揺さぶられる正義のレビュー・感想・評価
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「信じること」と「疑うこと」は、本当に対立するのか
揺さぶられっ子症候群については興味を持っていた。事故で頭部に衝撃を受けた可能性もあるのに、3つの症候があればただちに「大人による揺さぶり」「虐待」と疑われ、冤罪が多く生み出されたのだ。この映画は一連の報道の集大成のように見ることができた。
この3症候論を強く主張した医師のインパクトあるインタビューも、もともとは関西テレビの報道で、この映画の監督によるものだった。
対する秋田弁護士は一審で有罪とされた事件で次々と逆転無罪を勝ち取る。映画は、一種の法廷ドラマとして緊迫感をもって鑑賞することができる。
一方、ハッピーエンドで幕を閉じることを拒んでいるのが20代後半の男性被疑者のケースだ。「俺がそんなんするわけないやろ」とまくしたてる、いかにも悪質そうな義理の父。
それまで冤罪を疑われた親たち(あるいは祖母)とは違い、この人の冤罪を晴らすのは難しいのではと思わせる。
しかしこの若者は5年も収監された末、支援してくれた弁護士に感謝でいっぱいの、人懐こくて味のある人物として戻ってくるのだ。高裁で立派に無罪を勝ち取ったが、現在検察が上告中とのこと。
テレビの報道者としての監督は、当初この若者を疑ってしまった。その贖罪のように、メディアの限界を問題提起することが映画後半のテーマになっている。
ただ、映画の踏み込み方は深くない。「犯人逮捕」の瞬間だけ盛大に報道し、冤罪に加担するメディアの問題は大昔から言われてきたではないか。
「初めから君を信じていればよかった」という監督の反省は、人間ドラマとしては誠実だし、天然な人柄をうかがわせる。その分、考えるべき余白を大きく残していると思うのだ。
そもそも、「虐待を見逃さない」「冤罪を作らない」という「二つの正義」の争いとしてこの問題を描くのはちょっとズレている。
虐待発見派の医師は「子どもの立場に立つ」と言う。しかし、親の加害を立証するだけでなく、急死の原因となる病気を突き止めることも子どものためだろう。冤罪を晴らす側だって、「あなたを信じたいからこそちゃんと疑いを晴らそう」という考えも成り立つはずだ。
つまり二項対立に陥らず、多角的に真実を明らかにするという姿勢が大事ではないだろうか。被疑者と二人三脚を組む弁護士ならいざ知らず、報道や検証の仕事であるのなら。
たくさんの人に観てもらいたい
今日の味方は、明日の敵
前半は一連の「揺さぶられっ子症候群(SBS)」裁判、後半は養父...
前半は一連の「揺さぶられっ子症候群(SBS)」裁判、後半は養父による児童虐待死裁判を追う。衝撃的なのは前者で弁護士側についていた脳外科医が、後半では検察側の証人となっていることだ。事故(あるいは病死)か虐待か、専門家であっても、家庭という密室で起こる事件立証の困難さ。「10人の真犯人を逃しても1人の冤罪をつくってはいけない」という原則は、児童虐待死という悲惨の前にはどこまで固持できるのか。本作では、冤罪によって引き裂かれた家族の苦悩も描き、それを見ればまた天秤は逆方向に揺れる。科学的証拠(とされるもの)に頼り過ぎることの危険性も感じさせられる。素人目には、むしろ健全な「常識」(2子以上をそれまで平常に育ててきた家庭で、なんの前触れもなく凄惨な虐待死が起こるものだろうか?など)にもっと依拠することができないものか、とさえ思える。後半の虐待死事件についても、個人的にも記憶している事件でもあり(報道から受ける印象は完全にクロだった)、「科学的証拠」をチェリーピッキングするような検察のやり口に衝撃を覚えた。大きく観れば、日本の司法が昔ほど硬直的ではなく、批判を受ければきちんとアップデートされていく、という改善の記録ではあるのだが…その過程で苦しんだ人たち、戦った人たちのことを忘れるべきではない。
それぞれの正義
乳幼児揺さぶられ症候群(Shaken Baby Syndrome: SBS)事件については関係者ごとにそれぞれの「正義」が存在する。
被告: 無実(無罪)を主張する正義
弁護士:依頼者を冤罪へと導く正義
警察: 犯人(と思われる被疑者)を有罪にするために確かな証拠を集める正義
→自白を引き出すのを目指すので厳しい取り調べが行われることになる
検察: 犯人(と思われる被疑者)に対して適切な処罰へと導く正義
検察の証人(SBS事件では医師):検察の主張をサポートして有罪判決へと導く正義
裁判官:事件の真相を判断して正しい判決を出す正義
マスコミ:犯人(と思われる被疑者)の印象を可能な限り悪くする正義
しかしSBS事件については大きな問題がある。
それは証言者がいないこと。
誰も事件が起こった状況を証言できないので、それぞれの関係者は推測によって自分たちの正義を貫くしかない。
事件が起こったとき、その多くの現場には被害者と、加害者とされる者しかいない。また被害者が乳幼児であるせいで、事件について証言ができないし、さらにむごいことにSBS事件では被害者が死亡したり脳に障害を受けることが多いため、ひどい言い方になってしまうが、文字通り「死人に口なし」状態になってしまう。
従ってすべての関係者は事件が起こった状況を推測して各自の正義を主張するしかない。
しかし事件に関係する者にはそれぞれの立場ゆえの正義があり、その立場によって事件のいきさつをゼロベースで分析したうえで正義を主張するのではなく、各自の立場からその正義に則った主張がなされることになる。
そのうえで判決を下す裁判官についても、刑事裁判の原則である「疑わしきは被告人の利益に」を徹底した判決を出すよりも、有罪の可能性が高いと思われる事件については有罪判決を出す方が自身の評価や昇格につながるようになっているため、有罪判決を出す誘引がある。
事件の性質や各主体の立場によって主張がバラバラなのに、それを判断する裁判官には大きな負担がかかっているのだと思う。「疑わしきは被告人の利益に」を徹底すれば、乳幼児がSBS被害にあうことを見過ごしてしまうことになるし、逆に無罪にしてしまうと事件の当事者以外から大きな反感を買ってしまうことになるかもしれないうえに自身の出世にとってはマイナスになる。
裁判官には非常に難しい判断が要求されているようだ。
『疑わしきは被告人の利益に』を徹底することで自らのマイナスになってしまうような制度があってはいけない。すぐには難しいかもしれないが、無罪判決をだすことにためらいを感じないように、裁判官の評価制度を変えることでこの仕組みが大きく変わることになるのではないかと考える。
話は少しそれるが、SBS事件については近年冤罪判決が連発されていることを考えると、刑事裁判の原則「疑わしきは被告人の利益に」が以前よりは徹底されるようになっているのかもしれない。しかし一方で、痴漢事件については『それでもボクはやってない』でも表現されているように、仮にでっち上げで捕まったとしても冤罪になる可能性は未だに非常に低いようだ。決定的な証拠がない状況で、SBS事件では無罪になる可能性が高く一方で痴漢事件についてはほとんど有罪になる。事件の種類によって「疑わしきは被告人の利益に」の程度が異なるのは納得が得られないのではないだろうか。
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