おーい、応為のレビュー・感想・評価
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砂糖と塩を描き分けろ!
意外と長澤まさみが応為役にハマるのではないかと自家アンテナが判断して観たが、美人は美人でも顔が濃くて江戸情緒にはそぐわなかった。物憂げな表情で汚部屋に居るのもしっくりこない。ただ、面相筆を立てて描く指使いは綺麗で、気風がよく、啖呵を切る姿は想像通りだった。
疑問なのは、父娘の絵を褒める人間がひとりも出てこないと言うこと。二人を称賛した“世間側”が全く描かれず、カメラが追うのは小汚い部屋で『描く、食う、寝る』だけ。父の弟子であっても、懇切丁寧に技を伝授されることなく、同じ空間に居るだけだから、見習いの料理人のように味を盗むしかなく、もし応為に天賦の才が無かったらパシリで終わってしまっただろう。
私自身の仕事柄、“親子共に画家”であるお宅に伺う機会があるが、よく見聞きするのは、尊敬し合う親子関係ではなく、えげつない妬心や辛辣な批評である。だから、映画の父娘が本音をぶつけ合う会話が愉しくて仕方がない。隣家の火事シーンで類焼が避けられないと悟ったふたりが『要らねえな』と言い合い、アッサリ家を捨ててしまう場面は特に興味深かかった。
また、応為が北斎のゴーストライターであるとする話が在るが、敢えてそれは無粋であると言いたい。父娘分業、共同作業でよいではないか。芭蕉にしてもその著作は殆ど弟子によるものなのだから。
ストーリーに起伏は無く、俗衆の中に埋もれている世捨て人父娘の日常が淡々とつづられる。飼い犬の死、妹お猶の死、弟子善次郎の死、行き倒れの屍を尻目にフラフラになりながら行き交う過酷な富士山詣でが描かれたりする。そして昇天する黒い龍を描き終え、うっ伏したまま絶命した北斎のコロリ往生。
まったく動揺すること無く、こざっぱりとした着物姿で劇中初めて“正座”する姿を見せる応為。その凛とした佇まいは美しいが、心には“無常観”しか宿っていないかのごとく眼差しは虚ろなままだ。
表題の『砂糖と塩』画家を志す者に対する象徴的な命題。美大の受験科目によく出るヤツです。
追記
隠棲している父娘のやり取りをいったい誰が記録したのか? 多くは弟子達の口伝なのだろうが、あやしいエピソードがいっぱいある。応為の、吉原取材などは後付けだろう。“中で働く”ならともかく、女子が大門をくぐって見学する自由はないはず。また、北斎絶命のシーンも出来過ぎだ。水に映った月を掬おうとして溺れたと伝わる詩人の李白の例もしかり。まあ、そのような噺はあまた存在するのだが……
【朗報】長澤まさみ様、更に演技の幅を拡げてしまう。あまり知られていない父と娘の絆を描いた良作時代劇。
自分は演者の力量を量る指標のひとつに「キレ芸」の良し悪しで判断していますが、冒頭の出戻ってきた長澤まさみ様のキレ芸のキレ味があまりよろしくないのです。あれれ~、おかしいぞ~(by江戸川コナン)と思ったのですが、実はこれが後半につながる伏線だったのです。
葛飾北斎の人となりはWikipediaでも詳しく説明されているので、ここで説明する必要はないですが、娘であり弟子でもある「お栄」については出自も不確かな部分が多く、作品として確かな物もエンドロールで一点だけ紹介されているくらいです。
で、主役のお栄を演じる長澤まさみ様ですが、着物は裾が短い着流しで男のように兵児帯を腰骨で結んでいます。一人称も「俺」で話し方もべらんめえ口調ですが、絵を描くために筆を執る指先や時々アップになる表情が実に色っぽい!
全体的に大きなヤマもオチもなく、ただ淡々と普段の父娘関係が綴られていきますが、他の作品だったら絶対に睡魔に襲われているはずなのに、美しいカメラワークと時代劇には合わないはずのジャズ調の挿入曲のおかげで、どんどん目が離せなく没入する事が出来ました。
卒寿で天寿を全うした葛飾北斎ですが、一生の中で九十回以上引っ越しを繰り返したのは有名な話で、江戸市中だけでなく霊峰富士の麓のあばら家で父と娘で暮らしたりもします。ここで北斎は自分の死期が近い事を悟り、お栄に自分のような老いぼれに構わず好きなことをやるために江戸に戻る事を勧めます。
ここで冒頭の伏線を回収する長澤まさみ様の見事なキレ芸が発動、「自分は自分のやりたいように生きているんだ、それはあんたと一緒に暮らして絵を描くこともそうなんだ」と泣きじゃくりながら心中を吐露するのです。つまり冒頭の弱めのキレ芸は出戻りの自分に対する呵責と、父を慕ってのキレ具合という事になります。
江戸市中に戻ってきた二人ですが、北斎は飼い犬のさくらの死や弟子の善次郎に先立たれたことによって、自分の生きている間は創作意欲を絶やさず作画に取り組むようになっていきます。ここで二人は今までの割長屋から少し大きめの屋敷で暮らすようになります。
お栄の出戻りから二十九年、白髪が目立つ歳になったお栄は相変わらず北斎の世話をしていますが、「飯はどうする?」と問いかけても北斎の返事がない事で様子を見に行くと、富士の麓で暮らしていた時の情景を描いた「富士越龍図」の前で事切れていたという、世界にも通じる稀代の浮世絵師の最期の描き方としては最適解だと思います。
余談ですが、東京テアトルの作品はスクリーンの縦横比がワイドではない(この作品では6:9位か)作品が多いのですが、意外とこの部分が大事で時代劇としての信憑性を増すことに繋がっていると思います。
良い感じ
父と娘の
何が悪いってんじゃないけど、さすがに退屈
特に大きな事件があるじゃなし、ドラマティックな展開がある訳でもない、静かな物語、でも考えさせられるものが散りばめられてて、深い。と言う映画が大好きです。欧州なんですよね、その手のヤツ。
コレも、その路線だとは思うんですが、大森監督なんです。テーマは、大森監督得意の家族・親子のアルバム、っていうか歴史みたいなやつ。
過剰演出なしで静かに淡々と物語は進みます。が、伏線的なものはしっかり残して回収。北斎娘の内心の変化を暗に示唆してくれます。
なんですが、なんか詰まらない。
長澤まさみさん、永島敏行さんの芝居には何の文句も有りません。画家生活のリアル過ぎる描写も面白いと思います。画も綺麗です。
でも、ホンマに退屈なんです。
イヤイヤあれですかね。
画家としての素晴らしさや、作品の持つ力、をおそらく意図的に不描写で行ったんだと思うんですが。そこは一定の描写が有ったほうが、北斎親子への共感を引き出す、つまりは親子の関係や運命への興味を引き出すんで、そうした方が良かったのではないかと。
「アンタの死に水は私が」と言う決め台詞も唐突に見えて。
大森監督+長澤まさみは、マザーがすごく良かったので期待してたので、肩透かし食らった気分です。
気を取り直して、次行こ!
北斎の晩年
全くピンと来ない映画
葛飾北斎は2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女をもうけている。お栄は三女で、兄妹の中で唯一父と同じ画業に進み、一度は嫁ぎながら出戻って、北斎の晩年の 20 年ほどを一緒に暮らしている。お栄を主人公にしながら、この映画はほぼ北斎の晩年に焦点を当ててあり、史実をなぞるような描き方をしているが、かなりのフィクションを盛り込んでいる。
北斎は生前から高名な絵師で、あちこちの大名や豪商の招きを受けて旅先で大作を残しており、謝礼もかなり高額だったが、金銭に無頓着だったため、貧しい生活をしていたとされている。北斎もお栄も食事の支度を一切せず、出前で食事をして済ませていたらしい。転居癖もあって、火事の多い江戸に住みながらずっと家が焼けることはなかったが、遂に大火に巻き込まれて焼け出されてしまったようだ。
お栄が離縁されて出戻るところから物語は始まるが、相手の素性や出戻った時の北斎の暮らしぶりなどは何の説明もなく、かなり唐突に物語の世界に連れて行かれる。音楽がジャズ風なのが非常に違和感を覚えた。いくら貧乏暮らしといっても、寝起きするにも窮屈そうな狭い家では、マトモに絵など描く仕事場には使えそうにない。まず、その辺から釈然としない想いに駆られた。
お栄の容姿について、北斎は自分に似て顎が飛び出てエラが張っていると書いているので、決して美人ではなかったと思われるが、長澤まさみはその点ミスキャストではなかったかと思う。お栄は多くの美人画を残しており、北斎も美人画はお栄に負けてると書いているので、コンプレックスの裏返しではなかったかと思うのだが、長澤まさみではそのモチベーションは出せないはずである。
それにしても、お栄は北斎の描く春画の色塗りまで手伝っていたというのだから、想像を絶する親子関係だったのではと興味は尽きないが、この映画ではあまり深掘りはしていない。北斎はやたらお栄を邪険に扱うが、他人には感謝していると伝えているようである。これは古来の日本の男の悪癖で、当人に向かってちゃんと感謝が言えないという悪しき伝統である。
物語は淡々と進められ、ほとんど起伏がない。盲目の弟というフィクションを加えたため、会いにも行かない北斎は非常に冷酷な人間という誤解を与えている。北斎の凄さは時々その絵画を見せて示しているが、絵が上手くなるためには何だってするというハングリーさを描けていなかったように感じた。せめて、火事で折角の作品が燃えてしまうシーンがあればとも思った。
2021 年の映画「HOKUSAI」も同様で、一体何が描きたかったのかと戸惑わせられたが、払拭してくれるかと期待した本作も、残念な出来だった。手持ちのカメラで撮影したために揺れ続けるシーンの意味が分からなかったし、逆光のシーンは黒が薄くて素人臭かったし、音楽だけがやたら現代的だったのにはどんな意味があったのだろう?肩透かしを食らった映画だった。
(映像3+脚本2+役者3+音楽1+演出2)×4= 44 点。
正直、長かったなー。途中で「まだ終わらないのかな」と思ってしまうく...
正直、長かったなー。途中で「まだ終わらないのかな」と思ってしまうくらい。演技の見応えも話の展開も単調で、ずっと同じ調子が続いていた感じだった。
長澤まさみは、うまい下手というより“現代っぽさ”が抜けきれていないというか、風景や時代の空気に溶け込んでいなかった。
なんだか彼女だけ違う場所に立っているようで、物語の中に入り込めなかった。感情の起伏もうまく伝わってこなくて、少し上滑りしているように見えた。
その一方で、寺島しのぶは出番こそ少なかったけど、短い時間でも心に残る演技だった。自然に引き込まれる感じで、やっぱりうまいなーと思った。
応為の物語として見ると物足りなさが残るけど、北斎の話として見れば、それなりに楽しめた気もする。予告編の印象そのままで、特別良くも悪くもなく、「予告以上でも以下でもない」って感じだった。
長澤まさみだからあまり期待していなかったけど、そのままの結果だった、というのが正直なところ。
師弟の絆、父娘の絆、絵師の絆が深く描かれる
プロデュース失敗?
観たあと、絵が恋しくなる映画
長澤まさみオンステージ
北斎の娘にして弟子であり、一般的には無名だった凄腕の女絵師という強烈な事実は、否応なしに映画的なキャラクターのインスピレーションを掻き立てられた。
しかし、この映画は完全に長澤まさみトリビュートの当て書きなんだろうなぁ。
彼女の存在感は、いくらべらんめぇの乱暴な口調であっても、隠しようもなく爽やか過ぎる。
天才絵師の身内でありながら女性ゆえに表舞台には出られなかっただろうという日陰の屈折を滲ませるには、長澤まさみではないのかもしれない。
若い頃の安藤サクラのイメージかなぁ・・・あるいは今なら、岸井ゆきのなのか?
ともあれ、永瀬正敏は本当に適役だった。良い俳優ですな。それで全体が締まった感じがする。
ただしこちらも、北斎の名声と狂気、栄華と没落をもっと描いても良いかもしれない。そのためには版元やタニマチや大衆といったキャラクターの拡がりが必要だったように思う。ちょっと出てきたのは、襖絵を依頼した某藩だけだもの。
製作として。全体に青みがかった撮影と色彩調整は好ましい。1週間たって振り返っても、その青みの中に浮かぶ永瀬の老いた顔と長澤の白い顔が印象深く甦る。
ただ‼️❓見惚れていた‼️❓
「良し悪し」ではなく「好き嫌い」で感じる大森立嗣監督作品
大森立嗣監督作品に対する印象について思い起こすと、いわゆる“大森立嗣印(じるし)”と表現できるような独自な世界観があって、感想を聞かれた場合の回答は「良し悪し」という基準より「好き嫌い」の方が合っているような気がします。敢えて言えば、面倒なことに作品毎に好きか嫌いかは「観てみないと判らない」という点。「どっちに出るか?」と期待と不安が半々に公開初日のTOHOシネマズ日比谷へ行ってまいりました。
今作は1820年から始まる江戸時代後期が舞台の時代劇。葛飾北斎/鉄蔵(永瀬正敏)の娘で葛飾応為/お栄(長澤まさみ)が本作の主役です。始まって早々、夫である南沢等明に三下り半を渡して離縁をし、手土産の草餅を片手に北斎の元へ出戻って居候を決め込むお栄。嫁ぎ先を去る際の決定打は「(等明の描く)下手な絵を見ていることに耐えられない」と言うだけのことはあり、元々北斎からの信頼も厚いお栄の絵の才能は本作品中にも実際、“応為の作品”が引用されていてその美しさに納得度が高まります。竹を割ったような性格のわりに、いざ自分のこととなると不器用なお栄は“人付き合い”を煩わしいと感じ、再び筆を取って父に付き“絵の道”に精進する決意をします。
本作が時代劇映画初主演となる長澤まさみさん。流石に独特な台詞回しについてはややおぼつかなさも感じますが、さすがに雰囲気は相当にあって“存在感”と言う意味では堂々と感じます。勿論、お栄と重要に絡んでくる篠井英介さん(元吉)や寺島しのぶさん(こと/お栄の母)など、信頼度の高い共演者の存在も大きいと思います。
また、何と言っても本作におけるお栄/応為のタッグパートナー、父娘であり師弟関係である鉄蔵/北斎を演じる永瀬正敏さんが“裏切らず”どころか“また超えてくる”レベルで凄いです。本作では“(亡くなる)90歳の北斎”までを演じられますが、それぞれの年代を演じ分ける特殊メイクも違和感を感じないほどにおどろおどろしく、その北斎に付き添い続けるお栄の覚悟も自ずと伝わってきます。
そして、演じられる姿は初見でしたが、渓斎英泉/善次郎を演じた髙橋海人さんも「意外」と言っては失礼なのかもしれませんが、かなり頑張っておられたと思います。長澤さんや永瀬さんとの会話シーンにおける“間の取り方”は危なげないばかりかむしろ堂に入っており、聴いていて違和感を全く感じずに気持ちよく耳に入ってきます。今後も機会があれば是非“時代劇”挑戦してもらいたい気がしました。
そして、前述にて“草餅”について触れましたが、全般を通して飲食シーンが多いのも本作の見どころ。蕎麦や飯、あられ、金平糖、羊羹等々、会話シーンでも容赦なく食べ続けています。絵に対する追求は生きることが根本。そのため、北斎自身も描いているとき以外は“食べる”“寝る”が重要であり、そのことも北斎の長寿につながっています。
その他、所々に「クスッ」とするようなユーモアもあって楽しく、歴史観的にも見応え充分。今回の大森作品、私としては「好き」と言う結論で締めくくりたいと思います。
これ長澤まさみじゃなくてもよくないか
歴史に隠れた名絵師
男前な長澤まさみと、絵師に憑依した永瀬正敏
着流し・へこ帯・裸足の長澤まさみ・・・匂い立つ色気
葛飾北斎の娘・葛飾応為は究極のファザコン、だったのではなかったの
でしょうか?
晩年・中風のため身体の不自由な北斎から、自分の死後、どうする?と
案じられて、
【どうもしねえーよー】と、ベラんめー口調で答える。
しかし応為は同時に、江戸へ帰ったら北斎から離れて
「好きに生きろ‼️」とも諭される。
その時の応為の態度は予想外に激しい。
非常に腹を立てて、
「ずうっと好きに生きている。一緒に居たいから居るのだ」
と観客の私も面食らうほどの怒りで。
応為は父親・北斎を非常に尊敬していて、仕事のサポートに命懸けで
望んでいるのだと、知る訳です。
言わずもがなですが、永瀬正敏の葛飾北斎がもう絶品です。
紹介によると3万点の作品を描き仕事中毒、
晩年に「猫ひとつちゃんと描けない」とこぼすほど、満足を知らない。
また北斎は引っ越し魔で93回引っ越したと記録にあります。
映画の中でも3回ほど荷車を押して引っ越す様子が描かれる。
正直言って、そんなにストーリーに起伏が無く、笑えるシーン、
泣けるシーンもほとんど無い映画です。
画面も暗く、住まいの長屋は万年床を押しのけて隙間で父親・娘が
寝そべって絵筆を走らせています。
灯りは蝋燭一本。
実際に自然光で撮影したそうです。
しかしながら永瀬正敏と長澤まさみは見応えありましたね。
1820(北斎51歳)から1849年5月10日(北斎90歳)に亡くなるまでの
晩年の北斎と応為が描かれていますが、
1938年頃に小布施(長野県)に制作旅行に行き、帰って来た日の
ボロボロに疲れ果てた姿、
後ろ姿の痩せ衰え両足が曲がってO脚になる様子、晩年のハゲ頭の姿。
特殊メイクも凄くて永瀬正敏さんは見せ場と見所の宝庫でした。
応為に話しを戻せば、作品は数十点とのこと。
でも葛飾応為画集が出版されています。
映画の中でも、吉原に出向いて、格子戸越しに遊女が客に声を掛けたり
三味線を弾いたりする様子を見ているシーンがあります。
「吉原格子先之図」で、
このシーンは浮世絵になっていて、映画の中でも披露されていますが、
色調(暗い赤色をベース)、構図、格子戸の内と外が平面で描かれて、
非常に現代的なイラストのようなポスター画のようです。
応為の才能がひしひしと伝わります。
北斎が「富士越龍図」を描きながら事切れる(死ぬ)シーンは事実か
知らないけれど壮絶な死に様。
筆を指から離すのに至難する応為。
その後、
北斎の葬式を立派にあげた応為は猫のように姿を消したようです。
生没年不詳の女絵師。
葛飾北斎の娘。
ミステリアスな応為を、
長澤まさみが生きているように演じて
とても美しい凛々しい姿でした。
応為の絵に呼応するかのような画面作りに酔いしれて!
男前が過ぎる!
導入直後の歩く姿、キセルを吹かす姿、両手にお椀を持って飯を食う姿、どこから見ても無骨な輩にしか見えない長澤まさみさんに心底驚きました。
ところが鏡を前にして髪を結うシーンで急速に女性らしさが増していきます。
たおやかな雰囲気はないものの、その後も何処か中性的な魅力を放ち続け、葛飾応為という難しい役どころを見事に演じ切っておりました。
やはり、とんでもない女優さんです。
また、それ以上に本作で度肝を抜かれたのが徹底した光の使い方。
殆どのシーンが自然光のみの撮影という凄さ!
外の光に調光を合わせ、役者の顔が影になろうがお構いなし。
無粋な照明で画面全体を満遍なく照らし出すなんて事は一切していません。
まるで劇中に出てきた応為の絵に呼応するかのような光の演出にただただ酔いしれてしまいました。
応為という多くを知られていない絵師の魅力を光の演出で伝えようとする本作。
台詞ではなく映像で応為という絵師に浸れる2時間でした。
全288件中、261~280件目を表示












