「家族の現代的な有様を、街並みと建築を絡めて爽やかに表現」見はらし世代 marcomKさんの映画レビュー(感想・評価)
家族の現代的な有様を、街並みと建築を絡めて爽やかに表現
崩れていく家族がテーマで、それが都市や建築の様相を絡めて描かれている。そのロケーション選択が素晴らしい。監督の父上は有名なランドスケープデザイナーだが、血筋に加えて、おそらくはチームアップされたスタッフにも恵まれている感じがした。三浦半島の貸別荘は、10年半前の設定で、デザイナー好みの家具調度が素敵、グランドピアノはスタインウェイ? 特筆すべきなのは階段への偏愛と、フレーミングの技。その何れもに両義的な意味と象徴を示唆させている気配がある。
階段は、宮下パーク、代官山ヒルサイドテラス、父のモダンなアトリエ、再開発されるハケ地!の公園等で、ポンジュノ的明解さではなく、少し曖昧な両義性をもって描かれる。この映画は、全てに明解な二項対立を避けて、両義性の立場に立つことがポリシーのようだ。また近代建築の特徴である内と外が大きなガラスで繋がることを、映画のフレームとして活用することで、透明な、俯瞰的な立ち位置を獲得している。それはカットインされる渋谷のスナップシーンでも意識的に選択されている。何よりも宮下パーク自体が、外側のガラスがほぼ取っ払われた裸の建築で、公道を跨いだ上に作られているその一番おいしい部分が何度も舞台となる。
全体に薄味で淡白に感じられるけど、随所に込められた細やかな趣向が意味深で、あざといくらいに冴えている。祝い花のデリバリーは、監督自身のアルバイト体験からとのことだが、都市を縦横無尽に移動する語り部(無口だが)として秀逸な設定。様々なクラスの人々とダイレクトに接することができ、華やかな世界の舞台裏が殺伐としたブラック度であることも伺える。
無口な息子に対して、未来志向で吹っ切れているような語りの娘は、本作の本来の語り部だけど、実は吹っ切れてないことが所々で・最後のシスターフッド的シーンでもわかる。人物造形もとても両義的だ。その最たるものが父親。強さと弱さがあり、慟哭シーンでは感情の爆発が不思議なカタルシスに繋がる。息子の複雑な笑みは、両者がバラバラに邂逅したことを感じさせた。SAで後ろ向きに歩いていた少年は、この禊ぎを経て「前に」吹っ切れたのだ。
小物の使い方にも唸らされた。お化けが出る前の、スマホの呼び出しバイブ音がモールス信号のSOSだったり、最後に放置されるボールや、道を横切る際の車優先社会と、そこを無防備に横断するLUUP。よく見るとLUUPは最後に突然出てくるのでなく、サブリミナル的に数回登場していた。監督の言によれば、今の若者には免許取得に30万円かかる自動車はそもそも敷居が高くての「LUUP」とのこと、納得至極。
後半の重要なトリガーとなるお化け設定がかなり強引だけど、見えないのに見える、見えるのに見えないというのは歌舞伎でも使われる手法。また最後にLUUPでクローズアップされる女性は、ブラック花屋での解雇騒動中に「やめた」女の子なのがわかりにくいけど、そこは脇線だから良いのだろう。
冷めているようで冷めていない、無表情のようで実はエモーショナル、吹っ切れているようで吹っ切れてない、家族の人間関係の現代的な有様を、今だからこそ撮影できる街並みと建築を絡めて表現していて、ふわっと感じられる明るさもあり、ぽよよんとした音楽も今風で、爽やかな好印象を受けた。次回作が楽しみな監督です。
