「人気モデルの抱いた“好奇心”の先にあるもの」RED ROOMS レッドルームズ 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
人気モデルの抱いた“好奇心”の先にあるもの
【イントロダクション】
連続殺人犯の裁判を傍聴するファッションモデルの抱く“好奇心”の行く末を追う、カナダ発のサイコスリラー。
主演を務めたジュリエット・ガリエピは、実際にモデルとしてのキャリアも持つ。監督・脚本は、短編・長編フィクションでカナダの映画祭で度々注目を集めてきた鬼才、パスカル・プラント。
【ストーリー】
カナダ、モントリオール。人気ファッションモデルのケリー=アンヌ(ジュリエット・ガリエピ)は、モデルとして順調なキャリアを積み、タワーマンションで優雅な生活を送っていた。隙間時間はオンラインポーカーで収入を得ており、ストレス発散はジムでのテニス。
そんな順風満帆な生活を送っている彼女の新しい日課となったのは、10代の少女達を拉致、監禁、拷問し、その様子を“赤い部屋(RED ROOMS)”と呼ばれるディープウェブ上で配信して収益を得ていたとして起訴されたルドヴィク・シュヴァリエ(マクスウェル・マケイブ=ロコス)の裁判を傍聴する事だった。他に類を見ない凶悪な殺人事件は世間の注目の的となり、“シュヴァリエ事件”としてマスコミは連日報道した。
裁判初日。検察と弁護側は、冒頭陳述で双方の意見を主張し、陪審員に公平な判断を求める。 FBIは事件で配信されていた3件の犯行映像の内、2本の映像を入手して提出していたにも拘らず、弁護側は犯人が映像内で目出し帽を被っていた事から、シュヴァリエの犯行を否定した。見つかっていないのは13歳の少女カミーユ・ボーリュー(エリザベス・ローカス)の映像であり、彼女の母フランシーヌは証言台でシュヴァリエの犯行を訴える。ネット上には彼のカルト的なファンも存在し、細身で弱々しい印象を与える風貌の彼の犯行を否定する意見もあった。しかし、被害者である少女達の遺体が、彼が以前住んでいた住宅の裏庭から発見された事もまた事実である。
閉廷後、マスコミが傍聴者への取材に押し寄せ、ケリーも取材を受けるが、取材陣はすぐさまシュヴァリエ擁護派のクレマンティーヌ(ローリー・ババン)に殺到する。彼女は「目出し帽から見える目だけでシュヴァリエかどうか判断する事は出来ない。映像も現代ならいくらでも捏造出来るフェイク映像に違いない」として、涙ながらにシュヴァリエの無罪を主張した。
帰宅後、ケリーはフランシーヌとカミーユについて調査を開始する。
後日、限られた裁判の傍聴席を確保する為、裁判所近くの路上で眠るケリーにクレマンティーヌが話し掛けてきた。共に裁判を傍聴し、昼食を共にしたケリーは、クレマンティーヌがヒッチハイクと公共バスでモントリオールまで来ており、僅かな資金を節約する為に路上生活を送っている事を知る。
裁判が加熱の一途を辿る中、ケリーは宿のないクレマンティーヌを自宅へと招き、彼女と日々を過ごすようになる。シュヴァリエの無実を信じるクレマンティーヌに、ケリーはあくまで冷静な姿勢を崩さず、距離を置いて接する。
裁判も佳境に入った頃。その日はいよいよ問題となっている犯行映像が公開される日であった。しかし、映像の残虐性から裁判所は傍聴者への映像の鑑賞を制限すべきと判断し、ケリーとクレマンティーヌ達は追い出されてしまう。何とかして映像を見たいクレマンティーヌに、ケリーは密かに入手した犯行映像を見せる為、自宅へと戻るが…。
【感想】
一般人(本作のケリー=アンヌはかなり特殊な部類ではあるが)あるいは善人が、猟奇殺人犯と関わり魅了されるというケースは、現実でも例が見られる。パンフレットでも挙げられているが、凶悪犯に魅了された人物が、彼らと手紙や面会でコンタクトを取ったり、獄中結婚するというケースもある。
映画において最も有名なのは、トマス・ハリス原作、ジョナサン・デミ監督による『羊たちの沈黙』(1990)だろう。ジョディ・フォスター演じるFBI捜査官が、猟奇殺人によって終身拘束となっている精神科医ハンニバル・レクター博士(アンソニー・ホプキンス)に助言を求める中で、彼から異常な愛情を向けられながら事件の真相に迫っていく。以降、こうしたジャンルは世界的に人気となり、数々の作品が世に送り出され、サイコスリラーの定番ともなった。
本作は“ダークウェブ”という通常の検索エンジンでは見つからないネット裏に潜む匿名領域、犯行映像の“ライブ配信”と“ビットコイン”送金による所謂“投げ銭”と呼ばれる収益活動、“オンラインカジノ”や“ネットオークション”、更には最近何かと話題の“AI”といった、現代社会ならではの現象、用語が混じり、唯一無二の個性を持って描かれている。
パンフレットにて監督のパスカル・プラントも語っているが、主人公のケリー=アンヌはスティーグ・ラーソン原作『ミレニアム』シリーズに登場する“ドラゴンタトゥーの女”ことリスベットを彷彿とさせる高い知能とハッキング技術を有している。
演じたジュリエット・ガリエピは実際にモデル活動の経験がある他、俳優以外にも映画監督としての一面も兼ね備えており、持ち前の高い身長と相まって知的でスマートな印象が求められるこの役に抜群の説得力を与えている。
モデルとしてホームページのトップに掲載される程の人気、オンラインポーカーで感情に流されずに統計的な勝率を頼りに勝ちを重ねて副収入も十分、ストレスはテニスで発散と、何から何まで順風満帆。しかし、そんな満たされた生活の中だからこそ、彼女は次第に刺激に飢えていったのではないだろうか。好奇心を満たす事に執着し、それが自身にとって思いもよらなかった破滅をも招くとも知らずに、危険な道を突き進んでいく。
そんな彼女と対照的に描かれるクレマンティーヌ役のローリー・ババンは、小柄で大きな瞳、シュヴァリエに恋心を抱いて彼の無実を信じて擁護するという、「信じたいものを信じる」という人間の愚かさと未熟さを見事に体現してみせる。経済状況も良くない身でありながら、ヒッチハイクや公共バスを使って田舎からモントリオールまでやって来て、野宿をしながら裁判の傍聴をするという熱の上げっぷりである。
そんなクレマンティーヌに、知的で成功者であるケリーは何故肩入れしたのであろうか。シュヴァリエの裁判に向けたように、自分とは正反対の意見を持つ相手に対する“好奇心”故だろうか(しかし、ケリーは密かに入手した2件の犯行映像から、特徴的な青い瞳と姿勢のシュヴァリエを既に犯人だと断定しているのだが)。
あるいは、クレマンティーヌに信じたいものを信じていたかつての無垢な自分を重ねていたのだろうか。
前半は冷めた瞳で無感情に描かれていたケリーが、クレマンティーヌとの一件や裁判を傍聴する過程で自身の順風満帆な生活に亀裂が生じる中で、次第に好奇心や恐怖、怒りや喜びといった感情を露わ、あるいは取り戻していく姿が素晴らしい。特に、オンラインポーカーで不利な状況下から大逆転し、オークションでカミーユの映像を入手した際の喜びの表情は本作の白眉だろう。
裁判初日の冒頭陳述をフルで見せる手法も良い。ともすれば睡魔を誘いかねない演出ではあるが、あの映像によって我々観客も共に裁判の行く末を見届ける覚悟を抱かせられる。何より、本作を鑑賞しに訪れた我々もまた、“好奇心”に突き動かされて来ているのだから。
ところで、私はクライマックスに至るまで、ケリーこそが事件の真犯人ではないかと疑っていた。高身長でスレンダーな体型は男性に見せる事も可能だろうし、モデルという職業から姿勢や歩行のクセを演出する事も可能である。高いハッキング能力から、犯人の濡れ衣を着せるに相応しい相手を見つけ出し、シュヴァリエを「スケープゴート」にしたのではないかと思っていた。特徴的な青い瞳も、作中で彼女がカミーユに扮装する際に見せたように、カラーコンタクトをすれば造作もない。目元周りも女性ならばメイク技術があれば男性らしく見せる事も可能だろう。
そして、自らが仕立て上げた稀代の殺人犯がどう裁かれるのか自らの目で見届けようと、裁判の傍聴に足を運んでいたのだと思った。自身とは正反対の立場であるクレマンティーヌに優しくするのも、自らが仕立て上げた「スケープゴート」に感情移入する哀れな女を間近で見たかったのだと思った。そして、そんなクレマンティーヌこそが“好奇心”から事件の真相に辿り着いてしまい、ケリーの新たなる犠牲者になって幕を閉じるのだと。
【好奇心を満たすとは】
本作において重要となるのが“好奇心”である。ケリー=アンヌもクレマンティーヌも、行く末こそ違えど、どちらも好奇心に突き動かされた人物だ。ケリーはハッキングまでして事件の真相を求め、クレマンティーヌはシュヴァリエの無実を信じて田舎から飛び出してきた。
最終的に、クレマンティーヌはケリーから見せられた映像でシュヴァリエの犯行を確信し、自らの無知さを恥じて残りの裁判の傍聴を断念して帰宅する。ラストでは彼の「元グルーピー」として番組出演し、自らを恥じて被害者への思いを語る。彼女は、自らの好奇心から学びを得て、“戻る”あるいは“正しい方向へ進む”事が出来たと言える。
しかし、対するケリーは、結果的に事件を解決に導きこそすれ、好奇心に突き動かされた結果、順風満帆な生活を手放す事を余儀なくされた。ニュースで報じられた以上、今後もモデル業および顔出しによる芸能関係の活動は完全廃業しなければならないだろう。
そうなると、当面はオンラインポーカーで生計を立てるしかない。しかし、そのポーカーですら、以前のように統計学に基づいた冷静な勝負が出来るかは怪しい。何故なら、彼女はカミーユの映像を入手するオークションの際、足りない軍資金を補填する為に、統計的な勝率を無視してベットし、勝利する快感を得てしまったのだから。この「勝率の低い勝負に賭ける」というのもまた、好奇心を満たす事に繋がるだろう。ラストで無人のタワーマンションの自室の窓が開け放たれていた様子が何とも不穏である。
実は、監督のパスカル・プラントは、パンフレットのインタビューにて「映画には必ずしも『メッセージ』は必要ないも思う。啓発ではなく、体験する為に映画館に行く」と語っているので、解釈は我々観客一人一人の判断に委ねられている。ケリーの姿がどう映るかも、観客の価値観や人生経験に委ねられているのだ。
しかし、それでも私が本作からメッセージを受け取るならば、「好奇心との向き合い方」「好奇心を制御する事」だと解釈する。
ケリーは自らの高い知能と慎重さから、社会の闇に足を踏み入れても命を落とす事はなかったが、世の中には「知らなければ良かった事」も往々にしてある。そして、それが自らの命を脅かすものである事もだ。
ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの著書にあるように《深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ》という事だろう。深淵に足を踏み入れるには、それ相応の覚悟が必要であり、無闇な好奇心は自らの破滅を招くのだ。
ところで、ケリーの行いは、結果こそ見れば一種の善行と呼べるはずなのだが、果たして彼女は本作における「ヒーロー」だったのだろうか。彼女は自らの知的好奇心を満たす事に執着していたに過ぎない。それでも、見つかっていなかったの映像やビットコインの送金履歴といった事件の真相を明らかにする情報をフランシーヌに提供したのは、せめてもの情けだろうか。しかし、フランシーヌの自宅に侵入し、カミーユの部屋で彼女に扮装した自身の写真を撮る姿は、狂気以外の何ものでもない。彼女はどこまでも、「好奇心の奴隷」だったのかもしれない。
【総評】
“好奇心”に突き動かされる事の危険性、連続殺人犯に共感する必要など事を描く(ラストでそれまでの強気な姿勢のシュヴァリエが簡単に陥落した様子から、凶悪犯を魅力的に描く意図が無いのは明らか)の本作は、そのメッセージ性について観客それぞれが解釈出来る作りとなっている。
個人的に、パスカル・プラント監督の描き方は非常に魅力的だと感じたので、今後どのような作品を描くのか楽しみである。
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