大長編 タローマン 万博大爆発のレビュー・感想・評価
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トゥーマッチ
で良いんだろうな。
NHKで放送された短編を見てて面白かったから見に行ったんだけど、物語とキャラクターが冗長で長く感じた。この特撮レトロ感でどこまで行けるか、チャレンジングな作品だった。
岡本太郎のコトバを繰り返すんだけど、せっかく良いこと言う〜なので、字幕もあるけどサッサか次のシーンに行っちゃうので1個くらいお言葉を持って帰りたかったな。
でも太郎さんもそこまで望んでじゃないか。いいのか。
最後分裂した明日の神話が巨神兵みたいに見えた。あんな柔らかい素材だったのね!!
渋谷駅でしみじみ観ました。カチコチだよね、本物は…
一番「べらぼう」で「でたらめ」な芸術映像作品
すごいのである。この映画は。ここまで主義主張を貫き通した作品は見たことがない。
この作品で語られる主義主張とは、「対極主義」である。簡単に言うと、正反対のものが真正面からぶつかり合い、そのエネルギーによって芸術を作り出すことだと解釈している(最近知った口なので、正しいかは問わないでほしい)。
この作品では、「でたらめ」と「常識」の対極を示している。「常識」を悪とし、「でたらめ」を肯定するのだ。しかし、そうでありながら、ストーリーは伏線をある程度回収し、提示した理論(現実に則しているかは置いといて)に基づいたバトル、個性的な登場人物の関係性を魅力的に描いた後の感動シーンなど、人を楽しませるうえで常識的なものになっている。
「でたらめ」と言いながら、そこは真面目なのかとお思いの方もいるだろう。しかし、対極主義を語る作品なので、こうした矛盾が起こるのは当然である。いや、起こさなければいけない。「でたらめ」と「常識」で対極主義を表現したのだ。この矛盾によって私は作品から何か熱いものを感じ、一時も目を離せなかった。見ていて退屈しなかった。
加えて、そもそも「でたらめ」とは「常識」が無ければ成立しないし、逆もまた然り。どちらか一方は存在しえないのだと悟った。
さらに、映像表現でも目を見張るものがある。古い特撮ドラマのような技術を駆使し、画質までそれに近付けている。令和の時代に逆行して昭和特撮を行ったのだ。ここでも新旧の対極があると考えている。個人的に昭和特撮が好きなのもあるが。
1本のしっかりした常識的なストーリーの柱から、枝葉のように付着したでたらめがスパイスとなり、相反する二つの要素が喧嘩しながらも一つの作品に仕上がった奇跡の作品と言えるだろう。本当の意味での映像芸術を見た気がする。制作側が岡本太郎氏の思想を完璧に理解しないと作れないと思うので、精一杯大きな拍手を送りたい。べらぼうに良い映画だった。
衝撃的でした
予備知識といえば岡本太郎、万博、ヒーローもの、Eテレでアニメ版があったということそれも全く見ておらずで、ただ、混んでいるのかwebで週末の混雑状況を見たら満席に近くなっているので根強いファンがいるのかなって思って外してもいいかなという気持ちで見に行ってけど、度肝抜かれました。岡本太郎の世界観、思想が全編に貫かれていて、常識を打ち破る展開、スピード感、撮り方、強烈なキャラ、そして笑い。そんな手があったかと驚嘆します。多分25%も理解していないと思いますが、非常に強く印象に残りました。俳優陣の演技も素晴らしかった。シュールなお笑い演劇のようでもありました。非常識、でたらめ、べらぼうがあるからこそ世の中が面白く生き生きとしてくることを教えてくれます。AI時代は予定調和が横行すると思いますがその真逆を行っていて痛快でした。岡本太郎の発言録を読むといろんな学びがあるのではないかと興味を持ちます。レールからはみ出ないようにしたり、みんなから変な奴と思われないように気をつけたり、ルールをうのみにしてしまったりするけれど、恐れを知らずに自分の思ったことが正しいと思うことも大切だと教えてくれました。
見かけのでたらめさに騙されるな! チープでロックでパンクな作品
チケットを買う前に、是非。
大阪・関西万博(EXPO 2025)の開幕前、関連する話題の中で「凄いらしい」と(又聞きで)評判を聞いていた『TAROMAN』。そのタイミングで(NHKで)再放送を観るチャンスもありましたが、番組情報のサムネイルを見て作品についての造形を想像しつつも、結局は「録画してまで観たい」という思いにまでは至らず情報収集もそこで打ち切り。ところが最近になって「劇場版」の公開を知り、「ここまで来たら」とようやく重い腰を上げて鑑賞を決めました。やはり認知度が高いこともあり、観客は年齢層も幅が広く(平日にもかかわらず)客入りもなかなか。そのため、公開4日目の本日には数量限定の入場者特典も既に終わっていたようです。
まず、、もしあなたが「未だTAROMAN(タローマン)を知らない」のであれば最初にアドバイスから。今週、NHK地上波で「TV版」の再放送が予定されています(詳しくはNHKのサイトをご確認ください。)ので、興味があれば是非そちらを先にご覧になることをお勧めします。本作、岡本太郎氏の作品と言葉をコンセプトにして作られており、その世界観は「岡本太郎の哲学」そのもの。そのため、初見で全て理解することはかなり難解だと思います。そしてまた、「好き嫌い」と言う単純な主観としても好みが分かれるため、いきなり「劇場版」を観た場合にネガティブな印象をもたれる方も少なからずいると思います。かく言う私自身が初見でトライした結果、「わざわざ観なくてもよかったな…」と思った一人。状況の変化によって展開はあるものの、ストーリーは凡庸で「岡本語録」と「決まり文句」を繰り返し続けるだけの退屈な内容。さらに一貫して早口で一本調子の台詞回しが呪文となり、中盤は連日の熱帯夜による寝不足からくる眠気に抗い切れず…(注/少々気を失ってた自覚はありますが、しっかり寝落ちはしていない、はず。。)
劇中で扱われる彼の遺した言葉について、文章として目にすれば「なるほど」と腑に落ちるのに、独特な表現方法に引っ張られてしまうことで目がくらんでその焦点を見失う。ある意味、岡本太郎氏ご本人に対するキャラクターイメージ自体「そうだったかも」と思い起こしたり。そんな風に私のアートに対する無知と想像力の乏しさを自覚しつつも、とは言え本作はあくまで「原案・岡本太郎」のオフィシャル二次創作作品。ついついそんな風に考えさせられる言う意味では傑作なのかもしれませんが、そこを面白がれるほどに岡本太郎氏へ思い入れがない私にとって、本作は(申し訳ありませんが)「つまらない」と言うのが素直な感想です。一応、キャラクターデザインは嫌いじゃないので、点数としては2.5。ただ、どうやら(私だけでなく)賛否は割れているようなので、私のようにギャンブルはせず、まずは再放送を観てからご判断されることを助言させていただきます。
劇場でタローマン的イベントがエピステモロジカルに成立する奇跡
『大長編 タローマン 万博大爆発』は、映画であると同時に非映画であり、表象であると同時に非表象であり、スクリィンという二次元平面的体験であると同時に劇場でタローマン的イベントがエピステモロジカルに成立する奇跡を目撃する三次元空間的体験である。それは単に映画用8K高精細DLPプロジェクタァを通った量子力学的光子が高精細高反射映画用平面スクリィン上に結像して視神経を刺激することで引き起こされる疑似昭和的二次元映像体験であるだけでなく、あるいはまた映画用マルティウェイハイフィディリティオゥディオシステムのスピイカァから発せられる縦波振動波が窒素と酸素を主成分とする混合気体を媒質として内耳を刺激することで引き起こされる疑似昭和的音響体験であるだけでなく、むしろそれらすべてを包含する「箱」=映画館のなかで起きる極めて現代的な三次元空間的体験、スリィディメンショナルエクスペリエンスィズあると言ってよく、またそうであると理解されなければならない。観客はこの作品に対峙することで、映画的経験の絶対的脱構築、すなわちメタ映画的エクリチュールの領域に侵入する。ここで言う脱構築とは、デリダ的 différance の作用により、映画の意味体系、ヒーロー性の自己言及、爆発の多層的符号化が同時に解体され、主体はラカン的鏡像段階のパラドックスを体験することを意味する。
タローマンはヒーローでありながらヒーローではなく、ヒーローでないがゆえにヒーローであるという二重性の中で、観客はボードリヤール的シミュラークル、フーコー的権力/知のディスコース、デリダ的脱構造のトポロジーを同時に体験する。主体はスクリーンに立ち現れるが、その立現は自己脱中心化のリゾーム的プロセスによって揺らぎ、生成変化のフローに連続的に巻き込まれる。この巻き込みは、観客が時間、空間、存在の連続性を再解釈するための不可逆的操作である。
爆発は爆発そのものではなく、爆発することによって爆発しないことを爆発する。この逆説的イベントは、ドゥルーズ=ガタリ的リゾーム、ネグリ的マルチチュード、バタイユ的エネルギー過剰の同時発現として読むことができる。岡本太郎の叫び「芸術は爆発だ」は、自己解体的パフォーマティヴィティの言語化であり、ハイパーリアリティとしての爆発を示し、観客の認知的アジェンダを攪乱する。爆発を見ることは、爆発を見ないことの経験であり、経験することが非経験であるというメタ経験を通じ、観客は生成的知覚の非線形性に没入する。
映像表現は、昭和特撮的チープさとポストプロダクション的デジタル編集技法の交錯として機能する。この混淆は単なるノスタルジーの再現ではなく、ボードリヤール的ハイパーリアリティとして、擬似アウラの多重的再現を観客に強制する。懐古的感受は、アウラの失効を前提とした再構成であり、観客はシミュラークルと自己認識の二重構造に巻き込まれる。時間と記憶の再符号化、ノスタルジーのメタレベル再生産、アウラの二重化、そして擬似的体験の生成的連鎖が同時進行し、観客は主体的認知の揺らぎを体験する。
岡本太郎の言語は、意味の自己消失、言説の脱符号化、沈黙化パフォーマティヴィティとして機能する。フーコー的知/権力の逆転、ラカン的大文字の他者の欠如、ベンヤミン的アウラ消失が同時に作用し、観客は言語と意味の境界の揺らぎを体験する。言葉が意味を喪失する瞬間、観客は理解の不可能性の頂点に触れると同時に、その不可能性を通じて意味を経験するという逆説的体験を獲得する。
映画である/映画でない、理解できる/理解できない、爆発する/爆発しない、という二項対立は、メタ認知的脱構築によりすべて無効化される。観客は生成変化のリゾームに放り込まれ、主体性の脱中心化を体験する。時間は非直線的に再構成され、過去・現在・未来は生成変化のフローの中で同時存在し、観客は生成流入に没入することで没入していないことを認識する。二重認識構造、時間非線形性、リゾーム的主体揺らぎが重層化され、タローマン的体験の多層的深度を形成する。
この構造は無限に自己反復する。ヒーロー性の差延、爆発の不可能性、映画である/映画でないという逆説が、デリダ的 différance、ボードリヤール的ハイパーリアリティ、ドゥルーズ=ガタリ的リゾーム、ネグリ的マルチチュード、バタイユ的エネルギー過剰の多重的交錯として観客の認知と感覚を圧倒する。主体の揺らぎ、言語の沈黙化、意味の脱符号化、非線形時間、生成変化、二重認識、擬似アウラ、自己解体的パフォーマティヴィティ……すべてが観客の経験の領域を無限に拡張する。
観客は理解することの不可能性を理解し、理解不可能性を理解することこそ理解であるという逆説的体験に巻き込まれる。主体性の揺らぎ、言語の自己解体、爆発の逆説、非線形時間、擬似アウラの多重構造が、観客をタローマンの永遠に撃ち抜く体験へ導く。この映画は、理解の不可能性、意味の自己喪失、時間の非直線性、主体の脱中心化を重層的に展開することによって、観客にタローマン的逆説の極致を体験させる装置である。
最終的に、『大長編 タローマン 万博大爆発』は、映画であることをやめることで映画となり、ヒーローであることをやめることでヒーローとなり、爆発しないことで爆発するという逆説的生成を無限に繰り返す、タローマン的イベントそのものの顕現である。観客は生成変化のフローに没入することで、主体性、時間、認識を揺さぶられ、生成変化のリゾームの中で自己を再構築する。理解不可能性、意味の自己喪失、擬似アウラ、非線形時間、生成変化の多重構造、メタ映画的エクリチュール……観客は無限に揺らぎ、タローマンに撃ち抜かれることを余儀なくされる。
なんだこれは(良い意味) vs なんだこれは(¿?) vs ナンだコレは(インド料理)
電磁パワーは無敵
面白かった!長編化はやはり無理目か?
TV版や帰ってくれなどを事前に見て置くのは必須ですね。
それでもついていけないって意味では変わらないかもですが、小ネタ満載、ちゃんとブッ飛んでて楽しめました。
長時間用にストーリーをある程度整合性を持たざるを得ず、どうしてもでたらめばかりになっていなかったのが若干の悲しさ。
最終場面近くになってタローマンがまともになって余計な事をしない様に感じてしまった。
とはいえ縦軸無しで全てでたらめでは映画にならないだろうし、ここらへんが難しいところだな~と思いながら見てました。
ピアノ線やテグスをわざと強調するみたいに見せるとことか大好きです。
一瞬だったので自信ありませんが、未来から来たエランが風来坊と一緒に脳部ユニットを外してリラックスしている場面で、エランの脳に使われているのはスーパーI/Oの電話線ポートボード?(LANポート?)
こんなものを2025年現在で持っている人いるのかな?
秋葉の奥の奥のジャンクパーツ籠にも入っていないと思う。
見た瞬間に噴き出してしまいました。
こんな風に、分かる人だけに伝わる小ネタが他にも色々入っていて、気づいた人だけ笑えばいいと思ってやってるのかと思ったらニヤニヤしてしまいました。
もっと知識があって、色々気づけたら面白いだろうな。
公開翌日の8月23日(土曜)の夜に錦糸町で見ましたが、座席はほぼ満席。
後半は観客の皆さんから笑い声が出ていました。
同好の士がたくさんいることにホコホコでしたが、グッズが半分くらいしか売っていなかったのが悲しい。(鬼滅の刃コーナーが9割でした;;)
太郎汁の販売は本気でやって欲しいです。
岡本太郎万歳‼
芸術家・岡本太郎の思想と造形をベースに、NHK Eテレで話題を呼んだ「TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇」が、大長編として劇場公開 !とはいうものの、TVは未履修。
YouTubeの予告編や公開映像で、やられてしまった。
タローマンの行動は一見でたらめだが、そこには岡本太郎の「思想」が脈打っている し、奇獣たちは善悪を超越した存在として描かれ、タローマンとの衝突を通じ、芸術的理念そのものが炸裂してる!
映像は徹底して当時の雰囲気を模し、テレビサイズからシネスコまで画面比率を変え、画質の荒さや吹替処理も“あえて”取り入れているため、1970年代特撮の色や匂いが濃密に蘇り、当時を知る者としては、岡本太郎の名言や作品が奇獣として出現するたびに胸が高鳴ってしまいます。
けれど、岡本太郎を知らない観客には強烈すぎて厳しそう……
2025年=昭和100年というディストピア的未来を舞台に、“でたらめ”が解き放たれるまでの構図はユニーク。
特撮を愛する者、70年代万博を記憶する者、岡本太郎を敬愛する者にとって必見の一作かも。 岡本太郎、万歳!
TV版を観てから行きましょう
しっかりサブスクでTV版を予習してから行きました。これは必須です。
ネットでの事前学習も必要かもしれません。
主旨を理解しないで観ると「なんだこれは」となります。理解しててもなるけど。
上映館と上映回数が少なすぎて困りましたが、そのせいか劇場は満席に近い入り。
子供向け風に作られた大人向け映画だと思ってましたが、親子連れも多く、劇場入口で上映前から小さな子供が「爆発だ~爆発だ~」と主題歌を歌っていたので、子供は子供で楽しめる作品なんですね。
内容は、TV版をしっかりスケールアップしており、わざわざ大スクリーンでチープな映像を観るでたらめさが楽しめます。
映画である事、昭和100年に発掘された1970年頃の作品という設定、実在する岡本太郎作品を全部奇獣にしてしまう、ウルトラマンなどでありそうな展開になりそうで敢えてデタラメな展開になる等、メタ的なネタがメインとなるので、その点を理解せずに観ると訳がわからないでしょう。
最後の敵を倒す前の展開は胸熱でエモいし、でたらめだ。
上映後にはパンフレットの購入をお勧めします。というかパンフレットも読んで完成する作品です。今後サブスクで公開されてもパンフが無ければ楽しさ半減です。
奇獣の元ネタやキャラ説明もあるし、次回は「とびだしめがね」持参で観たいと思うし、3回は観ないとかな、という気分になる。タローマンの中の人の正体とか、最後に集まった彼らの事とか。
パンフは売り場の展示品が無くなりがちでしたが、レジ奥にストックがありました。
ガチな低予算で監督が死にそうになりながら作った、べらぼうででたらめな映画。くだらなさを面白いと思える、マイナスに飛び込める人にだけ刺さる映画でした。今まで不気味で別に好きでもなかった岡本太郎作品に妙に愛着を感じる様になりました。
爆発だ
なんだこれは
乗り切れず全く楽しめず・・・
ネット動画とかテレビで見れば─、もともとテレビとかで見ていてそこから劇場に来たのならば─、楽しめたのかも。
設定とか結構しっかりあるので、それを少しでも把握して楽しまなければ、何だこれは!となる気がします。とはいえ、知ってても、内容は良く言えばかなり自由、はっきり言ってめちゃくちゃなので、乗っかれなければ、なんかただ画面を見ているような感覚─それはそれで楽しそうな作品かもといざ見に来たけれど、デカイ画面で見るようなものでも・・・と思っちゃいました。
にしても山口一郎が語っているのもアレなんでしょうから、ちゃんとソレと分かるような印みたいなものも必要な気がしました。あったのかな?気がつかなかっただけ?
口コミで広めたい 広まって欲しい
「普通じゃ ないな」
面白かったが、故に低評価です
面白く最後まで見てしまったが故に低評価です
タローマンをがちゃんと映画になってますし、昭和パロディのコメディとして、特撮番組として、よかったです。
しかし、それ故に計算された出鱈目が目につき、小さくまとまってしまい、タローマンがべらぼうではない、岡本太郎的ではない感じがしてしまいました。
後になって思い返せば、タローマンという番組が好かれて駄目になったようでもあり、うまくあるな綺麗であるな心地よくあるなの言葉どおりでもあり、岡本太郎の言葉を伝える存在としては良いのではないかとも思え、なかなかに難しいものだと感じています。
とはいえ、昭和特撮ファンやお子様にはお勧めです。岡本太郎の作品に何かを感じる方は一見の上、良いも悪いも感じるままに感じればいいんだと思います
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