見はらし世代のレビュー・感想・評価
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家族の現代的な有様を、街並みと建築を絡めて爽やかに表現
崩れていく家族がテーマで、それが都市や建築の様相を絡めて描かれている。そのロケーション選択が素晴らしい。監督の父上は有名なランドスケープデザイナーだが、血筋に加えて、おそらくはチームアップされたスタッフにも恵まれている感じがした。三浦半島の貸別荘は、10年半前の設定で、デザイナー好みの家具調度が素敵、グランドピアノはスタインウェイ? 特筆すべきなのは階段への偏愛と、フレーミングの技。その何れもに両義的な意味と象徴を示唆させている気配がある。
階段は、宮下パーク、代官山ヒルサイドテラス、父のモダンなアトリエ、再開発されるハケ地!の公園等で、ポンジュノ的明解さではなく、少し曖昧な両義性をもって描かれる。この映画は、全てに明解な二項対立を避けて、両義性の立場に立つことがポリシーのようだ。また近代建築の特徴である内と外が大きなガラスで繋がることを、映画のフレームとして活用することで、透明な、俯瞰的な立ち位置を獲得している。それはカットインされる渋谷のスナップシーンでも意識的に選択されている。何よりも宮下パーク自体が、外側のガラスがほぼ取っ払われた裸の建築で、公道を跨いだ上に作られているその一番おいしい部分が何度も舞台となる。
全体に薄味で淡白に感じられるけど、随所に込められた細やかな趣向が意味深で、あざといくらいに冴えている。祝い花のデリバリーは、監督自身のアルバイト体験からとのことだが、都市を縦横無尽に移動する語り部(無口だが)として秀逸な設定。様々なクラスの人々とダイレクトに接することができ、華やかな世界の舞台裏が殺伐としたブラック度であることも伺える。
無口な息子に対して、未来志向で吹っ切れているような語りの娘は、本作の本来の語り部だけど、実は吹っ切れてないことが所々で・最後のシスターフッド的シーンでもわかる。人物造形もとても両義的だ。その最たるものが父親。強さと弱さがあり、慟哭シーンでは感情の爆発が不思議なカタルシスに繋がる。息子の複雑な笑みは、両者がバラバラに邂逅したことを感じさせた。SAで後ろ向きに歩いていた少年は、この禊ぎを経て「前に」吹っ切れたのだ。
小物の使い方にも唸らされた。お化けが出る前の、スマホの呼び出しバイブ音がモールス信号のSOSだったり、最後に放置されるボールや、道を横切る際の車優先社会と、そこを無防備に横断するLUUP。よく見るとLUUPは最後に突然出てくるのでなく、サブリミナル的に数回登場していた。監督の言によれば、今の若者には免許取得に30万円かかる自動車はそもそも敷居が高くての「LUUP」とのこと、納得至極。
後半の重要なトリガーとなるお化け設定がかなり強引だけど、見えないのに見える、見えるのに見えないというのは歌舞伎でも使われる手法。また最後にLUUPでクローズアップされる女性は、ブラック花屋での解雇騒動中に「やめた」女の子なのがわかりにくいけど、そこは脇線だから良いのだろう。
冷めているようで冷めていない、無表情のようで実はエモーショナル、吹っ切れているようで吹っ切れてない、家族の人間関係の現代的な有様を、今だからこそ撮影できる街並みと建築を絡めて表現していて、ふわっと感じられる明るさもあり、ぽよよんとした音楽も今風で、爽やかな好印象を受けた。次回作が楽しみな監督です。
建築家の父とその息子の物語. 父が仕事に没頭しすぎて独り海外へ, ...
建築家の父とその息子の物語.
父が仕事に没頭しすぎて独り海外へ, 母は早くに他界, 残されたのは姉と弟.
時を経て, 弟が都内で配達の仕事中, 帰国した父と偶然会ってしまい.
父は景観デザイナーとして成功の最中.
父がいた旨を, 姉に話しても相手にされず.
葛藤する弟の様子.
男同士で感じる, 口下手でも背中を見てる様子, 強い納得感がありました.
主な舞台は, 渋谷の宮下公園.
開けた屋上公園, 下には商業施設, 以前はホームレスだらけで近寄り難かった場所.
この公園だけでなく, 高層ビル群や首都高など, 立体的な景観の見せ方が
本映画では一貫してすごく綺麗.
都内にいると慣れた眺めですが(おらの様なおのぼりさんでも),
きっと, 西洋の方がこの映像を観たら,さらに喜びそうな気がします.
考えがだから子供なんだよ
不思議な心地よさもあり、観る者の人生や経験によって感じ方が変わる秀作
2025年第78回カンヌ国際映画祭の監督週間に⽇本⼈史上最年少、26歳で選出された団塚唯我監督の長編デビュー作品ということで、楽しみにしていた映画。
ランドスケープデザイナーとして家族を顧みず、仕事に没頭するハジメとその家族を描く。そして妻・由美子が亡くなり、ハジメは海外での仕事を選び日本を離れる。
残された娘・恵美と息子・蓮は、そんな父・ハジメとは疎遠になり、それぞれの生活を送っている。ある日成功を背負い帰国した父と図らずも再会した蓮。
それをきっかけに再会する家族。それぞれの胸中の複雑な思いや家族の関係性は、観る者の人生経験や家族との関係により、その感じ方が千差万別となるあたりの脚本な映画の造りに素晴らしさを感じる。
主人公・蓮を黒崎煌代、父・ハジメを遠藤憲一、亡き母・由美子を井川遥、姉・恵美を木竜麻生が演じているが、その役者たちの巧みな台詞回しや演技により、家族それぞれの心の機微が細やかに描かれる。
全体としては、家族揃って過ごす過去の1日と現在の数日間だけを描いており、途中時間軸がブレることもあり、結末らしきものもない。
結局そこに描かれていることが現実なのか、それぞれの思いなのか朧げなまま展開していく点でも、不思議で繊細な感覚を覚える映画。
過去の渋谷、頻繁に情景として出てくる再開発が進む渋谷、現在のMIYASHITA PARKを舞台に描かれた作品。
街中をLUUPが走る光景を含め、センス溢れる情景の写し方も素晴らしく、新進気鋭の若手監督が作った今を表す映画になっていることを、エンディングに向かって一層強く感じる映画。
万人向けの商業映画とは全く別物の映画だが、インディペンデント映画が好きで、かつ自身の人生経験から、感じるものがあれば深く沁みる作品。
木竜麻生さんが
「進化と消滅そして再生」
今、渋谷の街には高層ビルが乱立し、いまだに再開発しているところもある。それ以前の渋谷は地上7階ほどの百貨店やどうとも形容できないビルやむきだしになった地面があった。再開発とは街の進化であるとともに古き物が捨てられ消滅することを意味する。
東京生まれの団塚監督は今27歳。子どもの頃から渋谷の街を見ていれば、この変貌ぶりに一番気付いているのは監督自身であろう。そして彼らZ世代は高層ビルから街を見下ろす、まさに「見はらし世代」なのだ。この映画は渋谷の再開発という題材をとおして家族の在り方を撮っている。
10年前、蓮は両親と姉、家族4人で海辺へバカンスに行った。しかし初日に父(遠藤憲一)が仕事の都合で仕事場に戻ると言い出し母(井川遥)と口論にはなるが一人東京へ帰った。そして3年後母は亡くなり、10年後、父は有名なランドスケープデザイナーとなって世界をまたにかけ活躍しているが、蓮(黒崎煌代)と恵美(木竜麻生)とはすっかり疎遠になっていた。
蓮は久しぶりに父が東京に戻ってきていることを恵美に話す。蓮を演じる黒崎煌代の声は低く、くぐもっていてぶっきらぼうな話し方が蓮の無口で引っ込み思案なキャラクターを明確にしている。蓮は父に会いたいという気持ちをもっているが恵美はまったくの無関心である。もう父との縁は切れたとひどく素っ気ない。蓮は胡蝶蘭の配達を仕事にしており偶然父の展示会場に胡蝶蘭を届けに行ったさいに父を窓越しから見る。蓮と恵美の会話、蓮の仕事ぶり、父を見ている蓮の姿の映像が、何か無機質的に一瞬静止し単なる一枚の絵のように映る。動いていない、生きていない、虚無が覆う映像が印象的で、父と蓮・恵美の深い断絶を見事に表現している。それでも蓮は再度父と会い恵美を含めて紹介したい人(菊池亜希子)がいるから二人に会ってほしいと言われ恵美には内緒に指定された場所へ行く。すると幻のような驚くべきことがおこるのだ。
この幻が登場するシーンから私は映像化されている場所を見ているのか、どこかほかの場所を見ているのか混乱してくる。恵美はさっきまで蓮と一緒に渋谷にいたのに、父の恋人と軽トラックに乗って海辺にいて別荘に入る。この映像表現はなにか。時空の超越か、渋谷にいた蓮と恵美は幻影なのか混乱が増幅する。父と幻は蓮と恵美を見ていない。
父はバカンスを捨てたことで世界的なランドスケープデザイナーになったが家庭を崩壊させた。新たなものを手に入れるためには今までのものを捨て去らねばならい。まさに渋谷の街の再開発と同様だ。しかし幻の言葉は優しさにみちている。この幻の登場から映像は不可思議な時間が止まっているようにゆっくりと進んでいく。
この幻は父と蓮と恵美に何をもたらしたのか。家族の再生。いやそんな甘くはいかない。父は幻に理解され許され涙する。しかし蓮や恵美は断絶から容易に解放されない。ただ恵美の横にいる幻からバトンを受けそうな新しき者、父の恋人が仲介者となりなんらかの化学変化がおこるのか。幻の出現は進化のために捨てられ消滅したものが、この家族の再生をうながしているように、寄り添うことなく、しかし冷たくなく蓮と恵美と父の恋人の前に姿を見せたように感じるのだ。
高層ビル群の間をキックボードに乗って颯爽と走る若者たちの姿は生気と活気にあふれていた。蓮と恵美もこのように新しい街のなかで消滅したことを幻にまかせ家族という枠を大上段に構えず高層ビルから見はらすように大きな視点をもって生きていってもらいたいと思いながら高層ビルが乱立する渋谷の映画館を後にした。
水掛け論
渋谷が舞台。
仕事を優先し疎遠になった家族と
宮下パークの再開発がテーマになり
この2つを重ね合わせながらを描いている。
何かを得る為には何かを犠牲にする時もある。
生きているとその壁にぶち当たる。
そこには摩擦がおきて隙間が徐々に出来ていく。
その隙間を埋める為には時間もかかるし
お互いの労力と気持ちも不可欠。
新しく進化する世界、置き去りになり
排除される世界。
どちらが正しいか分からないし
何もしなければ理解できない水掛け論。
電球の落下によって失望した大きな損失が
分かり、替えのきかない大切な事を
個々に感じた気がした。
そして止まってる時間を破壊して前に進んだ。
最後のループに乗ってる4名。
一人は花屋で蓮が辞める時に辞める女性だよね。
お世話になり名前を覚えてる方には
『◯◯さん』ありがとうございましたと。
あの自分で決めた姿は潔く挨拶の仕方も面白い。
ループ運転姿は自分の意思をもち、見る
見はらしている感じ。
一人一人が自分のハンドルを持ち
未来に進み、晴れている光へ
個性と意見と意志を持っているようなにも。
後はハンドル持つのは自由だけど
責任を持ってくれますように。
家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語
見終わって「一体何を見せられたんだろう…」という感覚になった。
監督の意図や物語の意味がすぐに読み取れない作品は少なくないが、それでも多くの場合、登場人物の苦悩や葛藤、善良さに共感を感じたり、成長や変化にカタルシスを感じたりする。しかし、本作については、それらが自分の中にうまく起動しない感じであった。
主人公の青年、黒崎煌代演じる胡蝶蘭の配達ドライバーの蓮くんは、ほとんど自分の気持ちや、意味ある言葉を語らない。その場に合わせて言葉少なに語り、時々感情的反応を見せる。
彼が唯一、積極的に自分の意思を示したのは、崩壊した家族の再会を実現することだ。しかし、そこでも彼は黙っていて、どうしたいのかがわからない。家族の再生を試みたいのではなさそうだ。ラスト近く、父の精神崩壊のような涙に、彼は「ざまあみろ」と言わんばかりの邪悪な(僕にはそう見えた)笑顔を見せた。
ーーこんな主人公や家族のどこに、どう共感すればいいのだろう…。
…と、鑑賞直後は思ったのだが、一晩経って、自分なりの解釈・映画の構造が見えてきた気がする。そして、現代の家族と個人の困難を描いた名作ではないかと思い始めている。キーワードは空虚さ(=空っぽ)だと思う。少し考察してみたい。
本作の類似作品をあげるとしたら、山田太一「岸辺のアルバム」ではないだろうか。1977年に放映されたテレビドラマ史上の名作である(僕は原作小説の方しか知らない)。世間的に認められる「絵に描いたような幸せな家族」の裏側と崩壊、その再生の予感を描いた社会派のドラマだ。
夫婦(働く夫と専業主婦の妻)と子供二人の家族の物語であるところも、この映画と共通している。こうした家族はかつては〝標準世帯〟と呼ばれて、日本の制度(税制や社会保障など)は、この世帯を基準にして作られてきた。だから、家族の物語であると同時に、日本社会の〝標準的な幸福な生き方モデル〟に沿って生きることの困難を描いている。本作も同じ系譜にあるように感じる。
井川遥が演じる妻は今では少数派となった専業主婦だ。ただ、少なくとも2000年前後までは、こうしたライフコースは多かった。かつて女性の就労率グラフはM字カーブと言われて、結婚・出産前後で一度仕事をやめて、子供の成長などに合わせて、再び就職する(多くの場合、非正規雇用で)形だった。ただ、当時、高学歴女性の就労率を調べたら、就労率は回復せず、右肩下がりに近かった。それは、夫が高収入層であることから可能であったのだ。
おそらく本作の妻もかつては夫と同じ建築デザイナーで高学歴専門職女性。結婚とともに仕事を辞めたようで、このように女性がキャリアを諦め、子育てに専念するのは、つい最近まで少なくなかったはずである。
このような標準的な生き方、標準的な家族を無条件に良き生き方として受け入れる(受け入れざるを得ない)ことが、さまざまな困難につながる可能性があることを本作は描いているように感じられた。
遠藤憲一演じる建築家・ランドスケープデザイナーの父。家庭を守るためにも仕事で成功しなければならない。ただ、自分の内的動機ではなく、暗黙の社会ルールに従っているだけのようだ。だから、守ろうする家族との感情的な絆が持てていないし、自分の中から湧いてくる愛情みたいなものが弱い。内的必然性がないから、どうやって家族に接したら良いかわからず、〝標準的に正しい態度〟を取ってなんとか乗り切ろうとする。それは仕事においてもそうである。
芸術的な仕事でもあり、同時に社会を設計する大きな仕事でもあるのだが、クライアントの要望に応え、売上を上げ続けることに汲々としている。その後、デザイナーとして成功しても、何のためにその仕事をするのか、その仕事の意義や目的を語れない人物だ。その内的な空っぽさを台湾人の社員に見透かされたりして、尊敬も得られていない。
これは個人の問題ではないと思う。僕自身も社会的意義のある仕事と思い、ある仕事を続けてきたけれど、経営会議や事業開発会議で話されるのは、売上利益計画のことばかりであった。そして「今はそんな理想論を言っている時ではない。まずは売上利益を計画通りに上げることに集中するべきだ」と言ったような緊急対応が常態化していた。それが年々ひどくなってきたように感じるのは、会社の事情もあるだろうが、日本の状況とも関係あるだろうし、新自由主義的な企業運営が広がる中での必然的結末でもあったと思う。
そんな状況の中では、この父のような仕事に意義・意味を語れない人間になるのも当然かもしれない。つまり働くのは「生存のため」であって、内的必然性や社会的な意義を実現する「実存のため」の仕事なんて滅多に手に入らなくなってしまっている。
彼の息子、主人公の蓮もそれは同様だ。彼が花屋さんで働くのは、生活費のためで、それ以上の内的理由(職場が好き、人間関係がよかったり尊敬できる人がいる、意味のある仕事だといった理由)は持てていないようだ。もちろん、親からの仕送りもなさそうだから、生存のために働かなくてはならない。
彼の職場にも問題がありそうだ。花屋さんは、小学生のなりたい職業ランキングの上位常連の、憧れの仕事でもある。それなのに職場に活気も会話もなく、淡々と組立ライン労働者のように働き、そして突然「もう辞めます!」と叫んで職場を去る女性がいる。誰も引き留めない。
自分の「好き」を押しつぶされるほどの職場環境・労働環境なのだ。蓮くんが、ホームレス支援の炊き出しをランチにする場面があるが、彼は当たり前のようにそうしている。実際、生活が相当厳しいのだろう。東京で一人で働きながら暮らすのは楽ではない。それがアルバイト扱いなら尚更不安だし、苦しいのは当然だ。
彼には、何かやりたいことはないし、自分らしさなんてわからない。そもそも、それを追求する余裕がない。組織に入ってうまくやるような社会的スキルも身につけられていないようだ。それは父親もそうだった。父は、自分を殺し、周りに従い同調することで生存し、成功もしたけれど、常に〝それ以外仕方ない〟からしていたに過ぎなかった。
木竜麻生(「秒速5センチメートル」でも印象的役柄を見事に演じていた)演じる主人公の姉は、弟よりもうまく適応しているようだが、かなり危なっかしい。父を恨み、家族はもう諦めている。母親は父との家庭を夢見ていたが、子供には愛情を持っていなかったと思っている。そして、夢見た家族の姿を実現できず、絶望死のような最後を迎えたのを見ている。
それなのに、一緒に暮らして何かを作り上げようとも、特別な相手だとも思えない〝ただ当たり前のように一緒にいる相手〟との結婚に進もうとしている。母の人生の再演に向かおうとしているようだし、本人も不安を感じている。
もちろん外的な環境や暮らし方を変えることで、何かが変わったり、新しい発見があることもあるだろう。でも、内的必然性があまりにも空っぽだと自分の内側からエネルギーというものが全く湧いてこない。
だから、井川遥演じる母親の最後の言葉も「私は横になっているのが好きなの」というようなものだった。内的必然性を喪失し、生きるエネルギーが無くなってしまっていた。
この映画は、たまたま渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。その映画館のある宮下パークが主要ロケ地で、(僕が誤読していなければ、)遠藤憲一演じる父がこの宮下パークをデザインしたという設定だった。
かつての宮下パークの場所は戦後のバラックからの名残を感じる場所だった。ホームレスの人が定住していて、この世界での生存の困難さが可視化されている場所でもあった。それが、宮下パークですっかり漂白され、生きていくことの困難さは不可視化された。台湾人社員が言う通り、ここに生活していた人たちはどこにいったのだろう。この論理的空洞に、デザイナーの父は答えることができなかった。
この映画のテーマであろうタイトルの「見はらし」は何を言いたいのだろうか。
少なくとも、この映画に登場する人(そして現実もそうだけれど)現在を生存するだけで精一杯で、未来を見通せてはいない。そして、内的な基準は確立できておらず、だから内的基準から見えてくる未来の目標や、人生の目的も持てていない。
そして宮下パークに象徴されるように、現代の生存の困難さは不可視化されて、漂白され表面上は美しくなった社会で生きるしかない。「見はらしなき世代」の反語、あるいは省略としてのタイトルではないだろうか。
団塚唯我監督(1998年生、26歳)は、構造的にわかりやすく何かを告発することなく、直感的に鋭く空っぽな個人と社会を描き出したように感じた。監督本人の中にも、この映画の登場人物たちのような空っぽさがあって、空虚さを生きる自覚があるのかもしれない。そしてその現実の空虚さを写し取った物語として見事に描き切ったようにも感じる映画であった。
オーソドックスな映画っぽいゆったりとした語り口と巧みな作劇が心地よい「東京映画」
始まって数分で「あ、この映画、自分と波長が合うな」と感じました。ゆったりとした語り口で間(ま)の取り方が絶妙です。最近の映画を観ているとなんだかTVドラマのようなせわしない語り口にがっかりすることがあります。我々は入場料を払って一定時間暗い場所に閉じこもって椅子にゆったりと腰かけて映画を観ようとしているわけです。面白くなければリモコン片手にザッピングして別口に移動なんてこともしないし、スマホを弄りながら、部屋の掃除をしながら、お茶碗を洗いながら観ているわけでもありません。映画館で一定以上の集中力を保ちながら鑑賞するに足るだけの映画が観たいだけです。その点、この作品は合格です。話の中身を「説明」するのではなく「描写」して見せてくれています。
物語は夫婦と子供2人(姉、弟)の車を使っての家族旅行のシーンから始まります。サービスエリアで食事をした後、家族はレストランから駐車スペースに停めてある車に戻るのですが、母親(演: 井川遥)だけが少し遅れて歩いていて、他の3人は車のところまで到着しているのに、彼女は横断歩道を渡ろうとするとまずは大型トラックが目の前を通り、次に普通の乗用車が2台ほど通りといった具合で、道の手前で少し待った後、ようやく、道の向こう側の3人に合流することになります。これ、なんてことのないシーンのようなのですが、その後の母親を暗示しているようで…… また、家族が海辺のコテッジに到着した後の駐車場と庭を入れたロングショットでは、車の側にいる父親(演: 遠藤憲一)が息子に用を頼もうと声をかけるのですが、息子はひとりでサッカーボールのリフティングを黙々とやっており、父親の呼びかけに反応しません。ロングショットで父子の間に広い空間があることもあって、この親子関係、大丈夫かと心配になります。
そして、話は10年後へとジャンプして、仕事中心で家族を顧みなかった父親は建築家として成功していますが、母親は既に亡くなっています(死因は明らかにされませんが、自殺ではないかと思われます)。姉(演: 木竜麻生)は恋人と同棲生活を送る予定があるような感じで結婚を考えてるみたいです。弟の蓮(演: 黒崎煌代)がこの物語の主人公っぽい感じなのですが、何か大人になりきれず、漂流してる感じ。彼は生花店の配達の仕事をしています。まあ家族としてはもうバラバラです。そんななかで、海外から戻ってきた父と蓮の再会を始めとする細かなエピソードが丁寧に描かれます。
建築家である父親は渋谷の宮下公園の再開発で中心的な役割を担ったようで、進行する物語のそこかしこに渋谷の風景が挿入されます。何か汚いものを隠して作った綺麗で清潔な街として描かれているのではないかという印象を持ちました(最近の言葉で言うと「ジェントリフィケーション」という含みがあるのかな)。全般的に美しい画が多く、音楽の使い方は抑制的で時折り、おやっといった感じの劇伴が入ります。作劇がとても丁寧です。物語が途中からファンタジー展開をするのですが、そこに入る前の父子3人で食事をするシーン(冒頭に出たサービスエリアのレストランに10年ぶりに集まるんですね)の間の取り方が絶妙で、ストーリーにタメみたいなものを作ってるなと感じました。そして、レストランの天井の照明器具の電球が落下してきて床でガッシャーン。そこからファンタジーに突入です。
団塚唯我監督は1998年生まれの27歳と非常に若く、若さゆえの生硬さが時折り気になるところはあるものの、この作品自体はなかなかの出来栄えで好感を持ちました。たぶん、彼はかなりの映画オタクではないでしょうか。本当に楽しみな若手が出てきたと感じましたので、さっそくチェックを入れておきました。ネット検索してわかったことですが、彼のお父上はランドスケープデザイナーで宮下公園の再開発に携わったとのこと。息子としては何か思うところがあったのでしょうか。
さて、ファンタジー展開した物語は終盤で時空を超えたようです。私はこの映画を Bunkamura ル•シネマ渋谷宮下で観たのですが、終盤の姉と弟の立っている場所が分からず、ヒューマントラストシネマ渋谷あたりまで歩いて行って位置関係を確認しました。そして、あることに気づきました。なるほどね。これはやっぱり「東京映画」です。
家族のやりなおし、を願うのはやっぱり父親
日本人だからなのか、家族を振り返らず仕事や酒・ギャンブルに没頭して、反省をするという父親像は、これまでもずいぶん描かれてきた 本編でもあったが、誰しも結婚をするときは理想の家族・家庭像を描いているはずなのに、子どもの成長期にその理想が損なわれてしまい、あとになって取り返しのつかない現実に反省する父親 しかし放置された子どもの方は本作でもそうだったが、そんな父親を侮蔑・軽蔑しているだけで、取り返せない時間を反省している父親の姿は滑稽だったりもする 成功しようが、失敗しようが家族を捨てた父親であるはずなのに、その再生を願う気持ちが息子・漣に残っているのが観る者にとって儚い希望を感じる 父親役の遠藤憲一さんは私と同世代で、37年前「メロドラマ」という作品(にっかつがポルノをやめて、一般映画ロッポニカを立ち上げた第一作)に、チョイ役で出ていた あの強面を生かしたチンピラ役だったが、本作のように強面にもかかわらず弱さを持つ父親役などに最近よく起用されている この遠藤さんをはじめ、活躍をしている中高年の男性には、他人事ではない気持ちを抱かさせる作品なのではないだろうか
成功や繁栄の裏には、多くの犠牲があり、それが家族だけではなくその街で暮らしていた住民やホームレス、人々の優しさも壊してきた渋谷という誰でもが知っていて、ついこの間完成した新しいその街を描きながら、そこに家族の問題が昔からずっと横たわっているのが、悲しくも人間らしいと思った
(10月23日 なんばパークスシネマにて鑑賞)
子どもたちに見えていたものは、案外本物の人格なのかもしれません
2025.10.23 アップリンク京都
2025年の日本映画(115分、G)
幼少期に壊れた家庭に向き合う子どもたちの感情を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は団塚唯我
物語は、栃木にあるコテージにて、ある家族が休暇を過ごす様子が描かれて始まる
父・高野初(遠藤憲一)は駆け出し中の建築デザイナーで、あるコンペの結果を待っていた
妻・由美子(井川遥)は元デザイナーだったが、娘・恵美(高校時代:石田莉子、成人期:木竜麻生)と息子・蓮(荒生凛太郎、成人期:黒崎煌代)を育てるために家庭に入っていた
その日は久しぶりの家族揃っての遠出だったが、そこに初のコンペの結果が届いてしまう
初は妻にコンペが通ったことを報告すると、彼女は「この3日だけは子どもたちのために」と不機嫌になってしまう
だが、コンペを通すことで家計が潤うと考えている初は、休暇を切り上げて東京に帰ろうと考えていた
初は翌朝には東京に向かおうと考えていて、その日だけは子どもたちと過ごすことに決めた
恵美と蓮を海に連れて行った初だったが、由美子はそのままコテージに残ることになる
それから10年と半年が過ぎ、家族はバラバラになっていた
初は仕事を選び、今では著名な建築家として名を馳せていた
宮下公園の再開発事業で功績を上げた彼は、その展示物のギャラリーを催すために日本に帰ってきていた
蓮は花屋の配送員として働き、恵美は近々恋人・明(中村蒼)と同棲し、ゆくゆくは結婚しようと考えていた
蓮は結婚のことを父に言わないのかと言うものの、彼女の中で父親はすでに過去のものとなっていて、義務も興味もないと言い切ってしまう
物語は、子どもから見た両親の離婚を描いていて、家庭よりも仕事を取った父と、それに愛想を尽かした母との関係に悩む様子を描いていく
悩むと言っても、それはその関係破綻に対して「自分たちの責任があったのでは」と感じている部分があって、母親の気持ちに寄り添えなかったり、あの時こうしていればと言う後悔が残っていたことが描かれていく
そして、そう言った根幹にあるモヤモヤが今の自分たちの生活に影響を及ぼしていて、蓮はやり直したいとは思わないけどはっきりさせたいと考えていて、恵美は過去のものとして封印したいと思っていた
後半では、「あんなことになった母」がPAに登場するのだが、あれは家族だけが見る幻想のようなものなのだろう
母が失踪したのか、自殺をしたのかは定かではないものの、感覚的には後者であると思う
再会の母は10年経っているのに若々しく、それは家族そうであってほしいと思う母親のイメージなのだろう
彼女と再会することで、恵美は自分の感覚が正しかったことを再確認するのだが、これは両親の離婚問題は結局「子どもを言い訳にした男女関係のほつれ」であると悟っている部分があった
それに対して、蓮は男女関係には疎い部分があって、泣き崩れるちちを見て「こんなくだらないことにこだわっていたのか」と笑ってしまう
そうした過去は単に過去であり、そういったものが可視化されることで「見はらし」を得ることに繋がっていくのだろう
自分の中にあるモヤモヤにどう向き合うかは世代によって違うが、映画内で描かれる若者というのは、このような感覚を持っているということを示唆していたのかな、と感じた
いずれにせよ、子どもの頃に両親の不和があって、その原因が自分ではないかと考えたことがある人には刺さる内容で、父親が偉大だったからこそ巻き起こる感情というものがあるのだと思う
どうしようもない父親とか、仕事を選んだ割には結果も出ずにアルコールに埋もれていたとかなら起きない可能性もあるのだろう
それぞれが過去のある瞬間を後悔しているものの、それをどのように埋め合わせるかは難しいところがあって、両親の離婚問題の余波というのはこういうところにあるのだと思う
結局のところ、離婚するしないは男女問題であり、どんなに言い繕っても子どもの存在は都合の良い悪いを含める言い訳でしかない
そう言った意味において、なんとなく過去を思い出すなあ、という映画だったように思えた
見はらしはどう
再開発/再構築で得られるものと失われるもの
高校時代に最低でも週に6〜7日は過ごしていた渋谷も今ではすっかり様相が変化して迷子になりそうだし、自分が知っている宮下公園の姿は既に跡形もない。
街の風景も家族の在り方も、その年代によって異なる姿を見せ、どこで・誰の立場で見るかによってまったく違って見えてくる。
再開発によって得るものもあれば失うものもある。再開発によって恩恵を受ける人々も多数いるが、それによって被害を被るのは常に弱者であり、マイノリティーたちだ。親の不和で家族が解体されたときに犠牲になるのも常に子どもたちであるように。
仕事が軌道に乗り始めのめり込みがちな父親と、仕事より家族との時間を優先して欲しい母親の間の亀裂。せっかく別荘で休暇を過ごしに出かけてきたが、仕事の電話が入ってとんぼ返りする父親。そのしばらく後に母親が亡くなり(原因への言及はないが、精神的にかなり参っていた様子なので自死の可能性も高い)父親は自分のキャリアのためにシンガポールへ子ども達を置いて出ていく。親に捨てられたという思いと共に成長し、10年後には、無理して斜に構えながら社会を見て「家族」という概念に距離を置くことで寂しさを忘れようとする姉と、子どもがすねたまま成長した寂しさがゆえに直接的に怒りを露わにする弟となって父親と再会する。
そうでなくとも世知辛い世の中。黙々と文句を言わずに働く社員もいれば、理不尽さに我慢できずにとっとと仕事を辞める社員もいる。
そんな社会で過去を忘れて前向きに生きるのは薄情なのか?
でも、薄情にもとっとと仕事を辞めた社員は時折り沖縄旅行を楽しみながら颯爽と渋谷の街を電動キックボードのLUUPで駆け巡っている。
かつてのしがらみに拘泥せず、達観したかのように世の中を「見はらし」ながら生きていくのが、ひょっとすると、現代の若者の生き方なのかも知れない。
まだ20代の監督による新しい感覚の作品。東京(渋谷)の街を切りとる額縁構図なども多用した絵作りも(冗長だという意見もあるようだが)個人的には嫌いじゃない。
刺さる刺さる オサレな感想言えればどんなに良かったかw 無理を飲み...
令和の小津映画は分かるが、脚本・構成が今イチ
話題の団塚監督の見晴らし世代を観た。
テーマは令和版家族再生の物語で一部映画専門家からは小津安二郎東京物語の令和版だとの声もある。
なるほど、渋谷の都市再開発と家族再生をテーマにした作品だなと言うのは分かる。団塚監督は若手監督だが、よくチャレンジしたなと感じた。また、遠藤憲一、井川遥の演技はさすがだし、福田村事件以来久々観る木竜麻生は演技が素晴らしかった。木竜麻生は今後も楽しみ。
ただ、黒崎煌代の演技は主役だしもう少し感情表現を見せてほしかったし、脚本・構成も分かるけど今イチだしラストあのシーンはいらない。ツッコミどころが多すぎる。今の時代の家族はこの作品のとおりかなと思ったが、現実は複雑。また、祖父母世代は介護が必要な人もいる。今の令和の家族はこうですよと強調しすぎ。
ラストはいらない。シーンは何か観客に訴えかけるシーンが欲しかった。注目作品だっただけにがっかり。
矛盾とすり替え
ファーストシーンから、映画のリズムに引き込まれました。
あらすじや主演もノーチェックで見たので、
ある違和感から、ものすごくゆっくりとじわじわズームしていき、家族の物語であることがわかる。
その後も要所要所に印象深い構図をしっかり残していき、後半へと再び繋がる流れが見事で唸りました!
スタイリッシュな建物や空間を意識させる構図が多いのは、建築家の物語だからかと思っていましたが、鑑賞後のトークで街を取り巻く群像劇でもあると知り、ラストにも納得がいきました。
この映画は世の中に溢れる矛盾とすり替えを突いてくる。
お祝い専用の花屋は殺伐としているし、
誰もが集える公園を作る為に人を排除する。
自分の仕事を正当化する為に、目的と手段のすり替えが必要なように
姉が一生許せないのは、父親ではなく自分自身なのだろう。
でも、、突き詰めた結果、母親のような極端な手段を選択してしまう危うさもあるから
すり替えられない時は、根本的な問題解決に向かう前に戦線離脱するのもアリ。
良くも悪くも物事から距離を置き、解像度を低く保つことに慣れてしまっている。
タイトルにはいろんな意味が込められていると思いますが、私はそんな風に捉えました。
街ってそれぞれ個性があって面白い。
人が街を形作っているようでいて、実は街が持つ個性に人が吸い寄せられている。
巨大な生命体のような気もします。
それで言うと都市計画は明らかに集まってほしいターゲット層ありきでデザインされている。
私が上京してきた頃は、飲んだ帰りに1人で宮下公園を歩くのは怖い感じだったので、MIYASHITA PARKの芝生がスタバ片手の若者で埋め尽くされている光景には驚きました。
金網で囲われたスゲボ場や運動施設を使うのには申し込みが必要だし、23時には閉まっちゃうし…きちんと管理が行き届いた施設ですね。
コンセプトの狙い通りの場所になるのか?
今後どんな風に成長していくのか楽しみです。
カンヌ監督週間出品とのことで、そもそも公開が楽しみな作品でしたが
PFF2020/2023入選の寺西涼監督が音楽を担当されているとのことで期待値UP!
話し声が聞こえるようなオープニングから面白くて興奮しましたが、中盤の展開で「だから寺西監督なのか!」と、ものすごく納得しました。
チャネルが合う瞬間と言いますか、寺西監督のテーマとリンクしている。
PFF2021入選の蘇鈺淳(スー・ユチュン)監督も少し出演されているとのことでしたが、ガッツリ印象深い役で驚きました。
違和感を口にすることで、誰の為に何をしているのか?目的と手段のすり替えを指摘する、とても重要な役どころでした。
素晴らしい才能が結集した『見はらし世代』
今後この世代が作る映画が楽しみです!
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