「ジャンプスケア命」アンティル・ドーン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ジャンプスケア命
驚くことを怖いと言わないのであればUntil Dawnは怖い映画とは言えない。ジャンプスケア命といっていい映画になっていて、元ネタはゲームだそうだが、ゲームの映画化だからダメとは言わないが、ゲームの映画化らしい箱庭感があった。
グロテスク描写は作りこまれてはいるものの、映画は謂わばお化け屋敷であり、若い男女が見て女子が「きゃ」と言って男子の腕をヒシッと掴む、というような一連の挙動を提供する昔ながらのホラー映画だった。(そんなシチュエーションを望む男子が今の社会にいるのか解らないが。)
知っての通りホラー映画は常に活況で新しいアイデアのアリーナといえる。したがってUntil Dawnが観衆の記憶にとどまれるかはかなり怪しいと言わざるをえない。事実、登場人物らが何を怖がっていたのか、すでに忘れた。笑
RottenTomatoesにキャビンインザウッズとの類似を指摘している批評家がいたが、本作は元ネタがゲームなので、彼らが閉じ込められたのはアイデアではなくゲーム性のためでもある。たとえばバイオハザードで敵をやっつけたり歩き回ってアイテムをさがすのはストーリーでもアイデアでもなくゲーム性だ。
キャビンインザウッズで若者が閉じ込められたのは、生け贄の儀式がシステム化された世界という大がかりなプロットがあったからであり、そのプロットの上にホラー映画の定番といえるサマーキャンプ的環境をパロディするという映画の動機が載っていた。もちろんそれらはゲーム性ではなくアイデアだった。出所が違うので類似性はむしろ全くない。
とはいえゲームと映画には一定の親和性がある。たとえば一本道のゲーム性をもったゲームがある。グラフィックがきれいで、難易度が三段階くらいで、誰がやっても同じ行程をたどるから独自性がなく、挙げ句にSteamレビュー欄で「映画を見ているようでした」などとコメントされる。ならば映画見るかYouTubeで攻略動画見ときゃいんじゃねと思ったとき、なるほど映画がゲームになるのもゲームが映画になるのもファンに期待されるメディアミックスであることが解る。
リニア(一本道)なゲームの基調概念はヒントを与えてゲーマーに道筋を選ばせることといえる。道筋は一本しかなく、分岐やエンディングが幾つかあったとしても、その限りでしかない。すなわちその概念の下ではゲームも映画もクリエイターのつくった世界を見せることを目的としている。
個人的に興醒めのポイントとなるのがそこである。ウィッチャーだってトゥームレイダーだってバイオハザードだってプレ-ヤーは全員、誰もが等しなみに同じ事をすると考えたとき「俺はじぶんがやることに独自性が担保されていてほしいタイプなんでキリッ」という自我がもたげてくるわけである。
ただしそもそもメディアミックスとは元ネタのファンを呼び込むことにあるのだから本作のゲームをやったことがある人にとってはそれが映画化によってどのように料理されたのかという関心ポイントがあったにちがいない。逆に言うとそれがないとキビしかった。
Consを述べたがDavid F. Sandberg監督はライト/オフやアナベルやシャザムを演出したベテランで内容のない話をそこそこ楽しいスラッシャーに仕上げたのはさすがだった。
またジャンプスケアはタイミングと間合いによって驚きが変わる。それがバッチリ合えば、椅子から転げ落ちるどころか持っていたポップコーンを辺り一面にぶちまけさせることだってできるだろう。じっさい何度か驚いたことは認める。
(ちなみに個人的に映画館で飲み食いをしたことも、したいと思ったこともない。ちなみにこれは「俺は意識高いんで映画館で飲み食いしないんだぜキリッ」と矜持したくて書き添えたわけではない。)
ヒロインたちが弱かった気がする。決定的な魅力をもったヒロインがいなかった。バレラやオルテガがいたスクリームを引き合いにするのは酷だがピーターストーメア以外に濃い人がいなかった。
ピーターストーメアは長いキャリアのほとんどを悪役しかやってこなかった。長く悪役をやってきた人が主役級に出世するタイプでもなく、ダニートレホとかロバートダヴィとかロバートイングランドのように悪役としてトリビュートされる存在に昇華されるわけでもなく、一貫して脇役の悪役に徹してきた人だったと認識している。しかも悪の大物じゃなくて下っ端たちのオルグ的なポジションで、ここでも、どの映画でもろくな最期を遂げてこなかった。だけど親日家で奥さんが日本人なんだそうだ。強面(こわもて)が子煩悩な様子は微笑ましいものだがKaiya Bella Lunaで検索したらそれを見ることができた。
imdb5.7、RottenTomatoes52%と62%。
