「ラストシーンの魂の顔演技に驚愕。叙述的な仕掛けも備えた深みのある「ノワール」映画。」ストレンジ・ダーリン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストシーンの魂の顔演技に驚愕。叙述的な仕掛けも備えた深みのある「ノワール」映画。
総じて面白かったけど、個人的には冒頭の「第三章」の時点で、ネタの核心部分にほぼほぼ確信が持ててしまっていたので、そこの「びっくり」は正直あまりありませんでした。なんか、すれっからしですみません。
ただ、こういう叙述的な仕掛けや「意外な犯人」に関して、自分が気づいてしまったからといって、点数を落として評価するのはとてもアンフェアだとつねづね思っているので、ここは「その心意気や良し」ということで、大いに称揚したいと思う。
一定数の「きちんと騙された」良い観客がいて、彼らが「きちんとびっくりしてくれた」のであれば、この映画は作品としてもネタとしても成功なのだし、「気づいてしまった」側の人間が徒に評価を下げて、とやかく言う筋合いの話では全くないのだから。
おそらく誰が読んでもそのネタには気づかないのではないか? といった『十角館の殺人』(綾辻行人)のような稀有な例もないでもないが、たいていの作品の場合、早い段階で真相に気づいてしまうダメなマニアもいれば、純粋にどんでん返しや「意外な犯人」に気づくことなく作品を満喫できる多数派もいて、どちらかだけということはまずない。
あまりにバレバレすぎる場合は多少は文句をつけた方がいいかもしれないが、しっかり考えられた痕跡がある場合は、僕はたとえ自分は真相に早い段階で気づいても、「たくらみの存在」だけで高評価をつけることにしている。
そもそもミステリの場合は、きちんと伏線がはってあればあるほど、それだけ客が真相にたどり着けてしまう可能性は高まって来る。それがミステリにおけるフェアプレイの鉄則だ。
『ストレンジ・ダーリン』の場合は、きちんと小道具の伏線や行動の違和を序盤からみっちり練り込んであるぶん、気づいてしまう観客はどうしても出てしまうと思う。
むしろ、映画との「出逢い方」が、多少「不幸」だった気がしないでもない。
封切り映画として、前宣伝で「シャッフル」とか「予測不能」とかいった要素を強調されただけで、ある程度この手のジャンルが好きなファンとしては、「仕掛け」の存在とその内容の可能性について事前にどうしても考えてしまうし、そのなかからは一定数の「ネタの当たりがついてしまう人間」も出てきてしまうからだ。
同じ映画を、いきなりつけっぱなしのWOWOWとかから流れてきた状態で、タイトルすらわからないまま予備知識ゼロで観たとしたら、ものの見事に引っかかって仰天して、周り中に隠れた傑作だと喧伝して回った未来線もあったかもしれない。
そう思うと、「気づいてしまった」自分と、その視聴環境に残念な想いは少しある。
自分自身、学生時代にマジックサークルに所属して「演じる」側にいたこともあって、この手の映画ではむしろ「綺麗に騙されてあげられる」観客で居たいと思うし、それが演者(作家・監督)と観客(読者)の関係性でいえば、一番ウィンウィンの在り方なのは間違いないのだ。
きれいに騙され、きれいに驚き、そのあとのトリック解説をきちんと理解したうえで、きれいに感心できる。こういう「上品な読者(観客)」に、僕はなりたい(笑)。
一方で、ミステリを宣伝するのはとても難しい行為だ。
宣伝するときに「仕掛けがある」こと、「意外である」ことを織り込まないと、いちばん喜んでくれるお客さんを逃すことになるからだ。
よほど隠蔽工作に自信がない限り、本当は「どんでん返し」とか「意外な結末」といった煽りは入れないに越したことはなく(とにかく予備知識ゼロの無防備な状態で体験するのがいちばんなんだし)、ネタがバレたらみんなが不幸になるだけなのだが、そこに事前告知で触れないと、そもそも客が作品を手に取ってくれない。
このジレンマについても痛いほどによくわかるので、あまり映画会社を責める気にもならない。でも、やっぱり「宣伝でああいわれちゃうと」「ネタは消去法でこれしかないよな」とは思っちゃう(笑)。
― ― ― ―
蓋を開けて見れば、この話は『恐怖のメロディ』(71年、クリント・イーストウッド監督)や『危険な情事』(87年、エイドリアン・ライン監督、マイケル・ダグラス×グレン・クローズ)の流れを正統に受け継ぐ「恐怖のワンナイト・アフェア」「女はこわいぜ」系のスリラーだったわけだが、叙述的な仕掛けは抜きにして純粋にその手の映画として考えてみても、本作の完成度は結構高い気がする。
ジャンル映画らしいローコストな雰囲気はぬぐい切れないにせよ、とくに女優さんの大熱演のおかげで、この手の映画にありがちなチープさは感じられないし、なにより35ミリフィルムによる昔ながらの撮影ということもあって、映画としての「品格」がどこかしら保たれている。
何より素晴らしかったのは、ラストシーン。
最近、なにかですごく似たような演出を観た記憶があるなと思って脳内検索したら、『PERFECT DAYS』の役所広司でした(笑)。
今回のヒロイン役を務めたウィラ・フィッツジェラルドの迫真の顔演技は、しょうじき役所広司に全然負けていないどころか、いささか上回っているかもしれない。思わず息を殺して見入ってしまったよ。
いわゆる「ネタ明かし」が前の章で終わって、あとの時間で何やるつもりなんだろう? と思ってたら、これがやりたくてダラダラ引き伸ばしてたのね。
自分のなかにも悪魔を観てしまったおののき。
命が次第に喪われて、魂の抜けていく感覚。
だんだん近づいてくる死に対する恐怖心。
自分でも抑制の利かない悪行三昧に、
ようやく終止符を打てる解放感。
やがてとぎれる意識と感情。
活動をとめる生命機関。
力を喪う眼差し。
停まる呼吸。
断末魔。
息の詰まるような「悪の終焉」を、がっつり相手に目線を合わされた状態で凝視し続けることになるこのラストシーンこそ、本作において監督が「本当にやりたかったこと」だと言っていい。
叙述トリックは、仕掛けの一端に過ぎない。
この物語は、本質的には犯罪者が魂を燃やし尽くし、やがて滅び去るまでを注視しつづける筋金入りの「ノワール」であり、イーストウッド的な「女性恐怖」映画の体裁を取りながら、その実「フェミニズム的視線」をも備えた「女性映画」でもあるのだ。
エレクトリック・レディに「はまって」身を亡ぼす官憲というのは、まさに『カルメン』や『情婦マノン』と同じ、「ファム・ファタルに運命をくるわされた男」の典型例であり、いったん気づいてみれば、これほどノワールらしいノワール映画もない気もする。
― ― ― ―
●章タイトルが出て、音楽(ショパンのノクターン第1番変ロ短調)が流れるつくりは、昔の無声映画などを模している可能性もあるが、同じ趣向は『スティング』(73)などでも観られる。
各章の語られる「順序」に大きなポイントがあるという意味では、『メメント』(00)に代表されるクリストファー・ノーランの時系列シャッフル映画がまずは想起されるけれども、純粋に叙述トリックを仕掛けるためにシャッフルが用いられているという点では、どちらかといえば60年代アメリカにおけるニューロティック・スリラーや、00年代以降日本の新本格作家によって盛んに執筆された「時系列錯誤系」叙述ミステリなどの小説群に近いもののような気がする。
●ライフルを持った男に追われている割に、森で拾ったタバコや酒を嗜みながら休憩をとる様子とか、明らかにもともと着ていたとは思えない真っ赤な手術着のような変なファッションを身にまとっているとか、出だしの第三章からすでに「そこはかとない違和感」が立ち込めている。
要するに、彼女がまっとうな「被害者」ではない可能性の気配は、別段隠すことなく最初から漂っているのだ。
●ベッドにおける女と男の虚々実々の駆け引きは、「性暴力は男の意思のもと無理やり実行される」という先入観を基底に置きつつ、その「常識」を徐々に揺るがしていくというスリリングな作りになっている。
ウィグや手錠、小銃、コカイン、スタンガン、熊撃退スプレーといった小道具の出し入れも巧みで、脚本としてかなり練り込まれている印象。
男が女側の過激な提案に乗って、「これでいいのかな?」と探り探り進行しているなかで、少し図に乗った瞬間に相手に素に返られて「それは求めてない」とダメ出しされるのは、SMでなくても大いにありうるシチュエーションなわけで、かなり「プレイ」としては生々しい。基本、男性はよほどの自己中キャラでないかぎり、「そこはダメ」とか「やめて」という言葉にいつもおびえながら、ことに及んでいるとは思うんですよね(笑)。
●独特の色彩設定とクセの強いアングルの選択は、監督および撮影監督の美意識の一端を示す。パンフレットによれば、監督は大のベルイマン&フェリーニの信奉者で、監督と撮影監督は準備段階でブライアン・デ・パルマ、デイヴィッド・クローネンバーグ、デイヴィッド・リンチの映画を丹念に研究したらしい。プロダクト・デザイナーに対しては、リンチの『ブルーベルベット』(86)とヴィンセント・ギャロの『バッファロー’66』(98)を参考に進めるように示唆していたとのこと。なるほどたしかに!
二人ともきわめて良い趣味の持ち主であり、心からの共感と同胞意識を覚えざるをえない(笑)。もちろんそのセンスは、この作品の全体に十分に生かされているといってよい。
●クローネンバーグ映画としては『戦慄の絆』(88)の名がパンフでは挙げられていたが、個人的には女性の描き方や刹那的なラストも含めて、『ラビッド』(77)と共通点が多い気がする。
●序盤、森の中で展開されていた猫と鼠のゲームは、中盤に入って老夫婦の住むヴィクトリア様式のコテッジに舞台を移すが、この老夫婦のどこかうろんな気配が、作品になんともいえない奇妙なツイストを加えている。
ちょっとデイヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』風とでもいうのか。
とくに、あの朝ごはんのえげつなさ!(笑)
あれ、アメリカ人が観たら容易に何か思い浮かべるような、ヒッピー独特の食習慣とかあるんだろうか??
目を疑うような大量のバター。黒焦げのウインナー。投下されるホットケーキ。
大量の目玉焼き。上からかけられる尋常じゃない量のベリージャム。シロップ。
うげげげげげげげ!!! 気持ち悪いようwww(フェリーニとかブニュエルの食の悦楽を描いた作品や、『サブスタンス』の食事シーンを想起させられる)。
「『甘い』と『しょっぱい』の無限ループを!!」と高らかに歌い上げていたのは『3月のライオン』のあかりさんでしたが、これはさすがにカオスすぎんだろ(笑)。
●あと、老夫婦が「私たちはただのヒッピーでもバイカーでもない。終末論者なんだ」とかいってて草。ちょっとこのへんの話は、誰か(町山さんとか)詳しい人に説明してもらいたいなあ。アメリカにはヒッピー崩れで山奥に隠遁しながら終末に備えて準備している特定のカルト層がいるってことだよね。
●『ストレンジ・ダーリン』では、ホテルの従業員にせよ、山小屋の老夫婦にせよ、警察官にせよ、エレクトリック・レディの犠牲者には、単なる犠牲者という以上の愚かさとコミカルさと因果応報の感覚が付きまとう。そのあたり、ちょっと『シリアル・ママ』(94)と通底するコメディ感覚があるかも。
「こういうタイプの女性がそんな恐ろしいことをやるわけがない」という先入観を隠れ蓑に殺戮を繰り返すシリアル・キラーという点で、両者には深い共通点がある。
●ちょっとバングルズのヴォーカルみたいな声のシンガーソング・ライター、Z・バーグの楽曲が全編を彩り、サントラを形成している。僕にとっては未知の歌手だが、抒情的で好ましい曲を書く人だと思った。なんでも、監督が曲を使わせてほしいと連絡したら、全編で楽曲を書き下ろすという条件でOKを出したらしい。カッコいい!
●パンフで『そらのおとしもの』や『これゾン』に出ていた声優の野水伊織が、ガチ勢の映画ライターをやっていてびっくり。しかもものすごくちゃんとしたことを、ものすごくしっかりした文章で書いている! おみそれいたしました。
