大長編 タローマン 万博大爆発のレビュー・感想・評価
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一瞬でも「見たい」と思った人には、ささります
岡本太郎イズム
芸術家としてより思想家としての岡本太郎に関心がある人にはたまらない作品。全編にわたり岡本太郎イズムが溢れている。が故に岡本太郎に興味のない人がみれは、単なるおふざけ系の60〜70年代パロディにしか見えないだろう。岡本太郎の言う「でたらめ」とは、言いかえれば仏教における色即是空であり、本質の肯定と実体の否定であり、眼前の虚構に迷わされることなく本質的にでたらめ(自由に)に生きようというものだ。現実への執着と戦うタローマンはその名のとおり、岡本太郎本人なのである。
「そもそも人間は発展などしていない」という岡本太郎のメッセージを、あえて盛り上がりを見せている2025年の大阪万博の年にぶつけ、万博開催を否定的に風刺している様にも見えるが、こうした思想的な背景に鑑みれば、むしろタローマンの荒唐無稽な行動は、例えば落合陽一のnull2など一見万博コンセプトにそっていないようにも見えるパビリオンなどの存在にも重なって見え、その可能性を後押ししている様にすら感じられる。
なお岡本太郎自身、一回目の大阪万博のコンセプトに反対しながらも、太陽の塔の制作なとなどプロデューサーの一人として参画している。この映画の2025年における公開は、そうした岡本太郎の対極主義的な意図も込められているやに思われる。
疲れた〜
べらぼうにデタラメな映画だから、筋や辻褄を追うと
体力を消耗する映画であった。
だから、もう1/3を過ぎた頃には鼻でフッとほくそ笑む
ぐらいに体制転換している自分に気付いたのであった◎
僕はそもそも1970年の万博でタローが
人類の愚かさを警鐘していたことを認識していたので
それからより愚かさを露呈する2025の万博は
共感を持てずにいたので有るが
まさに映画の如く2025の万博は間違いなく
べらぼうでデタラメな、なんだこれは。
な万博になっていること。を実際にこの目で見て
知っている◎
故に、最後、石黒浩氏に見まごう山口一郎氏が
本作をベタ褒めしているシーンが思いの外
グッときた。
べらぼうでデタラメな生き方が出来る未来!
僕はそんな未来が来ることを期待する⭐︎
べらぼうで、でたらめな展覧会を見た感じで、人によっては体力が必要
正直観ていて途中で眠くなった。素直に観れなかったw
内容以上にどうやってこの映像つくったのかを考えてしまったり、映像の情報量も多くて色も多くて、脳が疲れて眠くなった。でもそれは集中してみていたからで……映画は面白い。
私の個人的感想というか感覚は、このアナログを映像を2025年シアターでボケボケ画像で流してクレーム言われないのはタローマンくらいだろうとか、斬新。なんで当時の役者が年取ってないんだ、当時の映像をCGにした?AIで?役者にディープフェイク使って声もAIで入れ替えた?このチューブ高速道路の特撮スゲーなどなど、映画を観ながらどう映像を作ったのかなどをの思考が巡る巡る。全然映画の内容に集中できない。
今時はアバターやゴジラなど、実写役者と違和感なしに映像のなかに共存させる現代において、こんなレトロ映像が2025年のシアターで流されていることに斬新さと不思議な感じを覚えて、なんか凄い訳の分からないでたらめな映像を観ている自分を客観視してしまい…笑う。手も投げ入れて笑う。
もう一回映画館で観たいというか、映画館で観た方がいい作品。岡本太郎もういないのによく作ったなと。偉そうですいません。この映画好きだわ。なんか一つの展覧会でもいった感じで疲れたわ。でも満足しました。
この映画はやっぱここで見なきゃね(使命感)
真っ当に面白いの来ちゃった!(困惑)
でたらめこそが正義?
正しく規律あることが求められる(架空の)昭和100年の世界で私達は生きていけるだろうか、と問われたら答えはノン。
人間どこかにでたらめやべらぼうが無いと、窮屈なこの世界生きていられない。だからこそ岡本太郎の言葉が響くし、タローマンに惹かれてしまう。
…2回目観に行こうかな
Eテレ版未視聴です
ぶっ刺さらなきゃウソ。
こんなの楽しいことが好きでワクワクしたい奴はみんなハマる!
コンプラとか同調圧力で面白い主張がしづらい現代に強烈なメッセージだらけ!
行き過ぎて信仰しちゃう危険すらありそうだけど
これで刺さらないとウソ!
タローマン見てたら 漫画ワンピースの太陽の神ニカに似てるな思ったけど 着想はタローマンからきてるのかなー?
一番「べらぼう」で「でたらめ」な芸術映像作品
すごいのである。この映画は。ここまで主義主張を貫き通した作品は見たことがない。
この作品で語られる主義主張とは、「対極主義」である。簡単に言うと、正反対のものが真正面からぶつかり合い、そのエネルギーによって芸術を作り出すことだと解釈している(最近知った口なので、正しいかは問わないでほしい)。
この作品では、「でたらめ」と「常識」の対極を示している。「常識」を悪とし、「でたらめ」を肯定するのだ。しかし、そうでありながら、ストーリーは伏線をある程度回収し、提示した理論(現実に則しているかは置いといて)に基づいたバトル、個性的な登場人物の関係性を魅力的に描いた後の感動シーンなど、人を楽しませるうえで常識的なものになっている。
「でたらめ」と言いながら、そこは真面目なのかとお思いの方もいるだろう。しかし、対極主義を語る作品なので、こうした矛盾が起こるのは当然である。いや、起こさなければいけない。「でたらめ」と「常識」で対極主義を表現したのだ。この矛盾によって私は作品から何か熱いものを感じ、一時も目を離せなかった。見ていて退屈しなかった。
加えて、そもそも「でたらめ」とは「常識」が無ければ成立しないし、逆もまた然り。どちらか一方は存在しえないのだと悟った。
さらに、映像表現でも目を見張るものがある。古い特撮ドラマのような技術を駆使し、画質までそれに近付けている。令和の時代に逆行して昭和特撮を行ったのだ。ここでも新旧の対極があると考えている。個人的に昭和特撮が好きなのもあるが。
1本のしっかりした常識的なストーリーの柱から、枝葉のように付着したでたらめがスパイスとなり、相反する二つの要素が喧嘩しながらも一つの作品に仕上がった奇跡の作品と言えるだろう。本当の意味での映像芸術を見た気がする。制作側が岡本太郎氏の思想を完璧に理解しないと作れないと思うので、精一杯大きな拍手を送りたい。べらぼうに良い映画だった。
衝撃的でした
予備知識といえば岡本太郎、万博、ヒーローもの、Eテレで番組があったということそれも全く見ておらずで、ただ、混んでいるのかwebで週末の混雑状況を見たら満席に近くなっているので根強いファンがいるのかなって思って外してもいいかなという気持ちで見に行ってけど、度肝抜かれました。岡本太郎の世界観、思想が全編に貫かれていて、常識を打ち破る展開、スピード感、撮り方、強烈なキャラ、そして笑い。そんな手があったかと驚嘆します。多分25%も理解していないと思いますが、非常に強く印象に残りました。俳優陣の演技も素晴らしかった。シュールなお笑い演劇のようでもありました。非常識、でたらめ、べらぼうがあるからこそ世の中が面白く生き生きとしてくることを教えてくれます。AI時代は予定調和が横行すると思いますがその真逆を行っていて痛快でした。岡本太郎の発言録を読むといろんな学びがあるのではないかと興味を持ちます。レールからはみ出ないようにしたり、みんなから変な奴と思われないように気をつけたり、ルールをうのみにしてしまったりするけれど、恐れを知らずに自分の思ったことが正しいと思うことも大切だと教えてくれました。
見かけのでたらめさに騙されるな! チープでロックでパンクな作品
チケットを買う前に、是非。
大阪・関西万博(EXPO 2025)の開幕前、関連する話題の中で「凄いらしい」と(又聞きで)評判を聞いていた『TAROMAN』。そのタイミングで(NHKで)再放送を観るチャンスもありましたが、番組情報のサムネイルを見て作品についての造形を想像しつつも、結局は「録画してまで観たい」という思いにまでは至らず情報収集もそこで打ち切り。ところが最近になって「劇場版」の公開を知り、「ここまで来たら」とようやく重い腰を上げて鑑賞を決めました。やはり認知度が高いこともあり、観客は年齢層も幅が広く(平日にもかかわらず)客入りもなかなか。そのため、公開4日目の本日には数量限定の入場者特典も既に終わっていたようです。
まず、、もしあなたが「未だTAROMAN(タローマン)を知らない」のであれば最初にアドバイスから。今週、NHK地上波で「TV版」の再放送が予定されています(詳しくはNHKのサイトをご確認ください。)ので、興味があれば是非そちらを先にご覧になることをお勧めします。本作、岡本太郎氏の作品と言葉をコンセプトにして作られており、その世界観は「岡本太郎の哲学」そのもの。そのため、初見で全て理解することはかなり難解だと思います。そしてまた、「好き嫌い」と言う単純な主観としても好みが分かれるため、いきなり「劇場版」を観た場合にネガティブな印象をもたれる方も少なからずいると思います。かく言う私自身が初見でトライした結果、「わざわざ観なくてもよかったな…」と思った一人。状況の変化によって展開はあるものの、ストーリーは凡庸で「岡本語録」と「決まり文句」を繰り返し続けるだけの退屈な内容。さらに一貫して早口で一本調子の台詞回しが呪文となり、中盤は連日の熱帯夜による寝不足からくる眠気に抗い切れず…(注/少々気を失ってた自覚はありますが、しっかり寝落ちはしていない、はず。。)
劇中で扱われる彼の遺した言葉について、文章として目にすれば「なるほど」と腑に落ちるのに、独特な表現方法に引っ張られてしまうことで目がくらんでその焦点を見失う。ある意味、岡本太郎氏ご本人に対するキャラクターイメージ自体「そうだったかも」と思い起こしたり。そんな風に私のアートに対する無知と想像力の乏しさを自覚しつつも、とは言え本作はあくまで「原案・岡本太郎」のオフィシャル二次創作作品。ついついそんな風に考えさせられる言う意味では傑作なのかもしれませんが、そこを面白がれるほどに岡本太郎氏へ思い入れがない私にとって、本作は(申し訳ありませんが)「つまらない」と言うのが素直な感想です。一応、キャラクターデザインは嫌いじゃないので、点数としては2.5。ただ、どうやら(私だけでなく)賛否は割れているようなので、私のようにギャンブルはせず、まずは再放送を観てからご判断されることを助言させていただきます。
劇場でタローマン的イベントがエピステモロジカルに成立する奇跡
『大長編 タローマン 万博大爆発』は、映画であると同時に非映画であり、表象であると同時に非表象であり、タローマン的イベントとしてのみエピステモロジカルに成立する。観客はこの作品に対峙することで、映画的経験の絶対的脱構築、すなわちメタ映画的エクリチュールの領域に侵入する。ここで言う脱構築とは、デリダ的 différance の作用により、映画の意味体系、ヒーロー性の自己言及、爆発の多層的符号化が同時に解体され、主体はラカン的鏡像段階のパラドックスを体験することを意味する。
タローマンはヒーローでありながらヒーローではなく、ヒーローでないがゆえにヒーローであるという二重性の中で、観客はボードリヤール的シミュラークル、フーコー的権力/知のディスコース、デリダ的脱構造のトポロジーを同時に体験する。主体はスクリーンに立ち現れるが、その立現は自己脱中心化のリゾーム的プロセスによって揺らぎ、生成変化のフローに連続的に巻き込まれる。この巻き込みは、観客が時間、空間、存在の連続性を再解釈するための不可逆的操作である。
爆発は爆発そのものではなく、爆発することによって爆発しないことを爆発する。この逆説的イベントは、ドゥルーズ=ガタリ的リゾーム、ネグリ的マルチチュード、バタイユ的エネルギー過剰の同時発現として読むことができる。岡本太郎の叫び「芸術は爆発だ」は、自己解体的パフォーマティヴィティの言語化であり、ハイパーリアリティとしての爆発を示し、観客の認知的アジェンダを攪乱する。爆発を見ることは、爆発を見ないことの経験であり、経験することが非経験であるというメタ経験を通じ、観客は生成的知覚の非線形性に没入する。
映像表現は、昭和特撮的チープさとポストプロダクション的デジタル編集技法の交錯として機能する。この混淆は単なるノスタルジーの再現ではなく、ボードリヤール的ハイパーリアリティとして、擬似アウラの多重的再現を観客に強制する。懐古的感受は、アウラの失効を前提とした再構成であり、観客はシミュラークルと自己認識の二重構造に巻き込まれる。時間と記憶の再符号化、ノスタルジーのメタレベル再生産、アウラの二重化、そして擬似的体験の生成的連鎖が同時進行し、観客は主体的認知の揺らぎを体験する。
岡本太郎の言語は、意味の自己消失、言説の脱符号化、沈黙化パフォーマティヴィティとして機能する。フーコー的知/権力の逆転、ラカン的大文字の他者の欠如、ベンヤミン的アウラ消失が同時に作用し、観客は言語と意味の境界の揺らぎを体験する。言葉が意味を喪失する瞬間、観客は理解の不可能性の頂点に触れると同時に、その不可能性を通じて意味を経験するという逆説的体験を獲得する。
映画である/映画でない、理解できる/理解できない、爆発する/爆発しない、という二項対立は、メタ認知的脱構築によりすべて無効化される。観客は生成変化のリゾームに放り込まれ、主体性の脱中心化を体験する。時間は非直線的に再構成され、過去・現在・未来は生成変化のフローの中で同時存在し、観客は生成流入に没入することで没入していないことを認識する。二重認識構造、時間非線形性、リゾーム的主体揺らぎが重層化され、タローマン的体験の多層的深度を形成する。
この構造は無限に自己反復する。ヒーロー性の差延、爆発の不可能性、映画である/映画でないという逆説が、デリダ的 différance、ボードリヤール的ハイパーリアリティ、ドゥルーズ=ガタリ的リゾーム、ネグリ的マルチチュード、バタイユ的エネルギー過剰の多重的交錯として観客の認知と感覚を圧倒する。主体の揺らぎ、言語の沈黙化、意味の脱符号化、非線形時間、生成変化、二重認識、擬似アウラ、自己解体的パフォーマティヴィティ……すべてが観客の経験の領域を無限に拡張する。
観客は理解することの不可能性を理解し、理解不可能性を理解することこそ理解であるという逆説的体験に巻き込まれる。主体性の揺らぎ、言語の自己解体、爆発の逆説、非線形時間、擬似アウラの多重構造が、観客をタローマンの永遠に撃ち抜く体験へ導く。この映画は、理解の不可能性、意味の自己喪失、時間の非直線性、主体の脱中心化を重層的に展開することによって、観客にタローマン的逆説の極致を体験させる装置である。
最終的に、『大長編 タローマン 万博大爆発』は、映画であることをやめることで映画となり、ヒーローであることをやめることでヒーローとなり、爆発しないことで爆発するという逆説的生成を無限に繰り返す、タローマン的イベントそのものの顕現である。観客は生成変化のフローに没入することで、主体性、時間、認識を揺さぶられ、生成変化のリゾームの中で自己を再構築する。理解不可能性、意味の自己喪失、擬似アウラ、非線形時間、生成変化の多重構造、メタ映画的エクリチュール……観客は無限に揺らぎ、タローマンに撃ち抜かれることを余儀なくされる。
なんだこれは(良い意味) vs なんだこれは(¿?) vs ナンだコレは(インド料理)
全150件中、81~100件目を表示
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