までにない、映画体験をさせてもらいました。
Thank you,Thank you, Thank you very much!
※※追記~物語について~※※
映像が素晴らしいので、観終わったあとはそこにばかり意識が向きがちだったが、少し時間がたって「物語」というものについて考えさせられた。
親が子に読み聞かせるように、物語る者と、それを聞く者が同じ空間でその物語を共有するとき、語り手は聞き手の反応を見ながら語り口を変えるし、聞き手の反応次第では、話の中身すら変えてしまうことがあるだろう。文字のない時代に生まれた神話や昔話も、そういった側面があったのではないか。神話や昔話は、語り手と聞き手が共同で創るもの。劇中で、途中から少女が物語のなかに登場するようになったのも、そう考えると納得がいく。
良き物語は、良き語り手と良き聞き手の共同作品。そういうことに気づかされる映画でもあった。
ビジュアル主義×女児向け御伽噺
映像は確かに美しかったけど
インド人
圧倒される映像美
デジタルリマスター版が公開されたので見に行きました。映画館の大画面の前列で見てあらためてこの映画のすばらしさを感じてきました。
人間の深層意識を増幅して卓越した創造性でビジュアルに落とし込んで表現していて、自然と映像に引き込まれてしまいます。石岡瑛子の衣装も素晴らしいです。数々の歴史遺産をこれだけの迫力ある映像として残しているのはこの映画以外にないんじゃないでしょうか。とにかく画面の端から端まで無駄なく使っていてこれはビデオで見てはいけない作品です。
ストーリーテリングする主人公の頭の中で想像していることが映像化されていきます。これは「ザ・セル」にも通ずるターセム監督の好みなんだと思いました。
ストーリーは映像に負けているという見方もあるようですが、そんなことはなくつらい目にあった無垢な少女と絶望に生きる男の心の交流と再生が大胆な手法で描かれていて心にしっかりと響いてきました。CGでなんでもできてしまう時代にはない素晴らしさが詰まったはずすことのできない作品だと思います。
ビジュアルモンスター、略してビジュモン
余韻よろし
観終わって2日たつわけだがベートーヴェン第7番を聴きたくなる熱が継続中。
映像はすごかった。
愛を感じる武蔵野館で観たことに後悔はないが、もっと大きいスクリーンと高度な音響施設の劇場で観てもよかったのかもしれない。
思い返すと印象的なシーンばかりだ。
冒頭のモノクロスローモーションもだし、フィジーの島もだし、神父の顔からののシーンもだし、解放するシーンもだし(シュナの旅を思い出した)
個人的には観る前からわかっていたとも言えるが、石岡瑛子さんの衣装の美しさは本当に素晴らしかった。
5人➕αの個性爆発でバラバラだけど際立つ衣装は魅力的すぎる。
黒山賊のはある意味一番シンプルなのに、セクシーさが半端ない。二の腕と2丁拳銃、黒地に金の装飾。
彼の、いや彼らのストーリー展開に思うところがあるのは人それぞれだろうが、自分はこういう夢物語があってもいいと思える派。忘れていた児童文学だってこういう感じなのもあっただろう。理路整然としたストーリーを求めたいならおすすめできない。
落ちる、の解釈は色々ありそう。パッと出てきたのは、必ずしもネガティブな意味だけではないということ。地球にいれは物理的にも精神的にも落下は誰でも経験することだけど、落下してからどうするかが大事なのかなぁ、とか。
レビューとは関係ないが、美しい映像を見てると仕事してちまちまとスマホをいじってばかりの生活なんかしてる場合じゃなくて、もっと美しい景色の所に自分も行きたいし行かなきゃなんて気にさせられてしまった。実際の映像がもつ力、かな。
北インドの湖はパンガン湖とかの近くだろうか?
いつか行ってみたい。
あと、最後に、書くと怒られそうたけど、めんべえのお面を思い出して食べたくなった。
全183件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。













