「核抑止論の欺瞞と、薄氷上の平和に麻痺した人間の無力さ」ハウス・オブ・ダイナマイト ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
核抑止論の欺瞞と、薄氷上の平和に麻痺した人間の無力さ
ある日突然、どこの国からかもわからない核ミサイルが今から20分後に着弾すると言われたら、アメリカの防衛の中枢はどうなるか。そのシミュレーションのような映画だ。いつも通りの穏やかな朝を迎えたアラスカの軍事基地やホワイトハウスが、謎の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を検知したことから緊張と混乱のるつぼと化す。
本作では、ICBMの検知から着弾間際までの小一時間ほどの関係者の奮闘とパニックが、視点を変えつつ3回繰り返して描かれる。最初がアラスカの軍事基地とホワイトハウス、次が国防長官とその周辺(ペンタゴン?)、最後は出張中の大統領。1周目でリモート会議の画面の向こうにいた人間、声だけ聞こえていた大統領がその時何をしていたかを、2周目3周目で明らかにするといった構成だ。リモートの向こうから断片的に聞こえていた言葉が発された状況が、視点が変わるにつれ徐々に分かってくる仕掛けになっている。
この3周の全て、つまり映画のラストも、ミサイル着弾直前で物語は終わる。最後までICBMを発射した国はわからないし、実際に着弾し爆発したのかどうかも描かれない(物語の中では、何らかのレーダーの誤認である可能性、湖に着弾し不発となる可能性などにも言及がある)。
こうした終わり方は賛否あるかもしれないが、ラストがこの締め方だったからこそ、監督のメッセージがより鮮明に浮かび上がったと思う。
「世界は爆弾の詰まった家だ」苦悶する大統領の言葉は、現在の社会情勢を端的に表している。それは存在する核弾頭の数の多さ(2025年6月時点で、廃棄予定のものを除いて9,615発。長崎大学核兵器廃絶研究センター公式サイトより)のことを指すと同時に、どういうきっかけで核ミサイルの発射ボタンが押されるかわからない、国家間の緊張感の高まりのことを指すようにも聞こえる。
核抑止という理屈がある。だがこれは、核保有国の指導者が皆核の脅威と影響を正しく理解し、本当に核を使ってしまうようなおかしな者が出てこないという、互いの国の良識に依存したものだとも言える。
この物語のように、ひとたびどこかの国が核を使えば、抑止などというお題目は瞬時に吹き飛ぶ。抑止のたがが外れ、報復から全面核戦争にでもなれば、人類文明はあっという間に壊滅するだろう。日本が経験した広島の原子爆弾がTNT換算で15キロトン。現代の戦略核の主流は水素爆弾で、100キロトンから1メガトン級のものまであるというのだから。
そうした危険をはらんだ大量の核兵器を背景にした、抑止力という薄氷の上にかろうじて成り立つ「平穏な日常」を、私たちは無自覚に享受している。
また本作は、国防の最前線で最悪の事態に対応する組織もまた、弱い人間から成り立つものに過ぎないということも描いている。
着弾のカウントダウン開始後、寸暇を惜しんで知恵をしぼるべき立場の人間たちが事態の深刻さをなかなか認識できなかったり、認識したらしたで家族に電話したりするのは正直見ていて苛立った反面、まあ人間とはこんなものだろうとも思った。いくら国防を仕事としていても、何の前触れもなく敵国がどこかさえわからないまま、突然20分後に大都市が壊滅する攻撃を受けると言われたら、一国の防衛を担うエリートたちにもメンタルの限界が訪れるのかもしれない。
核抑止という危うい均衡がひとたび崩れたら、その崩壊を確実に押し留める仕組みや手段など結局ないに等しい。コイントスのような確率の迎撃ミサイルが外れたら、着弾までに間に合うことを願いながらシェルターに逃げ込むしかない。その後地上は、絵本「風が吹いたら」のような運命を辿るだろう。
核抑止論の欺瞞と、その危ういバランスが崩れたときの人間の無力さ、それをビグロー監督は3回のリフレインで描き尽くした。結果的にミサイルが爆発したか否か、それがどこの国からのものだったかは、この主題にとっては蛇足だから省いた。潔い判断だ。
最後に、ビグロー監督のインタビューでの言葉を引用する。
「複数の国々が、文明社会を数分で終わらせられるほどの核兵器を保有しているにもかかわらず、一種の集団的な麻痺状態、つまり”想像もできない事態の静かな正常化”が起きているのです。 破滅という結末が待っているというのに、どうしてこれを”防衛”と呼べるのでしょうか。 私はこの矛盾に正面から切り込む映画を作りたかったのです。絶滅の影の下で生きながら、それについてほとんど語らない世界の狂気に深く迫るために。」(2025.10.5 BANGER!!! 記事より)
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