劇場公開日 2025年10月3日

「アンダーソンのロマンチックすぎる革命観も、今なら笑って許せるのではないでしょうか。」ワン・バトル・アフター・アナザー 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 アンダーソンのロマンチックすぎる革命観も、今なら笑って許せるのではないでしょうか。

2025年10月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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 ベルリン、カンヌ、ベネチアの3大映画祭で受賞歴を誇るポール・トーマス・アンダーソンが、レオナルド・ディカプリオを主演に迎えて手がけた監督作。トマス・ピンチョンの小説「ヴァインランド」からインスピレーションを得た物語で、冴えない元革命家の男が、何者かにひとり娘を狙われたことから次々と現れる刺客たちとの戦いを強いられ、逃げる者と追う者が入り乱れる追走劇を展開します。

●ストーリー
 カリフォルニアのメキシコ国境近くの米国の不法移民収容施設を男女の集団が襲撃します。拘束された移民たちを解放するゲリラ組織「フレンチ75」の仕業でした。
 メンバーである「ゲットー」ことパット・カルフーン(レオナルド・ディカプリオ)とパーフィディア・ビバリーヒルズ(テヤナ・テイラー)は、作戦中に収容所の指揮官スティーヴン・ロックジョー警部(ショーン・ペン)を屈辱的に出し抜きます。鮮やかに移民たちを救い出し、祝砲の花火を打ち上げるパットでしたが、それが彼にとっては最初で最後の勝利となりました。
 襲撃中にパーフィディアに拘束されてしまったロックジョーは彼女に異常な性的執着を抱くようになっていきます。
 パットとパーフィディアは恋人となり、フレンチ75は政治家事務所、銀行、電力網への攻撃を繰り返します。
 パーフィディアは娘シャーリーンを出産しますが、革命活動を優先し、パットと娘を捨てるのです。銀行強盗の失敗で警備員を射殺したパーフィディアは逮捕されます。ロックジョーからのモーテルでの性的関係とフレンチ75の仲間の密告を条件に、パーフィディアは証人保護プログラムに入り、ロックジョーは情報を基にメンバーを次々と射殺または逃亡に追い込むのです。
 パットは娘シャーリーンを連れ、それぞれボブ・ファーガソンとウィラ・ファーガソンとして身を隠します。パーフィディアはロックジョーの監視を逃れ、メキシコへ逃亡するのでした。

 16年後、聖域都市バクタン・クロスで暮らすボブ(パット)は薬物中毒とパラノイアに苛まれ、自立したティーンエイジャーに成長したウィラ(シャーリーン)を過保護に守って二人で暮らしていました。

 一方、ロックジョーはフレンチ75を壊滅に導いた功績により警視に昇進し、白人至上主義の秘密結社「クリスマス・アドベンチャラーズ・クラブ」に入会します。黒人女性であるパーフィディアとの過去の関係を隠し、ウィラが実子である証拠を探すため、先住民の賞金稼ぎ・アヴァンティQ(エリック・シュヴァイク)を雇い、ウィラの確保を命じます。手始めにボブの同志ハワード・サマーヴィル(ポール・グリムスタッド)を捕らえますが、これがフレンチ75の残党に警報を発することになります。

 ロックジョーは移民と麻薬の取締作戦を装い、軍をバクタン・クロスに派遣します。フレンチ75のメンバー・デアンドラ(レジーナ・ホール)が学校のダンスパーティー襲撃前にウィラを救出。薬物で朦朧とするボブは寝室の隠しトンネルを使い辛うじて自宅を脱出しますが、フレンチ75のホットラインのパスワードを忘れ助けを得られません。ウィラの空手師範セルジオ・セント・カルロス(ベニチオ・デル・トロ)に助けを求め、不法移民を隠しトンネルで避難しますが、屋根伝いの逃亡中に転落し逮捕されてしまうのです。

 デアンドラはウィラを革命尼僧の修道院に連れていきますが、ロックジョーは修道院を襲撃しウィラを捕まえてしまいます。
 ボブは果たしてウィラを奪還することができるのでしょうか。

●解説
 ロバート・レッドフォードの訃報に触れ、「アメリカン・ニューシネマ」という言葉を久しぶりに聞ききました。彼の主演作をはじめ、1960~70年代に公開され、反体制を掲げ、バイオレンスやセックス描写もいとわない、新しい映画群に与えられた総称です。
 ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作は、その魂を受け継ぎ、現代の映画として刷新し、よみがえらせたかのようです。上映時間は2時間42分。息つく暇を与えない圧巻の映画です。タイトルは、日本語にすれば「闘争に次ぐ闘争」。
 アメリカン・ニューシネマの精神は、闘争と逃走の劇として継承されています。権力と闘うのは自由を得るためだから、捕まらないことが肝要。だから、本作のアクションは、追いつ追われつの連続となるのです。
 最終盤、スピード感がないのに緊迫したカーチェイスにも驚かされましたが、白眉はボブが娘の空手の「センセイ」ことカルロスに助けられ、あたふたと逃げ回る場面でしょう。一帯はヒスパニック系らしい移民が集まり、喧騒に包まれています。多くのアンダーソン作品を手がけてきたジョニー・グリーンウッドの音楽が切れ目なく流れ続けるのが驚異的。音楽が並走するというより、音楽に並走するように、ボブは逃げ続けるのです。
 アンダーソン監督は、アメリカン・ニューシネマを作った先人たちの背を遠くに見つつ、新しい映画を創造してみせてくれました。まるで、消息を絶った母の生まれ変わりとして新たな闘争の場に飛び込んでいく娘、ヴィラのように。
 もちろん、なぜ本作がアメリカン・ニューシネマの再来のように見えるのかは、現実の米国社会に目を向ければ、容易に想像できることでしょう。
 現実の戯画化に成功し、殺伐とせず、むしろコミカル。ペンやデル・トロも怪演ですが、何と言ってもディカプリオです。少しもかっこいいというところがなく、ドジな闘争ぶりを見せつける姿には、どこにもディカプリオらしさを感じさせないところがすごいのです。元革命家を自虐的に演じるコメディーセンス、ぼろは着てても心は錦と言わんばかりのじたばたぶりが素晴らしいところ。べたべたしすぎない親心も味わいがあります。そのくせ娘を守りたいという強い愛情も感じさせてほろりとさせられます。

●感想
 革命家を名乗るパットですが、逃亡生活の中ですっかりなまくらになってしまうところが笑わせてくれます。仲間に支援を求める電話をかけても、「今、何時だ?」と問われ絶句してしまうのです。答えるべき単純な合言葉さえ、挫折と酒浸りの日々ですりへらした脳は思い出せなくなっていました。電話の向こうの杓子定規な奴に向かって自分がいかに革命に献身したのかを力説するも「なるほど。で……今は何時?」と嘲笑こみで返されてしまうのです。泣き笑いの名場面は、まるでパット自身に問いかけているかのように、おまえは今が何時だと思っている?と問いかけているようでした。
 パットひとりは鈍重。子供たちにはバカにされ、屋根からは落ち、走っている車から振り落とされるのです。爆弾は不発だし、狙撃は失敗します。決定的に時代錯誤で、信念もない自堕落な中年男は、どこまでも不格好に走りつづけるしかありません。
 主人公の革命とはとどのつまり娘を救うことだったのか!ダメ男がただひとつ大事にしている娘への思いを込めて、映画はパットの悪戦苦闘をあたたかく見まもります。希望と未来は新しい世代に託す、そんなアンダーソンのロマンチックすぎる革命観も、今なら笑って許せるのではないでしょうか。

流山の小地蔵
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