見はらし世代のレビュー・感想・評価
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現代の社会、空気、感覚をそのまま映画に昇華させたかのような
人の心、あるいは誰かと誰かが関わり合う様は、時に一つの建築物のようだ。家族が休日を過ごそうとする海辺の家に始まり、渋谷の複合商業施設、はたまたホームレスを追い出して着手されゆく無慈悲な建設に至るまで、本作ではあらゆる建築が有機的に絡まり、物語を奏でる。そういった構造をあくまで透明感に溢れた自然な語り口の中で実践しているのが本作の秀逸なところ。こんなタイプの映画と出会ったのは初めてかもしれず、まさに現代の社会、空気、感覚から産声をあげた作品と言える。メインの家族を、決して互いに相入れない独立した部屋が並ぶかのように拮抗させ、対峙させる未来。とりわけ少年が青年へと成長し、演じる黒崎がひとこと言葉を発する時の、あのなんとも他者を寄せ付けず、と同時に、何かを求めているようでもある掠れた低音の声のトーンに心底痺れた。そして遠藤憲一の画竜点睛と言うべき存在感が、この異色作にある種の格をもたらしている。
若い感性が生み出した新しい東京物語
私もバリバリ仕事をしていた頃は家族旅行中でもパソコンを開いたし電話にも出ていた。明らかに家族の行事より仕事を優先していた。今となっては全く馬鹿らしいが当時はそれが正しいと思っていた。幸い家族に見捨てられることもなく今を生きれているので良かったが、もう少し私が横暴だったら遠藤憲一のようになっていただろう。
それにしてもこの若い監督、団塚唯我は何とも言えない深い感受性を持ってるなぁ、。と感心させられる。20代後半、大学中退で映画美学校を出たとはいえ、社会経験はまだほんの少しだろうし、自分自身の家族もまだできてないだろうに人生50年位生きてきて初めて気づくような家族の成り立ちと崩壊、再生がおぼつかない葛藤をものの見事に映像で表現した。
車内のテレビで放映されてた取り替えても何度も落ちてくる電球の不思議ニュースが後半ぴったりとハマり奇跡が起きる。10年も時空を彷徨ってたからなのか井川遥はひたすら夫に優しい。「またね」と言われ去っていく妻の後ろ姿を見た後、号泣する遠藤憲一。失ったものは戻ってはこないことを突きつけられるシーンだった。
MIYASHITA PARKは監督の父がトータルデザインを手がけたとの事。堂々と物語の中心の場所に据えた理由も分かったが、感性は遺伝するものだと思った。昨年、同じように若手の監督として称賛た「HAPPYEND」の空音央は坂本龍一の息子。親が偉大なのは大変だろうが、少しだけ羨ましい。
子育てが終わったせいか振り返りに刺さりました。
画集みたいなラストクレジット
個性的で楽しみな監督
クチコミが賛否両論なので観るか迷ったけど観て良かった。
独特な間、余白というか、個性的な映画でした。
私は好きです。映像や音楽もこだわりが強そう。
今後も楽しみな監督さんですね。個性的で良いです。
こういう、この監督の映画と思える個性的な映画は好きです。
長回しというか、余分に思えるような間があります。もう少しキュッとすれば30分は短くなりそう。はじめは辛いと思ったけど。癖になる。
道路を渡るとか何か意味のあるようなシーンもあり、奥が深そう。
黒崎煌代と遠藤憲一と木竜麻生の演技も素晴らしい。
ちょっと予想外の展開でしたが、親子4人それぞれ思うところがあって、淡々とした演技、というか自然なキャラですが、その心情がよく伝わりちょっと泣けた。
ありそうな、なさそうな?
単なる渋谷宣伝映画。
文化庁の委託事業である若手映画作家育成プロジェクト「ndjc(New Directions in Japanese Cinema)」だからループやミヤシタパークばかりが映るのか。
終盤、死んだ井川遥が現れ離散した家族みんなに見えて、だから何か変わる訳でもなく、シャレオツな音楽とやたらロングショットや引きなシーンばかりで何が言いたいのか理解不可能でみんながみんな上っ面だけで付き合って他人に踏み込まない、だから理解まで行かない。
久しぶりに全く1ミリも心に何も残らない超駄作を観た。
文化庁はこんな映画に金を出すならもっと援助すべき映画人がいるだろ(怒)
家族の現代的な有様を、街並みと建築を絡めて爽やかに表現
崩れていく家族がテーマで、それが都市や建築の様相を絡めて描かれている。そのロケーション選択が素晴らしい。監督の父上は有名なランドスケープデザイナーだが、血筋に加えて、おそらくはチームアップされたスタッフにも恵まれている感じがした。三浦半島の貸別荘は、10年半前の設定で、デザイナー好みの家具調度が素敵、グランドピアノはスタインウェイ? 特筆すべきなのは階段への偏愛と、フレーミングの技。その何れもに両義的な意味と象徴を示唆させている気配がある。
階段は、宮下パーク、代官山ヒルサイドテラス、父のモダンなアトリエ、再開発されるハケ地!の公園等で、ポンジュノ的明解さではなく、少し曖昧な両義性をもって描かれる。この映画は、全てに明解な二項対立を避けて、両義性の立場に立つことがポリシーのようだ。また近代建築の特徴である内と外が大きなガラスで繋がることを、映画のフレームとして活用することで、透明な、俯瞰的な立ち位置を獲得している。それはカットインされる渋谷のスナップシーンでも意識的に選択されている。何よりも宮下パーク自体が、外側のガラスがほぼ取っ払われた裸の建築で、公道を跨いだ上に作られているその一番おいしい部分が何度も舞台となる。
全体に薄味で淡白に感じられるけど、随所に込められた細やかな趣向が意味深で、あざといくらいに冴えている。祝い花のデリバリーは、監督自身のアルバイト体験からとのことだが、都市を縦横無尽に移動する語り部(無口だが)として秀逸な設定。様々なクラスの人々とダイレクトに接することができ、華やかな世界の舞台裏が殺伐としたブラック度であることも伺える。
無口な息子に対して、未来志向で吹っ切れているような語りの娘は、本作の本来の語り部だけど、実は吹っ切れてないことが所々で・最後のシスターフッド的シーンでもわかる。人物造形もとても両義的だ。その最たるものが父親。強さと弱さがあり、慟哭シーンでは感情の爆発が不思議なカタルシスに繋がる。息子の複雑な笑みは、両者がバラバラに邂逅したことを感じさせた。SAで後ろ向きに歩いていた少年は、この禊ぎを経て「前に」吹っ切れたのだ。
小物の使い方にも唸らされた。お化けが出る前の、スマホの呼び出しバイブ音がモールス信号のSOSだったり、最後に放置されるボールや、道を横切る際の車優先社会と、そこを無防備に横断するLUUP。よく見るとLUUPは最後に突然出てくるのでなく、サブリミナル的に数回登場していた。監督の言によれば、今の若者には免許取得に30万円かかる自動車はそもそも敷居が高くての「LUUP」とのこと、納得至極。
後半の重要なトリガーとなるお化け設定がかなり強引だけど、見えないのに見える、見えるのに見えないというのは歌舞伎でも使われる手法。また最後にLUUPでクローズアップされる女性は、ブラック花屋での解雇騒動中に「やめた」女の子なのがわかりにくいけど、そこは脇線だから良いのだろう。
冷めているようで冷めていない、無表情のようで実はエモーショナル、吹っ切れているようで吹っ切れてない、家族の人間関係の現代的な有様を、今だからこそ撮影できる街並みと建築を絡めて表現していて、ふわっと感じられる明るさもあり、ぽよよんとした音楽も今風で、爽やかな好印象を受けた。次回作が楽しみな監督です。
建築家の父とその息子の物語. 父が仕事に没頭しすぎて独り海外へ, ...
建築家の父とその息子の物語.
父が仕事に没頭しすぎて独り海外へ, 母は早くに他界, 残されたのは姉と弟.
時を経て, 弟が都内で配達の仕事中, 帰国した父と偶然会ってしまい.
父は景観デザイナーとして成功の最中.
父がいた旨を, 姉に話しても相手にされず.
葛藤する弟の様子.
男同士で感じる, 口下手でも背中を見てる様子, 強い納得感がありました.
主な舞台は, 渋谷の宮下公園.
開けた屋上公園, 下には商業施設, 以前はホームレスだらけで近寄り難かった場所.
この公園だけでなく, 高層ビル群や首都高など, 立体的な景観の見せ方が
本映画では一貫してすごく綺麗.
都内にいると慣れた眺めですが(おらの様なおのぼりさんでも),
きっと, 西洋の方がこの映像を観たら,さらに喜びそうな気がします.
考えがだから子供なんだよ
不思議な心地よさもあり、観る者の人生や経験によって感じ方が変わる秀作
2025年第78回カンヌ国際映画祭の監督週間に⽇本⼈史上最年少、26歳で選出された団塚唯我監督の長編デビュー作品ということで、楽しみにしていた映画。
ランドスケープデザイナーとして家族を顧みず、仕事に没頭するハジメとその家族を描く。そして妻・由美子が亡くなり、ハジメは海外での仕事を選び日本を離れる。
残された娘・恵美と息子・蓮は、そんな父・ハジメとは疎遠になり、それぞれの生活を送っている。ある日成功を背負い帰国した父と図らずも再会した蓮。
それをきっかけに再会する家族。それぞれの胸中の複雑な思いや家族の関係性は、観る者の人生経験や家族との関係により、その感じ方が千差万別となるあたりの脚本な映画の造りに素晴らしさを感じる。
主人公・蓮を黒崎煌代、父・ハジメを遠藤憲一、亡き母・由美子を井川遥、姉・恵美を木竜麻生が演じているが、その役者たちの巧みな台詞回しや演技により、家族それぞれの心の機微が細やかに描かれる。
全体としては、家族揃って過ごす過去の1日と現在の数日間だけを描いており、途中時間軸がブレることもあり、結末らしきものもない。
結局そこに描かれていることが現実なのか、それぞれの思いなのか朧げなまま展開していく点でも、不思議で繊細な感覚を覚える映画。
過去の渋谷、頻繁に情景として出てくる再開発が進む渋谷、現在のMIYASHITA PARKを舞台に描かれた作品。
街中をLUUPが走る光景を含め、センス溢れる情景の写し方も素晴らしく、新進気鋭の若手監督が作った今を表す映画になっていることを、エンディングに向かって一層強く感じる映画。
万人向けの商業映画とは全く別物の映画だが、インディペンデント映画が好きで、かつ自身の人生経験から、感じるものがあれば深く沁みる作品。
木竜麻生さんが
「進化と消滅そして再生」
今、渋谷の街には高層ビルが乱立し、いまだに再開発しているところもある。それ以前の渋谷は地上7階ほどの百貨店やどうとも形容できないビルやむきだしになった地面があった。再開発とは街の進化であるとともに古き物が捨てられ消滅することを意味する。
東京生まれの団塚監督は今27歳。子どもの頃から渋谷の街を見ていれば、この変貌ぶりに一番気付いているのは監督自身であろう。そして彼らZ世代は高層ビルから街を見下ろす、まさに「見はらし世代」なのだ。この映画は渋谷の再開発という題材をとおして家族の在り方を撮っている。
10年前、蓮は両親と姉、家族4人で海辺へバカンスに行った。しかし初日に父(遠藤憲一)が仕事の都合で仕事場に戻ると言い出し母(井川遥)と口論にはなるが一人東京へ帰った。そして3年後母は亡くなり、10年後、父は有名なランドスケープデザイナーとなって世界をまたにかけ活躍しているが、蓮(黒崎煌代)と恵美(木竜麻生)とはすっかり疎遠になっていた。
蓮は久しぶりに父が東京に戻ってきていることを恵美に話す。蓮を演じる黒崎煌代の声は低く、くぐもっていてぶっきらぼうな話し方が蓮の無口で引っ込み思案なキャラクターを明確にしている。蓮は父に会いたいという気持ちをもっているが恵美はまったくの無関心である。もう父との縁は切れたとひどく素っ気ない。蓮は胡蝶蘭の配達を仕事にしており偶然父の展示会場に胡蝶蘭を届けに行ったさいに父を窓越しから見る。蓮と恵美の会話、蓮の仕事ぶり、父を見ている蓮の姿の映像が、何か無機質的に一瞬静止し単なる一枚の絵のように映る。動いていない、生きていない、虚無が覆う映像が印象的で、父と蓮・恵美の深い断絶を見事に表現している。それでも蓮は再度父と会い恵美を含めて紹介したい人(菊池亜希子)がいるから二人に会ってほしいと言われ恵美には内緒に指定された場所へ行く。すると幻のような驚くべきことがおこるのだ。
この幻が登場するシーンから私は映像化されている場所を見ているのか、どこかほかの場所を見ているのか混乱してくる。恵美はさっきまで蓮と一緒に渋谷にいたのに、父の恋人と軽トラックに乗って海辺にいて別荘に入る。この映像表現はなにか。時空の超越か、渋谷にいた蓮と恵美は幻影なのか混乱が増幅する。父と幻は蓮と恵美を見ていない。
父はバカンスを捨てたことで世界的なランドスケープデザイナーになったが家庭を崩壊させた。新たなものを手に入れるためには今までのものを捨て去らねばならい。まさに渋谷の街の再開発と同様だ。しかし幻の言葉は優しさにみちている。この幻の登場から映像は不可思議な時間が止まっているようにゆっくりと進んでいく。
この幻は父と蓮と恵美に何をもたらしたのか。家族の再生。いやそんな甘くはいかない。父は幻に理解され許され涙する。しかし蓮や恵美は断絶から容易に解放されない。ただ恵美の横にいる幻からバトンを受けそうな新しき者、父の恋人が仲介者となりなんらかの化学変化がおこるのか。幻の出現は進化のために捨てられ消滅したものが、この家族の再生をうながしているように、寄り添うことなく、しかし冷たくなく蓮と恵美と父の恋人の前に姿を見せたように感じるのだ。
高層ビル群の間をキックボードに乗って颯爽と走る若者たちの姿は生気と活気にあふれていた。蓮と恵美もこのように新しい街のなかで消滅したことを幻にまかせ家族という枠を大上段に構えず高層ビルから見はらすように大きな視点をもって生きていってもらいたいと思いながら高層ビルが乱立する渋谷の映画館を後にした。
水掛け論
渋谷が舞台。
仕事を優先し疎遠になった家族と
宮下パークの再開発がテーマになり
この2つを重ね合わせながらを描いている。
何かを得る為には何かを犠牲にする時もある。
生きているとその壁にぶち当たる。
そこには摩擦がおきて隙間が徐々に出来ていく。
その隙間を埋める為には時間もかかるし
お互いの労力と気持ちも不可欠。
新しく進化する世界、置き去りになり
排除される世界。
どちらが正しいか分からないし
何もしなければ理解できない水掛け論。
電球の落下によって失望した大きな損失が
分かり、替えのきかない大切な事を
個々に感じた気がした。
そして止まってる時間を破壊して前に進んだ。
最後のループに乗ってる4名。
一人は花屋で蓮が辞める時に辞める女性だよね。
お世話になり名前を覚えてる方には
『◯◯さん』ありがとうございましたと。
あの自分で決めた姿は潔く挨拶の仕方も面白い。
ループ運転姿は自分の意思をもち、見る
見はらしている感じ。
一人一人が自分のハンドルを持ち
未来に進み、晴れている光へ
個性と意見と意志を持っているようなにも。
後はハンドル持つのは自由だけど
責任を持ってくれますように。
家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語
見終わって「一体何を見せられたんだろう…」という感覚になった。
監督の意図や物語の意味がすぐに読み取れない作品は少なくないが、それでも多くの場合、登場人物の苦悩や葛藤、善良さに共感を感じたり、成長や変化にカタルシスを感じたりする。しかし、本作については、それらが自分の中にうまく起動しない感じであった。
主人公の青年、黒崎煌代演じる胡蝶蘭の配達ドライバーの蓮くんは、ほとんど自分の気持ちや、意味ある言葉を語らない。その場に合わせて言葉少なに語り、時々感情的反応を見せる。
彼が唯一、積極的に自分の意思を示したのは、崩壊した家族の再会を実現することだ。しかし、そこでも彼は黙っていて、どうしたいのかがわからない。家族の再生を試みたいのではなさそうだ。ラスト近く、父の精神崩壊のような涙に、彼は「ざまあみろ」と言わんばかりの邪悪な(僕にはそう見えた)笑顔を見せた。
ーーこんな主人公や家族のどこに、どう共感すればいいのだろう…。
…と、鑑賞直後は思ったのだが、一晩経って、自分なりの解釈・映画の構造が見えてきた気がする。そして、現代の家族と個人の困難を描いた名作ではないかと思い始めている。キーワードは空虚さ(=空っぽ)だと思う。少し考察してみたい。
本作の類似作品をあげるとしたら、山田太一「岸辺のアルバム」ではないだろうか。1977年に放映されたテレビドラマ史上の名作である(僕は原作小説の方しか知らない)。世間的に認められる「絵に描いたような幸せな家族」の裏側と崩壊、その再生の予感を描いた社会派のドラマだ。
夫婦(働く夫と専業主婦の妻)と子供二人の家族の物語であるところも、この映画と共通している。こうした家族はかつては〝標準世帯〟と呼ばれて、日本の制度(税制や社会保障など)は、この世帯を基準にして作られてきた。だから、家族の物語であると同時に、日本社会の〝標準的な幸福な生き方モデル〟に沿って生きることの困難を描いている。本作も同じ系譜にあるように感じる。
井川遥が演じる妻は今では少数派となった専業主婦だ。ただ、少なくとも2000年前後までは、こうしたライフコースは多かった。かつて女性の就労率グラフはM字カーブと言われて、結婚・出産前後で一度仕事をやめて、子供の成長などに合わせて、再び就職する(多くの場合、非正規雇用で)形だった。ただ、当時、高学歴女性の就労率を調べたら、就労率は回復せず、右肩下がりに近かった。それは、夫が高収入層であることから可能であったのだ。
おそらく本作の妻もかつては夫と同じ建築デザイナーで高学歴専門職女性。結婚とともに仕事を辞めたようで、このように女性がキャリアを諦め、子育てに専念するのは、つい最近まで少なくなかったはずである。
このような標準的な生き方、標準的な家族を無条件に良き生き方として受け入れる(受け入れざるを得ない)ことが、さまざまな困難につながる可能性があることを本作は描いているように感じられた。
遠藤憲一演じる建築家・ランドスケープデザイナーの父。家庭を守るためにも仕事で成功しなければならない。ただ、自分の内的動機ではなく、暗黙の社会ルールに従っているだけのようだ。だから、守ろうする家族との感情的な絆が持てていないし、自分の中から湧いてくる愛情みたいなものが弱い。内的必然性がないから、どうやって家族に接したら良いかわからず、〝標準的に正しい態度〟を取ってなんとか乗り切ろうとする。それは仕事においてもそうである。
芸術的な仕事でもあり、同時に社会を設計する大きな仕事でもあるのだが、クライアントの要望に応え、売上を上げ続けることに汲々としている。その後、デザイナーとして成功しても、何のためにその仕事をするのか、その仕事の意義や目的を語れない人物だ。その内的な空っぽさを台湾人の社員に見透かされたりして、尊敬も得られていない。
これは個人の問題ではないと思う。僕自身も社会的意義のある仕事と思い、ある仕事を続けてきたけれど、経営会議や事業開発会議で話されるのは、売上利益計画のことばかりであった。そして「今はそんな理想論を言っている時ではない。まずは売上利益を計画通りに上げることに集中するべきだ」と言ったような緊急対応が常態化していた。それが年々ひどくなってきたように感じるのは、会社の事情もあるだろうが、日本の状況とも関係あるだろうし、新自由主義的な企業運営が広がる中での必然的結末でもあったと思う。
そんな状況の中では、この父のような仕事に意義・意味を語れない人間になるのも当然かもしれない。つまり働くのは「生存のため」であって、内的必然性や社会的な意義を実現する「実存のため」の仕事なんて滅多に手に入らなくなってしまっている。
彼の息子、主人公の蓮もそれは同様だ。彼が花屋さんで働くのは、生活費のためで、それ以上の内的理由(職場が好き、人間関係がよかったり尊敬できる人がいる、意味のある仕事だといった理由)は持てていないようだ。もちろん、親からの仕送りもなさそうだから、生存のために働かなくてはならない。
彼の職場にも問題がありそうだ。花屋さんは、小学生のなりたい職業ランキングの上位常連の、憧れの仕事でもある。それなのに職場に活気も会話もなく、淡々と組立ライン労働者のように働き、そして突然「もう辞めます!」と叫んで職場を去る女性がいる。誰も引き留めない。
自分の「好き」を押しつぶされるほどの職場環境・労働環境なのだ。蓮くんが、ホームレス支援の炊き出しをランチにする場面があるが、彼は当たり前のようにそうしている。実際、生活が相当厳しいのだろう。東京で一人で働きながら暮らすのは楽ではない。それがアルバイト扱いなら尚更不安だし、苦しいのは当然だ。
彼には、何かやりたいことはないし、自分らしさなんてわからない。そもそも、それを追求する余裕がない。組織に入ってうまくやるような社会的スキルも身につけられていないようだ。それは父親もそうだった。父は、自分を殺し、周りに従い同調することで生存し、成功もしたけれど、常に〝それ以外仕方ない〟からしていたに過ぎなかった。
木竜麻生(「秒速5センチメートル」でも印象的役柄を見事に演じていた)演じる主人公の姉は、弟よりもうまく適応しているようだが、かなり危なっかしい。父を恨み、家族はもう諦めている。母親は父との家庭を夢見ていたが、子供には愛情を持っていなかったと思っている。そして、夢見た家族の姿を実現できず、絶望死のような最後を迎えたのを見ている。
それなのに、一緒に暮らして何かを作り上げようとも、特別な相手だとも思えない〝ただ当たり前のように一緒にいる相手〟との結婚に進もうとしている。母の人生の再演に向かおうとしているようだし、本人も不安を感じている。
もちろん外的な環境や暮らし方を変えることで、何かが変わったり、新しい発見があることもあるだろう。でも、内的必然性があまりにも空っぽだと自分の内側からエネルギーというものが全く湧いてこない。
だから、井川遥演じる母親の最後の言葉も「私は横になっているのが好きなの」というようなものだった。内的必然性を喪失し、生きるエネルギーが無くなってしまっていた。
この映画は、たまたま渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。その映画館のある宮下パークが主要ロケ地で、(僕が誤読していなければ、)遠藤憲一演じる父がこの宮下パークをデザインしたという設定だった。
かつての宮下パークの場所は戦後のバラックからの名残を感じる場所だった。ホームレスの人が定住していて、この世界での生存の困難さが可視化されている場所でもあった。それが、宮下パークですっかり漂白され、生きていくことの困難さは不可視化された。台湾人社員が言う通り、ここに生活していた人たちはどこにいったのだろう。この論理的空洞に、デザイナーの父は答えることができなかった。
この映画のテーマであろうタイトルの「見はらし」は何を言いたいのだろうか。
少なくとも、この映画に登場する人(そして現実もそうだけれど)現在を生存するだけで精一杯で、未来を見通せてはいない。そして、内的な基準は確立できておらず、だから内的基準から見えてくる未来の目標や、人生の目的も持てていない。
そして宮下パークに象徴されるように、現代の生存の困難さは不可視化されて、漂白され表面上は美しくなった社会で生きるしかない。「見はらしなき世代」の反語、あるいは省略としてのタイトルではないだろうか。
団塚唯我監督(1998年生、26歳)は、構造的にわかりやすく何かを告発することなく、直感的に鋭く空っぽな個人と社会を描き出したように感じた。監督本人の中にも、この映画の登場人物たちのような空っぽさがあって、空虚さを生きる自覚があるのかもしれない。そしてその現実の空虚さを写し取った物語として見事に描き切ったようにも感じる映画であった。
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