さよならはスローボールでのレビュー・感想・評価
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スコアラーによるメジャーレジェンドの名言が秀逸
本当におっちゃんたちの草野球を観る映画だとは!
当然、野球場🏟️のワンシチュエーション。
日頃から野球をしているメンバーだから
ちゃんと試合になっていて、
彼らの会話が実にリアルでクスッと笑える面白さ。
個性もわかって、たくさん人が出ている割に
なんとなくどんなキャラなのかはわかる。
しかしながら、薄暮から夜になってのプレーが冗長すぎ
且つ厭戦ムードも伝わってきて、
これは苦痛だった。
だけど、こういうグダグダな終わり方をしたかったの
だろうな。案の定、私は数回意識が飛んだ。
それもまた良し、の作品だと思う。
さよならはベビーブーマーへの挽歌
原題は"EEPHUS"。MLB用語で山なりの超スローボールのこと。
結論から言って、私の感想としては「かなりクセは強いが、悪くはない」。
ただし、この映画は少々秘孔を突かれないと刺さらないので、恐らく大いに評価が分かれる映画だろう。
アメリカの田舎町の爺さんたちが、廃止予定の球場でドタバタと最後の草野球をするコメディだと思って映画館に行けば、間違いなく当てが外れる。
平板なストーリー展開にはうんざりして途中退席する人も居るだろう。
さりとて特別アーティスティックな香りの仕上がりでもなく、何かのファンタジーでもない。
なので、低い評価が多くなるのは無理もない。
むしろコアなミニシアターでかかりそうな、カルト的な作品とも言えるが、それでもハコ側としてはけっこう勇気の要る買い付けだろう。繁華街のミニシアターで2〜3週間で打ち切られて、しばらくしてからちょっと郊外に流れて来るようなイメージだ。それでも客席はまばらだろう。
良くもまぁ、ヒューマントラストシネマで初公開したものだと、妙な感心をしている。
この作品は、普遍的な感情を強く揺さぶらない。そういう設計もされていない。
文化や文脈を共有しないオーディエンスを端から無視しているとさえ思う。
もちろん、長年地元の草野球チームに愛されてきた場がなくなることによって、ガキの頃からここで育った中高年たちの「居場所がなくなる悲哀」を丹念に描いている、という意味では共感は(少しは)呼べるかもしれない。
ただ、それではあまりにも陳腐な、今までにさまざまな作品で語り尽くされてきた物語だ。その割には語り口に新味はない。
あるのは、ただひたすらに極私的なノスタルジーであって、その描き方が常軌を逸しているレベルでベタなのだ。
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ほとんど劇伴がない中で、ラジカセから聴こえてくるのは地元商店の宣伝と街のニュースばかり。
それだけでここが半径5km程度のスモール・タウンの世界なのだ、ということが良く分かる。
むしろ、このだらだらと鳴るラジオが作品の最初から最後まで、特定の鑑賞者にだけ刺さるように意図的に使われている。
それは試合が終わって誰も居なくなるダグアウトでも鳴り続けている(あれは誰の持ち物で、誰が持って帰るのだろう?とふと思った)。
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両チームは野次で罵りあっているけれど、全員、お互いの人柄や家族のことを骨の髄まで知っているだろう。
そこには分断すらない。
乗り付ける車に日本車など1台もない。V8の野太い咆哮を発するアメ車のセダンやピックアップ・トラックばかりだ。
それで1970年代の終わり頃か?とも思ったが、温存される隣のサッカー場で若者がプレーしているのが何度か映るので、サッカー人気の興隆と「おやじの野球」の凋落ぶりが対比されている。ということは1990年代末以降かもしれない。
その年代でこの雰囲気ということは、本当にかなりの田舎だと思う。
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季節は、ハロウィン・セールのCMが聞こえるが、別れ際に「良い感謝祭を」と言い合うような、北米では日が暮れればあれほど吐く息が白くなる晩秋だ・・・。
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こんな、極めて特殊でハイコンテクストな設定を煮詰めた作品であることを覚悟しないと、何が何だかわからない。
そういう意味では変態A24の『TVの中に入りたい』に通じるセンスがある。
ただし『TVの中に入りたい』は、現実にあったであろう一種独特なファンタジーチャンネルの番組に囚われ続けるティーンエイジャーたちとそのセクシュアル・マイノリティを重ね合わせていたので、極私的な世界線がわかりやすい。
しかしこの『スローボール』は、一見日本人にも馴染みが深い草野球がモチーフなので、実はそこに描かれた時代性やアメリカ東海岸の中~下層社会のいわば符牒のような表現が却ってわかりにくい。
われわれが感じる脱力系の笑いと、まさに当事者たちであるあちらの人びとが受け取る笑いのほろ苦さは、自ずとまったく違うはずなのである。
恐らくそれは、「アメリカ社会の最後のベビーブーマーへの挽歌」であると思う。
別のYouTubeで、昨年開催された第62回ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでカーソン・ランド監督と”エド”役(赤チームの監督兼投手で途中で姪の洗礼式のために居なくなる人)をやったキース・ウィリアム・リチャーズを招いたトークイベント動画が見られる。ここでリチャーズは、映画でのキャラと設定はまさに自分たちのことだという前提で話している一方、自分の年令を61歳と言っているので、つまり1963年生まれだ。
アメリカの「ベビーブーマー」は一般的に生年が1946年から1964年までの幅広い世代と言われている。だからまさに彼らは「アメリカの戦後」を代表し、その世代の最後の幕引きをする役割を持っているに違いない。
また、監督のランドは、東海岸北部のニューハンプシャー州で生まれ育ったと言っている。このことも舞台となったソルジャー・フィールド球場の周囲の森や紅葉、夕方以降の冷え込みを想像させるし、両チームのメンバーの顔ぶれにも頷ける。
多くは白人だが、白人の中にも東欧系のルーツを持つ者やイタリア系らしき人、白人以外ではアフリカ系もわずかながら居る。この顔ぶれはいかにも東海岸だ。
こうした記号がいくつも散りばめられているが、ひょっとするとアメリカ国内だって極端な話、西海岸で生まれ育った人にはまったくピンとこない映画なのかもしれない。
だからこれがカンヌの監督週間部門に選出された、というのが不思議で仕方ない。コンペティション部門でもある視点部門でもないので、勝手に想像すると「かなり変わった監督」をピックアップしたとも考えられる。
最後に。
やや『フィールド・オブ・ドリームス』っぽいキャラクターが一人いた。
突然森の奥から現れた、プレイヤーたちよりちょっと年上の世代の自信満々の男性で、選手不足を嘆く青チームのワンポイント・リリーフで三者アウトを取り、いつの間にか居なくなっている。また森に消えたのか。
スコアブックを付けるのが趣味の観客、老フラニーは「ああ。確かに見たことがあるやつだった」と呟く。
それは、ひょっとするとかつてこの球場でプレーし、ベトナムから帰ってこなかった男かもしれない。
あるいは、この球場の「野球の精」かもしれない。
あるいは、歴代この球場でプレーしてきた人たちの念の化身かもしれない。
しかしそのキャラクターも特に印象付けるような演出ではなく、「あれれ、今の人、何?」と拍子抜けしてしまうような、場合によればいとも簡単に忘れてしまうような位置づけで、さらりと描かれている。
この不思議なキャラの登場のさせ方と見せ方は、『スローボール』という作品のテイストの本質を物語っているような気がする。
そして、原題がなぜ「超スローボール」なのか。
徐々に退場していく世代が、その後のGenXやZ世代にがつんと速い球を投げ込むのではなく、人を食った超スローボールで「打てるものなら打ってみろw」と表現したかったのか。
それとも、もう速球なんか投げられないぜ、勘弁してくれよ、あばよ小僧ども、という寓意か。
超スローボールのイメージと、「最後の記念すべき試合」なのにぐだぐだと終わってしまうことと、冬にはまた集まろうな、という呼びかけに生返事で「ああ」と答えるがたぶんもう絶対に集まらないだろうことと、スコアブックと折りたたみ椅子を脇に抱えて車ではなく徒歩で闇に消えていく老フラニーの後ろ姿が、全部重なってえも言われぬ余韻を残す。
そんな、ちょっと心苦しい映画だった。
さて、これからどうしようか……
草野球をするおじさんたちを淡々と描いただけの映画なの。
試合してる野球場が閉鎖されることが決まってて、最後の試合なんだよ。それを描いてんの。
ただ淡々と描いてるからね。どう観ようが観る方の自由なんだけど。
なんか置いていかれる人たちとか、かえりみられることのない人たちとか、そういう人たちの話として観たな。この人たちはトランプに投票するだろうなとか思ったの。
野球場閉鎖して中学校ができるんだよね。いまは遠くにしか中学校ないんだって。
この設定がうまいんだよ。
誰でも普通に考えて、草野球しかやってない野球場残すより、中学校つくる方がいいんだよ。文句言えない。草野球やってるおじさんたち自身も文句言えないことは知ってんの。
でもそこが、かけがえなく大事な人たちだっているんだよ。超少数だろうけど。
その人たちのことは誰か考えてくれんのかっていう。
まあ、考えないんだよ。考えてもらえないことはおじさんたちも知ってる。
どうも一方のチームの監督だかキャプテンだかの人が、中学校建てようって言っちゃったみたいなんだね。だからみんな「裏切り者が」みたいなこと言っちゃうんだけど、そう言うのは理不尽だって知ってんだけど言わずにいられないの。
この監督だかキャプテンだけが、バリッとしてんの。野球場なくなっても、仕事でバリッとやんだろうなって感じなの。居場所があるんだよ。
あとは米国の野球文化みないなのいいなと思った。
野球選手の名言をひいてくるんだけど、それがカッコいいの。
日本だと「永遠に不滅です」ぐらいから、名言がなくなっちゃてる気がするのね。知らないだけかも知れないけど。ちょっと文化の点で、米国にはかなわない。
娘さんが Take Me Out To The Ball Game 歌うけど、いいね。歌詞を始めて真剣に観た。
これ、なんとなく観てたけど、七回だから歌ったんだね。そういうところもいい。
それで原題が《EEPHUS》なんだけど、山なりのボールをこう言うんだね。
水島新司が超遅球を武器にするピッチャーの話を描いてたことあったけど、こんな感じなのか。
このEEPHUSの感じが、作品の感じに合ってて良かったな。
最初と最後に引用されるのがルー・ゲーリッグのLuckiest Man Speechなんだね。
スコアブックをつけてるお爺さんが真似するんだけど、最後に「さて、これからどうしようか……」みたいなこと言うよね。
野球がある間はLuckiest Manなんだけど、それが終わってしまうと途方に暮れるしかない。
そういうことを観ていて思ったな。
退屈
観客が退屈するように作っているとしか思えない。人生も結局は時間の浪費で、退屈でもいいじゃないかとあきらめることができる。超スローボールの場面は見ていて恥ずかしくなるくらい馬鹿らしいが、最後まで見るとその場面がすごく心に残る。
グダグダな試合の中で感じるもどかしさも、去り行くものには永遠の至福となっていく
2025.10.23 字幕 MOVIX京都
2024年のアメリカ&フランス合作の映画(98分、G)
1980年代のマサチューセッツ州ダグラスを舞台にした「取り壊される球場」で試合を行うロートルを描いたコメディ映画
監督はカーソン・ランド
脚本はネイト・フィッシャー&カーソン・ランド
原題は『Eephus』で「止まって見えるほどのスローボール」と言う意味
物語の舞台は、1980年代のとある日曜日(10月16日)
マサチューセッツ州ダグラスにある「ソルジャーズ・フィールド」は、老朽化と再開発事業のために取り壊しが決まっていた
その日、最後の試合をするために、アドラーズ・ペイントとリバー・ドッグスの二つのチームが集まり、試合を行うことになった
アドラーズ・ペイントは、エド・モータニアン(ケイス・ウィリアム・リチャード)を中心としたチームで、対するリバー・ドックスはグラハム・モリス(Stephen Radochia)が中心となっていた
グラハムは再開発の工事担当だったが、試合に仕事の話を持ち込まれることを嫌がっていた
主審(ウェイン・ダイアモンド)によって執り行われた試合は、フラニー(Cliff Blake)がスコアラーを務め、少しの観客と選手の家族たちが見守る中で行われていった
物語は、試合に際して久しぶりに集まった野郎たちが軽口を叩きまくると言う内容で、その何気ない一言がキャラ付けをしていくと言う感じになっている
だが、選手だけで20人、審判が4人、観客が複数人いて、家族も数名いるので、誰が誰なのかを把握するのは非常に難しい
ユニホームを着た髭面のおっさんがたくさん登場するし、背番号はあるけど名前は書いてないので、数少ない固有名詞から人間関係を導き出すのは至難の技のように思える
ちなみに、冒頭ではラジオのアナウンサー(フレデリック・ワイズマン)が街の置かれている状況を話したり、当時流れていたラジオCMなども紹介されていく
なので、当時を知る人の方が楽しめる内容になっていて、そんな中で名残惜しさから「どうしても試合を終わらせたい」と言う想いで試合が行われていく様子が描かれていた
アドラーズ・ペイントは、監督&投手のエドが姪っ子の洗礼式のために退場するし、審判も時間が来れば残業しないと帰ってしまう
そんな中で試合を続行するためにフラニーがバックネット裏から審判をすると言う流れになっていて、さらに日没とともに何も見えない中で試合が行われていく
そうして、何とかキリをつけた格好で試合は終わるのだが、この試合を最後にフラニーはみんなの元を去ってしまったように描かれていた
彼はリバードッグスのユニフォームを着ていたが試合には参加しておらず、おそらくは健康面が理由で参加していないのだと考えられる
それが高齢になってからなのか、若い頃からなのかはわからず、彼自身にはモデルとなる人物がいたこと
ある意味、フラニーに対する追悼の映画にもなっていて、長年の付き合いの終わりがあったからこそ紡がれた物語のように思えた
映画内の登場人物を脳内構築するのは難しいが、映画の冒頭でスコアブックのようなキャストロールがあるので、しっかり見ておけば「どの選手を誰が演じて、何番を打ってどこを守っているのか」がすべて書かれていた
このあたりは野球用語の略語の知識が必須だが、ポジションや打順はそこまで大した問題ではないと思う
それよりも、恋人メラニー(イザベル・シャルロット)が来ているエイドリアン(ジョニー・ティラド)とか、家族が見に来ているビル(ラッセル・J・ギャノン)がどの選手なのかは把握したい情報のように思えた
いずれにせよ、試合のスコアをつけながら観戦しているフラニーの視点になっていて、彼の紡ぐ野球界の偉人たちの名言というものが「章の区切り」のようにも思えた
ベーブ・ルースは有名だが、ヨギ・ペラとか、サチェル・ペイジ、ハンク・アーロンなどを知っている日本人だとマニアに近いと思う
日本だと長嶋茂雄、王貞治などのようなレジェンドたちなのだが、そんな彼らの名言が登場してもピンとは来ないかもしれない
だが、そこで登場している名言の数々は、試合経過の中でフラニーが感じて思い出した言葉となっていて、意味のあるものとなっていた
そう言った視点で見ると、試合に参加できないものの悲哀と、試合に臨みながらも全力で向かえない者を見る歯痒さというものが感じられるかもしれない
その上でフラニーは「この時間は最高の時間だった」と結んでいた
原題にあたる「Eephus」は「止まって見えるほどのスローボール」という意味なのだが、フラニー目線からすれば「この至福の時が永遠でありますように」という意味になる
それを思うと、とても切なくて悲しい物語だったのかな、と感じた
ただひたすらにおっさん達の野球
予告を見てちょっと観てみたい。と思って足を運んでみましたが。
感動するシーンはほぼありません。
取り壊しの決まった小さなスタジアム(草野球場といったほうがいいか?)、取り壊された後は新しく中学校が建つらしい、現在は約40kmも離れた所の中学に通っていることもあって、地域のお母様方は中学校が出来る事に賛成の様子。
本編はスタジアムが取り壊される前に控えたラストゲーム、本当にただ「草野球」で「ただのおっさん達」がダラダラと愚痴や野次を飛ばし、体の現状を報告しあいながら草野球をするだけの映画。
彼女が応援に来てくれるも格好いい所が見せられず腐る若者、子供が応援に来るも良い所を見せられないお父さん、姪っ子のめでたい日だと試合中に呼び出されて球場を去るおっさん、ボールバケツもなくファウルボールを探しに行くおっさん、「俺には仕事もあるしもう帰りたいんだ」と愚痴りだし、本当に帰るおっさん、ビールを飲みまくって酔っぱらうおっさん、時間が来たからと試合中にも関わらず帰宅する審判のおっさん達、電気代を払っておらず日が暮れてから照明もなく試合をするおっさん達、ラストゲームという事もあり「引き分け」でゲームセットなんて嫌だと駄々をこねるおっさん達、苦肉の策で皆が乗ってきた車のヘッドライトを証明代わりにするも所々見えずにグダって行く試合。
そして…後に中学校ができた。とかのエピソードもなく、真っ暗な中スタジアムをさっていくおっさん達で終了。
途中、レジェンドたちの名台詞が挟まり、時間の経過も表現するも…。
観る人を…選ぶ映画かもしれません。
ただ本当に、古き良き?おっさん達の草野球を垂れ流しているだけの映画です。
※噛みタバコを吐き出すシーンなども多々ある為、そういった表現が苦手な方は控えた方がいいかもです。
良くも悪くも「アメリカ草野球」で日本の野球アニメ、映画とは違いますので、ジョーク的な野次等も多く含まれています。
好きな雰囲気の映画だが、途中寝そうになってしまったぐらいだった。
【”盗塁するデブを照らす夕陽って、最高に綺麗だな。”今作は、取り壊しが決まった野球場で、最後の草野球の一戦を交えるオジサンたちの姿をゆるーく描いた、米国の野球文化への愛と苦笑が入り混じる作品である。】
ー 原題は”EEPHUS”である。初めて聞く単語なので調べたら”山なりのスローボール”って意味らしい。
成程ねぇ、映画の中でも”山なりのスローボール”が披露されるし、映画自体が”山なりのスローボール”見たいだったもんな。クスクス。ー
■中学校建設のため、取り壊しが決まった球場”ソルジャーズ・フィールド”では、最後の草野球の試合が行われた。(ムッチャ、簡単な粗筋。だって、粗筋は”オジサン達が草野球をしました。終わり。”なんだもん。)
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・と、書くと猛烈に感動する展開が繰り広げられるのかと思いきや、内容がマア緩い、緩い。青いユニフォームのチームは、ナント、試合開始時間になっても選手が8人しかいない。一人遅刻である。オイオイ。
・パイプ椅子に座って、慣れた感じでスコアを付けるお爺さん、フラニー。
・試合は、両軍の選手の野次やどーでも良い会話などが挟み込まれ、遅々として進まない。マア、野球って試合時間が長いけれど、この映画の試合は度を越して長いのである。お喋りしていないで、さっさとファスト・プレイしなよ!クスクス。
・青いチームのピッチャーのオジサンの投げ方が、個人的にツボにはまる。両肩を羽みたいに広げてから投げるのだが、何か可笑しいのである。
序でにこのピッチャーは、鬼の様にビールを飲みまくり、途中で”俺、もう投げれない”などと言い、休憩したりするのである。野球を舐めてんのか!クスクス。
と思ったら、他の選手たちも、ベンチでプシュプシュとビールを開けてぐびぐび飲むのである。一体何本飲んでるんだ!
超太ったオジサンが試合前にビール2ケース持ってきてたけれど、全部なくなったんじゃない?
・赤いユニフォームのピッチャーも、途中で姪の洗礼式に呼ばれて試合中なのに帰ってしまうのである。オイオイ。
で、登場した観客の”昔、ソルジャーズ・フィールド”で投げていたという白髪長身のオジサン、リー。だけど、直ぐに何処かに消えてしまうのである。
■ちょっと良いなと思ったのは、スンゴイ試合が遅れているのに、7回になると誰かの選手の娘さんが、”私を野球に連れて行って。”を歌い、選手一同が整列して一緒に歌うシーンかな。アメリカだなあ、と思うシーンである。
・だーが、試合は更に伸びて審判は帰っちゃって、代わりにフラニーが双眼鏡で試合を見ながら、審判をするのである。クスクス。
で、到頭、夜になっちゃって、”どーすんのかなあ。”と思っていたら、皆の車のヘッドランプで球場を照らして、バッチオーライである。
けれども、一人は自分の車で脱走するのである。オイオイ。
<イヤー、今作は今までソコソコ映画を観て来たけれども、その”ゆるさ”では生涯ベスト5に入るなあ。そして、試合がナント押し出しで終わって、フラニーは森の中に消えて行くのである。
成程なあ。リーもフラニーも、野球の神様か何かだったんだね!
今作は、取り壊しが決まった野球場で、最後の草野球の一戦を交えるオジサンたちの姿をゆるーく描いた、米国の野球文化への愛と苦笑が入り混じる作品なのである。>
走るデブを照らす夕陽って最高に綺麗だな
惹句に心温まる結末を期待し、おっさんたちの草野球を観ていた
そしたら日も暮れてボールさえ見えなくなり、皆やる気もなくし、淋しい終わりとなった
場を失ってそれぞれに去っていく男たち
o'l55の侘しさが身に沁みる
映画は好きだけど野球に興味がない人は観ない方が良い
予告編通り草野球チームのおじさんたちが野球をするだけの話。
特に珍プレー好プレーもなく飛び抜けて面白いトピックもなく
最後までダラダラとどうでも良い草野球が続くだけなのに
ロッテントマト満足度100%って冗談だろ?
米国人との感性の違いか野球愛のない人間には分からんのか。
それでも試合の結果に劇的な大逆転の心揺さぶるカタルシスを
期待していたのに本当になんにもなく終わってしまい
予告編詐欺にあったような気分。
スポーツ映画って爽快な結末がお約束なのにこれは酷い。
ノスタルジー
取り壊しが決まった球場のラストゲーム。
普通のおじさん達がどうでも良い話を
したり、野次を飛ばしたりしながらの
姿が良い。長年の付き合いだから為せる
のだろう。
ゆるゆるだけど、全員本気の草野球。
途中で人が消えても、ビールを飲んでも
膝が痛くても、日暮れでボールが見えなくても。
審判が帰っても。
最後まで試合を続ける姿が切ないが素敵だ。
あのバッターにピザの具をみんなで
浴びせるシーンが好き。
相当好きなんだろうね。
消えゆく球場へのリスペクト。
最後までさよならと言わず、其々
帰る背中。不思議なノスタルジー。
あのスローボールのように長くゆっくり
かけた時間。
監督の野球愛を感じた。
次回はピザとビールで楽しみながら
グダグダ観たいなぁ。
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