「芸術家のカタログ」おーい、応為 あんのういもさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術家のカタログ
「おーい、応為」。言わずと知れた天才画家、葛飾北斎。その娘、葛飾応為。北斎が死を迎えるその日まで、様々なことでぶつかり合いながらも、生活を共にした。二人の日々を描いた映画。
この映画では、北斎と応為は対照的に描かれる。それは、人としても、画家としても。北斎は家にこもりきって、常に絵を描きつづける。対して応為は外に出て、気の向くままにふらふら歩き回り、ほとんど絵を描かない。二人を対象的に描くことで、そこに二つの芸術家像が現れる。実際、芸術家を二分しようとすると、この点で分けることが多い。映画の中には、ほかにも多くの画家たちが描かれる。売れっ子になる者や、道半ばで描くことをやめてしまう者、そして、描かれもしなかった、有象無象の画家たち。創作スタイルや生き方は画家の数だけある。これらを皮切りに、私はこの映画に、「芸術家の生態描写」を見出した。
それを最も強く感じたのは、応為が突如絵を描き始めるシーン。ではなく、その直前。それは祭りの夜、応為が気になっていた男性に、「妹のようだ」と、言われたシーンである。応為はその言葉を、「異性として、女として見ていない。」と、解釈したのだろう。そして、そのやりとりの直後、体感時間一分間以上の沈黙がつづく。それはもちろん、その情景描写や、心理描写のための間であることは間違いない。しかし、それだけではない。今思えば、「このシーンが、この映画の最も重要なシーンである。」と、製作陣が訴えかけてきているようにさえ感じた。そして応為は、翌日から人が変わったように、絵を描き始める。それは、フラれたことによるショックや、自暴自棄によるヤケクソの類ではない。
画家をはじめとする芸術家が、創作を行う際に必要なことは、大きく二つある。一つめは「孤独」である。これは常日頃から感じつづけている。そこに、二つめの「喪失」という名の起爆剤が重なると、大爆発を起こし、創作が動き出す。火とガソリンのようなものだろうか。これこそが、芸術家の重要な生態である。この映画は、この点を非常にわかりやすく描写している。
少し話が脱線するが、「芸術家は頭がおかしい」「気が狂っている」と、言われることがよくある。その原因のひとつは、前述した孤独と喪失。ある日、偶然この二つが重なったときに、「創作がうまくいく」と、気がつく。それに味をしめると、自ら孤独と喪失を求めるようになる。ついには、歯止めが効かなくなり、自ら追い詰められにいってしまう。その後は、容易に想像できるだろう。
話を映画に戻す。この映画は重要なシーンにおいて、必ず長い間をおく。それは昨今の映画とは、比べ物にならないほど長い。対して日々の生活のシーンはテンポがよい。それは引越しのシーンが多く、印象的に描かれいることに起因しているだろう。また、テンポの良さを感じる理由のひとつに、音楽がある。大友良英のキャッチーで、耳にのこる音楽。これを、それぞれのシーンと対応させることでパターン化され、映画全体が、音楽形式のように形作られている。繰り返しのシーンが多いこの映画では、実に効果的に使われている。場面の転換や、間と日々の生活の効果的な対比に、間違いなく音楽が一役買っている。しかし映画終盤、北斎の死が近づくにつれて、心理描写が増え、間が多く続く。中盤までテンポが良かっただけに、終盤は少しダレて、間延びしている感じは否めない。
最後に、私がこの映画で、最も評価しているのは、配役である。応為を演じた、長澤まさみ。北斎を演じた、永瀬正敏。この配役を決めた時点で、映画自体が失敗する可能性は、皆無に等しかっただろう。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。
