アフター・ザ・クエイクのレビュー・感想・評価
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地震のあとで
『神の子どもたちはみな踊る』(かみのこどもたちはみなおどる)は、村上春樹の連作短編小説集。2000年2月に新潮社より刊行された。『新潮』に「地震のあとで」という副題付きで連載された、表題作『神の子どもたちはみな踊る』をはじめ5編の短編と、書き下ろし短編1編を収録する。2002年2月に新潮文庫として文庫化された。(Wikipediaより)
そして、この連作短編集の装丁に画家北脇昇の絵画が使われているように、村上春樹が北脇昇が描くやや抽象画風の風景からインスピレーションをを得て小説にしたとも取れなくもない。
そして本作も、ドキュメンタリータッチの部分とシュールレアリズムの部分が交錯してゆく構成になっている。(アメリカでの実写映画化、フランスでの漫画化、アニメ化があり、ついにNHKでシリーズドラマ化されたものを再編集したのだとか。)
大江崇光氏(「ドライブマイカー」)が書いた脚本が村上が描く幻想的な雰囲気を原作からさらに加速させていると、思った。
とくにシュールなホテルの廊下や、ある扉が、別の場所に繋がっているといった場面展開は、それを強く感じた。
本作を構成する四つの短編の主人公たちは、いずれも地震のあとで、家族及びそれに関連するなにかを失っている。
妻を失ったサラリーマン、妻と娘二人を失い故郷も失った画家の男と父を捨てたコンビニ店員、(地震の前だが)初めから父を失っている青年善也と、夫がいないその母。歌舞伎町のネットカフェで暮らす老齢の警備員(もと信用金庫の渉外担当)。
そして、地震の国日本では、いまも地震の前であり、ある夜に、かえるくんと共闘をした片桐さんのように地下にうごめく見えない巨大なみみずくんと想像力で闘う必要があるのかもしれない。
個人的にはやっぱ2話までかなー・・・
第4話の混乱が映画自体をダメにした。
素晴らしいところとスベってるところがまぜこぜになっている、そんな感じがした。複雑な気持ちである。
まず、素晴らしいところ。原作の「神の子どもたちはみな踊る」は6編からなる短編集である。映画(と、それに先立つNHKのドラマ)は4編をチョイスしている。すべて1995年の阪神大震災が関連するが、直接的には被災者、被災地は登場せず、離れた土地の人々のこころの諸相が描かれる。2000年に出版されているので当然ながら、東日本大震災もコロナも現れない。4編の(取り上げられなかった2編も含めて)時間は阪神大震災の直後である。
主役たちは、基本的に、暴力の被害者であったり、いままさに暴力に直面しようとしている者たちである。この暴力というのは、肉体的、精神的な虐待はもちろん、性的なまなざしであったりネグレクトであったり宗教的な抑圧であったり、様々なカタチがある。これらの被害を受けた主役たちは、こころの均衡が崩れ、強い喪失感や自己否定や遺棄感などを持っている。村上は、阪神大震災とそれに引き続き発覚したオウム真理教の犯罪が、人々の弱さやキズと呼応する姿を描いている。つまり圧倒的な負のパワーによる暴力は遠く離れたもののこころにもシンクロするのである。
でも、そのような現象は1995年だけのことではあり得ない。2011年の東日本大震災と原発事故、2020年からのコロナ禍も、圧倒的な負の力をみせつけた。村上の仮説が正しければ、同じように暴力の被害者が影響を受けるはずである。端的に言うと弱いものが狙われる。
長くなってしまったが、この映画の優れたところは第二話と第三話の時代設定をそれぞれ2011年、2020年に変えたところにある。つまり天災、人為を問わず、圧倒的な負の力が人々のこころをねじ曲げる姿に普遍性を持たせたところにある。人々は影響を受け、でもか細く抵抗する。だから第一話から第三話までは原作を超えた同時代性と説得性を持たせることに成功した。第三話「神の子どもたちはみな踊る」で渡辺大知演じる善也がグラウンドで踊るところ、これはおそらく彼の心の奥底から来た自然の律動に身を任せたということなんだろうが、少しわかりにくいがさほど問題ではない。
問題は第4話の「かえるくん、東京を救う」である。これは2025年、つまり現代に話を置き換えている。
ここで、脚本家は片桐とその分身であるかえるくんを、この30年のいわば狂言回しとして位置づけしようとしているようにみえる。だからパラレルワールドのように1995年に神戸にいる片桐が登場したり、おそらく時間的経過を象徴する回廊が登場したりする。映画的な解を求めようとした結果なのだろうがすべて蛇足であり作品には混乱しか与えていない。
最後の30分間で全てをおじゃんにした、ということなのだろう。
時間とお金を返しなさいレベルだわぃ🤣
心に刻まれる「クエイク」の余波
■ 作品情報
村上春樹の短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』を原作とし、1995年の阪神・淡路大震災以降の異なる時代と場所で生きる四人の物語が交錯するヒューマンドラマ。監督: 井上剛。脚本: 大江崇允。主要キャストは、岡田将生、 鳴海唯、渡辺大知、佐藤浩市、橋本愛、唐田えりか、吹越満、のん、堤真一、錦戸亮、井川遥、渋川清彦、津田寛治、黒崎煌代、黒川想矢。
■ ストーリー
主要な登場人物は、4つの時代にそれぞれ配置されている。1995年には、妻に「空っぽだ」と言われ突然失踪された営業マンの小村が、喪失感を抱えながら友人の依頼で謎の箱を釧路へ運ぶ道中で不思議な話に触れる。2011年には、家出少女の順子が、焚き火を愛する中年男性との交流を通じて自身の内面を見つめ直す。2020年には、信仰深い母に「神の子ども」として育てられた善也が、不在の父の存在に疑問を抱き、自己のルーツを探求する。そして2025年には、漫画喫茶で暮らす警備員の片桐が、東京を壊滅から救うために地下の「みみずくん」と戦うという巨大なカエルの依頼を受けることになる。
■ 感想
正直なところ、全体を完全に理解しきれたとは言えない作品です。本作は、それぞれ異なる人生を歩む4人の主人公に焦点を当て、4つの独立したエピソードで構成されています。個々のエピソードには確かに興味を引かれる要素が多く、非常に上質な雰囲気が漂っています。それぞれの物語がこの先どう展開していくのか、続きが気になる場面も多く、単体としてはおもしろく感じられます。
しかし、これら4つのエピソードを繋ぐ核心がイマイチ釈然とせず、結果として全体的なまとまりや深みに欠ける印象は否めません。タイトルにある「クエイク」という言葉は、単なる地震そのものだけでなく、人生を大きく揺るがす出来事、つまり「心の揺れ」を指しているのかもしれない、と感じます。
その揺れによって生じる迷いや葛藤、後悔といった感情が、漠然と誰かを求める姿や、あるいは別の選択をしたかもしれないもう一人の自分を夢や幻として生み出す様子を描いていたのかもしれません。それが、焚き火おじさんやカエルくんだったのかもしれません。燻り続ける思いが、彼らの心の中にずっと存在していたということでしょう。
総じて難しい作品で、おもしろかったとは言えませんが、そこまで悪くもなかったかなという印象です。考察の余地が多く、観る人によってさまざまな解釈が生まれる、そんな不思議な魅力をもつ作品です。
タオルも宙に浮かんでるよね
1995年の阪神・淡路大震災以降、それぞれ別の時代・場所で喪失感を抱える4人の話。
カエルくん…からの、1995年阪神・淡路大震災を背景にその5日後に妻が突然家出し離婚した男が、後輩からの預かりものを持って釧路へ…と始まって行く。
なんだか異様な空気感のお出迎え2人とドライブで、ん?オカルト?旅のお世話ってそういうこと?
なんて思っていたら2011年…これはまた震災の年だけど、流木集めるオッサンと元家出少女?
そして今度は2020年…地震じゃなくてコロナ?とか思ったら全然関係ないし、寧ろ2011年回想だしカルトだしアイデンティティだし。
最後は2025年、ネカフェ暮らしの警備員からのカエルにミミズに…。
喪失感という繋がりはあるけれど、話し自体には繋がりのない尻切れトンボな4編を並べた群像劇風のオムニバスですか?
しかもカエルを救世主みたいにいうなら、震災に纏わることを2つも絡めちゃ話しが違うでしょ。
めくらやなぎと眠る女
岡田将生主演の一編目は、昨年観たアニメーション『めくらやなぎと眠る女』、
そのままで、不気味・不穏な空気感もそのままなのだが、
村上春樹のこの世界観は、実写よりもアニメーションが向いている気がした。
四編目の佐藤浩市主演作で、『めくらやなぎと眠る女』における片桐とかえるくんの
その後のストーリーなので、私としてはこれが一番面白かったかな。
佐藤浩市の老けた片桐の演技が素晴らしいし、かえるくんの声を演じている のんが
実に素晴らしかった。のんの声でかえるくんを見ることができただけで満足。
1本の映画としてまとめてはいるものの、基本はオムニバスなので、
短編4本を観ている感覚。
エピソードもアフター・ザ・クエイクながらも、直接的な災害の表現はさほどなされない。
不思議な人間ドラマが中心。
のんがかえるくんじゃなかったら、たぶん評価1にしていた。
この世界観が好きじゃないときついかもしれない。
一番大事なのは、忘れるという能力ですよ。全部覚えとったらおかしくなるでしょ。
数年前、『めくらやなぎと眠る女』というアニメ映画があって、ようするにこの映画はそれの実写版ってことかな。それにしちゃ、出来が良くない。アニメはどこか哲学的なセリフとストーリー展開をみせて、なにかしら自分の中に思慮が芽生えたのを覚えている。それに比べて、これはどうだ。製作がNHK。音楽が大友良英ってのがNHKらしいっちゃらしい。たしか少し前(か、昨年)に連続ドラマでやっていて、録っておいたデッキがオシャカになってしまって見ず終いだったのが悔しかったのだが、そのドラマの出来がこれだったのなら見なくてよかったと思った。
オムニバス的にいくつかのエピソードが続くが、どこにつながりを見出せばいいのか。ぶつ切りの各章を、どう消化して次を見ればいいのか。何が言いたいのかさっぱりわからない。トラウマ?、空っぽの中身?、影?、分身?、突然失ってしまう何か?、再生の物語?どうもブレていると思えた。
「あなたがいないということは僕がいない。そう、僕はあなたの影なんです」と言う。なるほど。もしかしたら、僕にも影(もう一人の自分)がいて、誰かにとってのカエルくんのように、僕にとっての何か/分身がいるかもと考えるのはどうだろう。それは、カエルくんのようなへんちくりんな姿をして現れるかも知れないし、もしかしたらもう、生存する一人の人間として僕の目の前に現れているのかもしれない。そうだ、つい先日「人は自分の鑑ですね」と僕に語りかけてきたあのオバサンが、そうだったのかとも思う。
自分の行間読む力がないせいか、全く意味が分からなかった。特にカエル...
小説を読んだ語感と同じと錯覚
タンノイとマッキントッシュ
「めくらやなぎと眠る女」と登場人物等がかなりかぶる内容だが、他者の苦痛・喪失感・アイデンティティの危機などに共感する「自分」とは何か、みたいなテーマを扱っているらしい点で風味が違うようにみえる。
「自分」(自我でもエスでも何でもいいが)の捉え方・扱い方が登場人物それぞれ違っているのが面白い。小村は「自分」が存在するという前提に固執して出口を無くし、第二話の二人は震災や毒親に「自分」が消されたと思っており、善也は宗教者との対話を通じて「自分」について考えはじめ、片桐は敢えて「自分」を捨てる事に活路を見出そうとしているように見える。釈迦なら「自分」なんて「空(くう)」だよ、と諭すのだろうが、自意識というやつはどうしようもない煩悩の元なのだな、と内容から外れて考えてしまった。
【”かえるくんとみみずくん。”村上春樹小説作品の映像化の難しさと、今作と、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」との違いをチョイ考えるの巻。】
今作はフライヤーにもある通り、”神の子どもたちはみな踊る”の映画化であるが、NHKのドラマ”地震のあとで”の内容も包含されているらしい。
今作は4編の掌編から成り立っている。
1.阪神淡路大震災後に、その惨状をTVで観ていた妻(橋本愛)に、突然の別れを告げられる男(岡田将生)の話。
2.浜辺での焚火が趣味の孤独な男(堤真一)と、家出少女(成海唯)との、不思議な交流の話。
- 個人的に、夜の浜辺での焚火のシーンは好きである。大学時代に、同様な事をやって、デートしたり友人達と、男と家出少女の様に、喋っていたからであろう。
3.東日本大震災の惨状を見て、信仰を捨てた新興宗教団体の男(渡辺大地)の話。
ソ・シ・テ、ビックリの
4.元信用金庫勤務で、今は地下駐車場のネットカフェで暮らす警備員(佐藤浩市)と”人間の業を餌にして時折暴れるみみずくんと、長い間戦って来たかえるくん”のお話。
である。
繋がりがあるのかなあ、と思って観ていると、特にはないようである。
そして、一番ビックリしたのは、”着ぐるみかえるくん”の登場である。
ご存じの取り、村上春樹氏の小説には初期から”羊男”や”鼠”が登場するが、小説なので、独特の風合いを醸し出している。
だが、これが実写で”着ぐるみかえるくん”として登場すると、警備員と同様にひっくり返る程、ビックリなのである。
<そして、何故か脳内には、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」との違いが思い浮かんだのである。
彼の作品は、「ドライブ・マイ・カー」と「シェエラエザード」と「木野」を濱口監督が巧妙に織り交ぜた脚本に仕上げ、
”生きていると、辛いことが多数有るが、絶望に陥る事無く、懸命に前を向いて生きていく大切さ”(拙レビューより)
をロードムービー形式で描いた作品であり、それが大変に面白かったのであるが、今作ではそのメッセージがやや希薄に感じてしまったのである。>
衝撃の悪夢
4つのエピソードのうち 最初の2つ寝😪てしまった。鎮魂のレビュー。😢
俺 村上春樹さん 全然 読んでないんだわ というより 小説全体はあんまり読まなくなった。
でもそんな俺でも 『なんで 村上春樹氏 でなくて ボブ・ディランさん やねん💢』
と ノーベル文学賞さんへの不信感はデカい。
厳密にいうと『1Q84』『色彩を持たない多崎つくる・・・』の2作は 本屋で 買ったが 1行も読んでない
短編集『パン屋襲撃』だけ読了 図書館。
でも
1995 岡田将生さん 阪神大震災
2011 鳴海さん❓東日本❓
2020渡辺さん❓
2025佐藤浩市さん
それと カエルの声 のんさん って言うから期待したがな❗️
オムニバス方式を 統合してくれるって思ってた
1995 2011 半分以上寝て😪た 俺が言うのも僭越 恐縮だが🙇🙇♂️
なんか オムニバスで完結のような 気がした。
元々NHKドラマらしいから ある程度の質は保証されている
佐藤浩市さん のんさんのエピソードは面白かったし
2020 神の子の 『神の解釈』も正論で唸った❗️
要するに 『寝てた😪俺が👎悪い』と言うことやね❗️
有料パンフ🈶は極めて普通の 補える パンフ。是非。
キチンと起きて 焚き木のシーン見てたら もっと高得点かもです。堤真一さん 申し訳ございません🙇
あっ テーマはよくわからないのでした。🙇♂️
インスタレーションのような
これこそ難解
四つのstoryで構成され
岡田将生さんからはじまり鳴海唯さん
渡辺大和、最後は佐藤浩市さんで締め括る
震災をテーマに
阪神淡路大震災で妻を亡くし
心にポッカリ穴が空いてしまった
…喪失感
(中身のない箱)で表し
空っぽの中身はあなた自身
と抽象的な言い回し
それぞれのstoryに
難しいけど伝わるものはありました
鳴海唯さんは
父と合わないことで家をでた
海で流木を拾って焚き火するおじさん
(堤真一)と焚き火を通して心許せる人
渡辺大和さんは
宗教の神とされ悩む
神の存在があるのか疑問が膨らみ
神は地震も止められないし病気も治せない
と…それでも祈るのか
ラストは
ネットカフェで暮らす佐藤浩市さん
駐車場の勤務とコミ拾いで…
巨大なカエルくんが出てきて
助けてくれてありがとうと感謝をされる
身に覚えがないが
このカエルくんも彼自身で
元は銀行マンだった彼が銀行員だった頃
イロイロな出来事が彼を襲う
大震災が起きて
喪失感を抱えて生きている人たち
その空っぽな心をどう埋めて
"自分"の心を戻すのか
…相手がいることで
祈り続けることで"救われる"
声を掛けてもらえることで…
何となくですが…観てよかった
それぞれの抱える傷と喪失感。
1995年に起きた阪神・淡路大震災から5日後に妻が居なくなり離婚した男、2011年家出した女と海辺で焚き火をする男、2020年神の子と言われ育てられた男、2025年元銀行員の警備員、それぞれにある喪失感を抱え生きる者達の話。
冒頭で言うカエル君、…カエル君!?あれっ、これいつだか観たアニメ映画で聞き覚えのあるフレーズ、村上春樹、あの時の実写?!が頭にありながら…。
それぞれの年代の人物のストーリーを観て残るのは癒えない傷、喪失感を抱える者達、…なんだけど見せ方が何とも独特で解りにくい。原作書いてる村上春樹さんの頭はどうなってる?!って思うし、どうしたらこんなストーリーが思い付く?!がずっと頭にありで。
原作を知る方は解るかもだけど…地震をもたらすミミズとか世界を救うカエル君とかの世界で表現する世界観はちょっと難しいかな。
2011年の焚き火の話、焚き火の火を見て素が出る見せ合う2人は何か良かった…でも根本の部分はそんな感想ではない!ってのも分かってる。
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