見はらし世代のレビュー・感想・評価
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木竜麻生さんが
「進化と消滅そして再生」
 今、渋谷の街には高層ビルが乱立し、いまだに再開発しているところもある。それ以前の渋谷は地上7階ほどの百貨店やどうとも形容できないビルやむきだしになった地面があった。再開発とは街の進化であるとともに古き物が捨てられ消滅することを意味する。
 東京生まれの団塚監督は今27歳。子どもの頃から渋谷の街を見ていれば、この変貌ぶりに一番気付いているのは監督自身であろう。そして彼らZ世代は高層ビルから街を見下ろす、まさに「見はらし世代」なのだ。この映画は渋谷の再開発という題材をとおして家族の在り方を撮っている。
 10年前、蓮は両親と姉、家族4人で海辺へバカンスに行った。しかし初日に父(遠藤憲一)が仕事の都合で仕事場に戻ると言い出し母(井川遥)と口論にはなるが一人東京へ帰った。そして3年後母は亡くなり、10年後、父は有名なランドスケープデザイナーとなって世界をまたにかけ活躍しているが、蓮(黒崎煌代)と恵美(木竜麻生)とはすっかり疎遠になっていた。
 蓮は久しぶりに父が東京に戻ってきていることを恵美に話す。蓮を演じる黒崎煌代の声は低く、くぐもっていてぶっきらぼうな話し方が蓮の無口で引っ込み思案なキャラクターを明確にしている。蓮は父に会いたいという気持ちをもっているが恵美はまったくの無関心である。もう父との縁は切れたとひどく素っ気ない。蓮は胡蝶蘭の配達を仕事にしており偶然父の展示会場に胡蝶蘭を届けに行ったさいに父を窓越しから見る。蓮と恵美の会話、蓮の仕事ぶり、父を見ている蓮の姿の映像が、何か無機質的に一瞬静止し単なる一枚の絵のように映る。動いていない、生きていない、虚無が覆う映像が印象的で、父と蓮・恵美の深い断絶を見事に表現している。それでも蓮は再度父と会い恵美を含めて紹介したい人(菊池亜希子)がいるから二人に会ってほしいと言われ恵美には内緒に指定された場所へ行く。すると幻のような驚くべきことがおこるのだ。
 この幻が登場するシーンから私は映像化されている場所を見ているのか、どこかほかの場所を見ているのか混乱してくる。恵美はさっきまで蓮と一緒に渋谷にいたのに、父の恋人と軽トラックに乗って海辺にいて別荘に入る。この映像表現はなにか。時空の超越か、渋谷にいた蓮と恵美は幻影なのか混乱が増幅する。父と幻は蓮と恵美を見ていない。
 父はバカンスを捨てたことで世界的なランドスケープデザイナーになったが家庭を崩壊させた。新たなものを手に入れるためには今までのものを捨て去らねばならい。まさに渋谷の街の再開発と同様だ。しかし幻の言葉は優しさにみちている。この幻の登場から映像は不可思議な時間が止まっているようにゆっくりと進んでいく。
 この幻は父と蓮と恵美に何をもたらしたのか。家族の再生。いやそんな甘くはいかない。父は幻に理解され許され涙する。しかし蓮や恵美は断絶から容易に解放されない。ただ恵美の横にいる幻からバトンを受けそうな新しき者、父の恋人が仲介者となりなんらかの化学変化がおこるのか。幻の出現は進化のために捨てられ消滅したものが、この家族の再生をうながしているように、寄り添うことなく、しかし冷たくなく蓮と恵美と父の恋人の前に姿を見せたように感じるのだ。
 高層ビル群の間をキックボードに乗って颯爽と走る若者たちの姿は生気と活気にあふれていた。蓮と恵美もこのように新しい街のなかで消滅したことを幻にまかせ家族という枠を大上段に構えず高層ビルから見はらすように大きな視点をもって生きていってもらいたいと思いながら高層ビルが乱立する渋谷の映画館を後にした。
水掛け論
渋谷が舞台。
仕事を優先し疎遠になった家族と
宮下パークの再開発がテーマになり
この2つを重ね合わせながらを描いている。
何かを得る為には何かを犠牲にする時もある。
生きているとその壁にぶち当たる。
そこには摩擦がおきて隙間が徐々に出来ていく。
その隙間を埋める為には時間もかかるし
お互いの労力と気持ちも不可欠。
新しく進化する世界、置き去りになり
排除される世界。
どちらが正しいか分からないし
何もしなければ理解できない水掛け論。
電球の落下によって失望した大きな損失が
分かり、替えのきかない大切な事を
個々に感じた気がした。
そして止まってる時間を破壊して前に進んだ。
最後のループに乗ってる4名。
一人は花屋で蓮が辞める時に辞める女性だよね。
お世話になり名前を覚えてる方には
『◯◯さん』ありがとうございましたと。
あの自分で決めた姿は潔く挨拶の仕方も面白い。
ループ運転姿は自分の意思をもち、見る
見はらしている感じ。
一人一人が自分のハンドルを持ち
未来に進み、晴れている光へ
個性と意見と意志を持っているようなにも。
後はハンドル持つのは自由だけど
責任を持ってくれますように。
家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語
見終わって「一体何を見せられたんだろう…」という感覚になった。
監督の意図や物語の意味がすぐに読み取れない作品は少なくないが、それでも多くの場合、登場人物の苦悩や葛藤、善良さに共感を感じたり、成長や変化にカタルシスを感じたりする。しかし、本作については、それらが自分の中にうまく起動しない感じであった。
主人公の青年、黒崎煌代演じる胡蝶蘭の配達ドライバーの蓮くんは、ほとんど自分の気持ちや、意味ある言葉を語らない。その場に合わせて言葉少なに語り、時々感情的反応を見せる。
彼が唯一、積極的に自分の意思を示したのは、崩壊した家族の再会を実現することだ。しかし、そこでも彼は黙っていて、どうしたいのかがわからない。家族の再生を試みたいのではなさそうだ。ラスト近く、父の精神崩壊のような涙に、彼は「ざまあみろ」と言わんばかりの邪悪な(僕にはそう見えた)笑顔を見せた。
ーーこんな主人公や家族のどこに、どう共感すればいいのだろう…。
…と、鑑賞直後は思ったのだが、一晩経って、自分なりの解釈・映画の構造が見えてきた気がする。そして、現代の家族と個人の困難を描いた名作ではないかと思い始めている。キーワードは空虚さ(=空っぽ)だと思う。少し考察してみたい。
本作の類似作品をあげるとしたら、山田太一「岸辺のアルバム」ではないだろうか。1977年に放映されたテレビドラマ史上の名作である(僕は原作小説の方しか知らない)。世間的に認められる「絵に描いたような幸せな家族」の裏側と崩壊、その再生の予感を描いた社会派のドラマだ。
夫婦(働く夫と専業主婦の妻)と子供二人の家族の物語であるところも、この映画と共通している。こうした家族はかつては〝標準世帯〟と呼ばれて、日本の制度(税制や社会保障など)は、この世帯を基準にして作られてきた。だから、家族の物語であると同時に、日本社会の〝標準的な幸福な生き方モデル〟に沿って生きることの困難を描いている。本作も同じ系譜にあるように感じる。
井川遥が演じる妻は今では少数派となった専業主婦だ。ただ、少なくとも2000年前後までは、こうしたライフコースは多かった。かつて女性の就労率グラフはM字カーブと言われて、結婚・出産前後で一度仕事をやめて、子供の成長などに合わせて、再び就職する(多くの場合、非正規雇用で)形だった。ただ、当時、高学歴女性の就労率を調べたら、就労率は回復せず、右肩下がりに近かった。それは、夫が高収入層であることから可能であったのだ。
おそらく本作の妻もかつては夫と同じ建築デザイナーで高学歴専門職女性。結婚とともに仕事を辞めたようで、このように女性がキャリアを諦め、子育てに専念するのは、つい最近まで少なくなかったはずである。
このような標準的な生き方、標準的な家族を無条件に良き生き方として受け入れる(受け入れざるを得ない)ことが、さまざまな困難につながる可能性があることを本作は描いているように感じられた。
遠藤憲一演じる建築家・ランドスケープデザイナーの父。家庭を守るためにも仕事で成功しなければならない。ただ、自分の内的動機ではなく、暗黙の社会ルールに従っているだけのようだ。だから、守ろうする家族との感情的な絆が持てていないし、自分の中から湧いてくる愛情みたいなものが弱い。内的必然性がないから、どうやって家族に接したら良いかわからず、〝標準的に正しい態度〟を取ってなんとか乗り切ろうとする。それは仕事においてもそうである。
芸術的な仕事でもあり、同時に社会を設計する大きな仕事でもあるのだが、クライアントの要望に応え、売上を上げ続けることに汲々としている。その後、デザイナーとして成功しても、何のためにその仕事をするのか、その仕事の意義や目的を語れない人物だ。その内的な空っぽさを台湾人の社員に見透かされたりして、尊敬も得られていない。
これは個人の問題ではないと思う。僕自身も社会的意義のある仕事と思い、ある仕事を続けてきたけれど、経営会議や事業開発会議で話されるのは、売上利益計画のことばかりであった。そして「今はそんな理想論を言っている時ではない。まずは売上利益を計画通りに上げることに集中するべきだ」と言ったような緊急対応が常態化していた。それが年々ひどくなってきたように感じるのは、会社の事情もあるだろうが、日本の状況とも関係あるだろうし、新自由主義的な企業運営が広がる中での必然的結末でもあったと思う。
そんな状況の中では、この父のような仕事に意義・意味を語れない人間になるのも当然かもしれない。つまり働くのは「生存のため」であって、内的必然性や社会的な意義を実現する「実存のため」の仕事なんて滅多に手に入らなくなってしまっている。
彼の息子、主人公の蓮もそれは同様だ。彼が花屋さんで働くのは、生活費のためで、それ以上の内的理由(職場が好き、人間関係がよかったり尊敬できる人がいる、意味のある仕事だといった理由)は持てていないようだ。もちろん、親からの仕送りもなさそうだから、生存のために働かなくてはならない。
彼の職場にも問題がありそうだ。花屋さんは、小学生のなりたい職業ランキングの上位常連の、憧れの仕事でもある。それなのに職場に活気も会話もなく、淡々と組立ライン労働者のように働き、そして突然「もう辞めます!」と叫んで職場を去る女性がいる。誰も引き留めない。
自分の「好き」を押しつぶされるほどの職場環境・労働環境なのだ。蓮くんが、ホームレス支援の炊き出しをランチにする場面があるが、彼は当たり前のようにそうしている。実際、生活が相当厳しいのだろう。東京で一人で働きながら暮らすのは楽ではない。それがアルバイト扱いなら尚更不安だし、苦しいのは当然だ。
彼には、何かやりたいことはないし、自分らしさなんてわからない。そもそも、それを追求する余裕がない。組織に入ってうまくやるような社会的スキルも身につけられていないようだ。それは父親もそうだった。父は、自分を殺し、周りに従い同調することで生存し、成功もしたけれど、常に〝それ以外仕方ない〟からしていたに過ぎなかった。
木竜麻生(「秒速5センチメートル」でも印象的役柄を見事に演じていた)演じる主人公の姉は、弟よりもうまく適応しているようだが、かなり危なっかしい。父を恨み、家族はもう諦めている。母親は父との家庭を夢見ていたが、子供には愛情を持っていなかったと思っている。そして、夢見た家族の姿を実現できず、絶望死のような最後を迎えたのを見ている。
それなのに、一緒に暮らして何かを作り上げようとも、特別な相手だとも思えない〝ただ当たり前のように一緒にいる相手〟との結婚に進もうとしている。母の人生の再演に向かおうとしているようだし、本人も不安を感じている。
もちろん外的な環境や暮らし方を変えることで、何かが変わったり、新しい発見があることもあるだろう。でも、内的必然性があまりにも空っぽだと自分の内側からエネルギーというものが全く湧いてこない。
だから、井川遥演じる母親の最後の言葉も「私は横になっているのが好きなの」というようなものだった。内的必然性を喪失し、生きるエネルギーが無くなってしまっていた。
この映画は、たまたま渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。その映画館のある宮下パークが主要ロケ地で、(僕が誤読していなければ、)遠藤憲一演じる父がこの宮下パークをデザインしたという設定だった。
かつての宮下パークの場所は戦後のバラックからの名残を感じる場所だった。ホームレスの人が定住していて、この世界での生存の困難さが可視化されている場所でもあった。それが、宮下パークですっかり漂白され、生きていくことの困難さは不可視化された。台湾人社員が言う通り、ここに生活していた人たちはどこにいったのだろう。この論理的空洞に、デザイナーの父は答えることができなかった。
この映画のテーマであろうタイトルの「見はらし」は何を言いたいのだろうか。
少なくとも、この映画に登場する人(そして現実もそうだけれど)現在を生存するだけで精一杯で、未来を見通せてはいない。そして、内的な基準は確立できておらず、だから内的基準から見えてくる未来の目標や、人生の目的も持てていない。
そして宮下パークに象徴されるように、現代の生存の困難さは不可視化されて、漂白され表面上は美しくなった社会で生きるしかない。「見はらしなき世代」の反語、あるいは省略としてのタイトルではないだろうか。
団塚唯我監督(1998年生、26歳)は、構造的にわかりやすく何かを告発することなく、直感的に鋭く空っぽな個人と社会を描き出したように感じた。監督本人の中にも、この映画の登場人物たちのような空っぽさがあって、空虚さを生きる自覚があるのかもしれない。そしてその現実の空虚さを写し取った物語として見事に描き切ったようにも感じる映画であった。
家族のやりなおし、を願うのはやっぱり父親
日本人だからなのか、家族を振り返らず仕事や酒・ギャンブルに没頭して、反省をするという父親像は、これまでもずいぶん描かれてきた  本編でもあったが、誰しも結婚をするときは理想の家族・家庭像を描いているはずなのに、子どもの成長期にその理想が損なわれてしまい、あとになって取り返しのつかない現実に反省する父親  しかし放置された子どもの方は本作でもそうだったが、そんな父親を侮蔑・軽蔑しているだけで、取り返せない時間を反省している父親の姿は滑稽だったりもする  成功しようが、失敗しようが家族を捨てた父親であるはずなのに、その再生を願う気持ちが息子・漣に残っているのが観る者にとって儚い希望を感じる  父親役の遠藤憲一さんは私と同世代で、37年前「メロドラマ」という作品(にっかつがポルノをやめて、一般映画ロッポニカを立ち上げた第一作)に、チョイ役で出ていた  あの強面を生かしたチンピラ役だったが、本作のように強面にもかかわらず弱さを持つ父親役などに最近よく起用されている  この遠藤さんをはじめ、活躍をしている中高年の男性には、他人事ではない気持ちを抱かさせる作品なのではないだろうか
成功や繁栄の裏には、多くの犠牲があり、それが家族だけではなくその街で暮らしていた住民やホームレス、人々の優しさも壊してきた渋谷という誰でもが知っていて、ついこの間完成した新しいその街を描きながら、そこに家族の問題が昔からずっと横たわっているのが、悲しくも人間らしいと思った
(10月23日 なんばパークスシネマにて鑑賞)
子どもたちに見えていたものは、案外本物の人格なのかもしれません
2025.10.23 アップリンク京都
2025年の日本映画(115分、G)
幼少期に壊れた家庭に向き合う子どもたちの感情を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は団塚唯我
物語は、栃木にあるコテージにて、ある家族が休暇を過ごす様子が描かれて始まる
父・高野初(遠藤憲一)は駆け出し中の建築デザイナーで、あるコンペの結果を待っていた
妻・由美子(井川遥)は元デザイナーだったが、娘・恵美(高校時代:石田莉子、成人期:木竜麻生)と息子・蓮(荒生凛太郎、成人期:黒崎煌代)を育てるために家庭に入っていた
その日は久しぶりの家族揃っての遠出だったが、そこに初のコンペの結果が届いてしまう
初は妻にコンペが通ったことを報告すると、彼女は「この3日だけは子どもたちのために」と不機嫌になってしまう
だが、コンペを通すことで家計が潤うと考えている初は、休暇を切り上げて東京に帰ろうと考えていた
初は翌朝には東京に向かおうと考えていて、その日だけは子どもたちと過ごすことに決めた
恵美と蓮を海に連れて行った初だったが、由美子はそのままコテージに残ることになる
それから10年と半年が過ぎ、家族はバラバラになっていた
初は仕事を選び、今では著名な建築家として名を馳せていた
宮下公園の再開発事業で功績を上げた彼は、その展示物のギャラリーを催すために日本に帰ってきていた
蓮は花屋の配送員として働き、恵美は近々恋人・明(中村蒼)と同棲し、ゆくゆくは結婚しようと考えていた
蓮は結婚のことを父に言わないのかと言うものの、彼女の中で父親はすでに過去のものとなっていて、義務も興味もないと言い切ってしまう
物語は、子どもから見た両親の離婚を描いていて、家庭よりも仕事を取った父と、それに愛想を尽かした母との関係に悩む様子を描いていく
悩むと言っても、それはその関係破綻に対して「自分たちの責任があったのでは」と感じている部分があって、母親の気持ちに寄り添えなかったり、あの時こうしていればと言う後悔が残っていたことが描かれていく
そして、そう言った根幹にあるモヤモヤが今の自分たちの生活に影響を及ぼしていて、蓮はやり直したいとは思わないけどはっきりさせたいと考えていて、恵美は過去のものとして封印したいと思っていた
後半では、「あんなことになった母」がPAに登場するのだが、あれは家族だけが見る幻想のようなものなのだろう
母が失踪したのか、自殺をしたのかは定かではないものの、感覚的には後者であると思う
再会の母は10年経っているのに若々しく、それは家族そうであってほしいと思う母親のイメージなのだろう
彼女と再会することで、恵美は自分の感覚が正しかったことを再確認するのだが、これは両親の離婚問題は結局「子どもを言い訳にした男女関係のほつれ」であると悟っている部分があった
それに対して、蓮は男女関係には疎い部分があって、泣き崩れるちちを見て「こんなくだらないことにこだわっていたのか」と笑ってしまう
そうした過去は単に過去であり、そういったものが可視化されることで「見はらし」を得ることに繋がっていくのだろう
自分の中にあるモヤモヤにどう向き合うかは世代によって違うが、映画内で描かれる若者というのは、このような感覚を持っているということを示唆していたのかな、と感じた
いずれにせよ、子どもの頃に両親の不和があって、その原因が自分ではないかと考えたことがある人には刺さる内容で、父親が偉大だったからこそ巻き起こる感情というものがあるのだと思う
どうしようもない父親とか、仕事を選んだ割には結果も出ずにアルコールに埋もれていたとかなら起きない可能性もあるのだろう
それぞれが過去のある瞬間を後悔しているものの、それをどのように埋め合わせるかは難しいところがあって、両親の離婚問題の余波というのはこういうところにあるのだと思う
結局のところ、離婚するしないは男女問題であり、どんなに言い繕っても子どもの存在は都合の良い悪いを含める言い訳でしかない
そう言った意味において、なんとなく過去を思い出すなあ、という映画だったように思えた
見はらしはどう
再開発/再構築で得られるものと失われるもの
高校時代に最低でも週に6〜7日は過ごしていた渋谷も今ではすっかり様相が変化して迷子になりそうだし、自分が知っている宮下公園の姿は既に跡形もない。
街の風景も家族の在り方も、その年代によって異なる姿を見せ、どこで・誰の立場で見るかによってまったく違って見えてくる。
再開発によって得るものもあれば失うものもある。再開発によって恩恵を受ける人々も多数いるが、それによって被害を被るのは常に弱者であり、マイノリティーたちだ。親の不和で家族が解体されたときに犠牲になるのも常に子どもたちであるように。
仕事が軌道に乗り始めのめり込みがちな父親と、仕事より家族との時間を優先して欲しい母親の間の亀裂。せっかく別荘で休暇を過ごしに出かけてきたが、仕事の電話が入ってとんぼ返りする父親。そのしばらく後に母親が亡くなり(原因への言及はないが、精神的にかなり参っていた様子なので自死の可能性も高い)父親は自分のキャリアのためにシンガポールへ子ども達を置いて出ていく。親に捨てられたという思いと共に成長し、10年後には、無理して斜に構えながら社会を見て「家族」という概念に距離を置くことで寂しさを忘れようとする姉と、子どもがすねたまま成長した寂しさがゆえに直接的に怒りを露わにする弟となって父親と再会する。
そうでなくとも世知辛い世の中。黙々と文句を言わずに働く社員もいれば、理不尽さに我慢できずにとっとと仕事を辞める社員もいる。
そんな社会で過去を忘れて前向きに生きるのは薄情なのか?
でも、薄情にもとっとと仕事を辞めた社員は時折り沖縄旅行を楽しみながら颯爽と渋谷の街を電動キックボードのLUUPで駆け巡っている。
かつてのしがらみに拘泥せず、達観したかのように世の中を「見はらし」ながら生きていくのが、ひょっとすると、現代の若者の生き方なのかも知れない。
まだ20代の監督による新しい感覚の作品。東京(渋谷)の街を切りとる額縁構図なども多用した絵作りも(冗長だという意見もあるようだが)個人的には嫌いじゃない。
刺さる刺さる オサレな感想言えればどんなに良かったかw 無理を飲み...
令和の小津映画は分かるが、脚本・構成が今イチ
話題の団塚監督の見晴らし世代を観た。
テーマは令和版家族再生の物語で一部映画専門家からは小津安二郎東京物語の令和版だとの声もある。
なるほど、渋谷の都市再開発と家族再生をテーマにした作品だなと言うのは分かる。団塚監督は若手監督だが、よくチャレンジしたなと感じた。また、遠藤憲一、井川遥の演技はさすがだし、福田村事件以来久々観る木竜麻生は演技が素晴らしかった。木竜麻生は今後も楽しみ。
ただ、黒崎煌代の演技は主役だしもう少し感情表現を見せてほしかったし、脚本・構成も分かるけど今イチだしラストもあのシーンはいらない。ツッコミどころが多すぎる。今の時代の家族はこの作品のとおりかなと思ったが、現実は複雑。また、祖父母世代は介護が必要な人もいる。今の令和の家族はこうですよと強調しすぎ。
ラストはいらないシーンではなくて何か観客に訴えかけるシーンが欲しかった。注目作品だっただけにがっかり。
矛盾とすり替え
ファーストシーンから、映画のリズムに引き込まれました。
あらすじや主演もノーチェックで見たので、
ある違和感から、ものすごくゆっくりとじわじわズームしていき、家族の物語であることがわかる。
その後も要所要所に印象深い構図をしっかり残していき、後半へと再び繋がる流れが見事で唸りました!
スタイリッシュな建物や空間を意識させる構図が多いのは、建築家の物語だからかと思っていましたが、鑑賞後のトークで街を取り巻く群像劇でもあると知り、ラストにも納得がいきました。
この映画は世の中に溢れる矛盾とすり替えを突いてくる。
お祝い専用の花屋は殺伐としているし、
誰もが集える公園を作る為に人を排除する。
自分の仕事を正当化する為に、目的と手段のすり替えが必要なように
姉が一生許せないのは、父親ではなく自分自身なのだろう。
でも、、突き詰めた結果、母親のような極端な手段を選択してしまう危うさもあるから
すり替えられない時は、根本的な問題解決に向かう前に戦線離脱するのもアリ。
良くも悪くも物事から距離を置き、解像度を低く保つことに慣れてしまっている。
タイトルにはいろんな意味が込められていると思いますが、私はそんな風に捉えました。
街ってそれぞれ個性があって面白い。
人が街を形作っているようでいて、実は街が持つ個性に人が吸い寄せられている。
巨大な生命体のような気もします。
それで言うと都市計画は明らかに集まってほしいターゲット層ありきでデザインされている。
私が上京してきた頃は、飲んだ帰りに1人で宮下公園を歩くのは怖い感じだったので、MIYASHITA PARKの芝生がスタバ片手の若者で埋め尽くされている光景には驚きました。
金網で囲われたスゲボ場や運動施設を使うのには申し込みが必要だし、23時には閉まっちゃうし…きちんと管理が行き届いた施設ですね。
コンセプトの狙い通りの場所になるのか?
今後どんな風に成長していくのか楽しみです。
カンヌ監督週間出品とのことで、そもそも公開が楽しみな作品でしたが
PFF2020/2023入選の寺西涼監督が音楽を担当されているとのことで期待値UP!
話し声が聞こえるようなオープニングから面白くて興奮しましたが、中盤の展開で「だから寺西監督なのか!」と、ものすごく納得しました。
チャネルが合う瞬間と言いますか、寺西監督のテーマとリンクしている。
PFF2021入選の蘇鈺淳(スー・ユチュン)監督も少し出演されているとのことでしたが、ガッツリ印象深い役で驚きました。
違和感を口にすることで、誰の為に何をしているのか?目的と手段のすり替えを指摘する、とても重要な役どころでした。
素晴らしい才能が結集した『見はらし世代』
今後この世代が作る映画が楽しみです!
天才監督現る! 既存の物語に収束しない独自さが素晴らしい。
初(父:ハジメ)が蓮と偶然に再開して(最初互いに顔を見ただけ、翌日の再開)、蓮は父に「わかってないな」と毒づく。
しかし父はいったいあの状況で何が言えたのだろう。
そして、蓮は、父がどのような態度をとれば納得できたのだろう。
蓮はその後、車の中で泣きじゃくる。タクヤはそばで泣き顔を見てしまうが、何が起こっているかわからず、そっと知らないふりをする。
ポイントは蓮自身、自分の感情を説明できないだろう点だ。
(このタクヤが全編よい味を出している。)
対して、恵美(娘)は
「蓮はなんとなくお父さんが反省して、できればもう一度家族三人でとか、そういうことを期待しているのかもしれない。でもね、もうそういう、現状を無理に変えようとか、いわゆる向き合うとか、そういうの私には必要ないの」
「私もう昔のこといいの」
このあたりのセリフはいかにも既存の物語にありそうな内容だ。
このいかにもの達観が「見はらし世代」と感じた。
さらに、
「私だけが前向いてて何か悪いみたいじゃん」
とくる。
姉の恵美のセリフはまるで安手のカウンセラーのセリフを自分で構築して、なんとか自分を保っているように見える。
弟の蓮は「ていうか、こっちが前だよ」と答える。
この蓮のセリフ一つでこの映画は稀代の名画となった。
息子と父の心のありようは、私たちが持っている物語のどこにも収束しない。
一言で要約できない。
この微妙で複雑なこころのありようは、ハリウッドの対極にある。
父は、死んだ母の幻影(父も、姉も、弟もはっきりと認識しているが、母には夫(父)しか見えていない)を送った後、「すまない」と一言のあと、泣き崩れる。
息子が泣いたように。
蓮が黄色のポーチを注意してもやめない。
33000円の胡蝶蘭の花を一輪切り捨て880円がこれだという。
自動販売機で缶コーヒーを買うシーンが繰り返される。
この空気感の演出はずば抜けている。
初(遠藤憲一)は自分の理想の為に家族を捨てるわけだが、そこに葛藤がある。
蓮も簡単に父を恨むことができない。
世に、ひどい父親像はいくらでもある。
それに比べて初は現代的なポリコレの中にいる。
渋谷というどんどん汚いものをきれいなもので覆い隠す舞台背景が秀逸である。
最後にLUUPに乗った4人の若者が登場し蕎麦の話などする。
これは唐突であった。
Offical Bookを参照しないではわからなかったのが残念。
最後の女性は「奈月」。蓮が解雇されたとき、こんなところで働けませんといきなりやめた女性だ。
蓮の何かをこれから補完する象徴なのだろうが、さすがにこれは分からない。(これで星半個減点)
時間の前後する物語はついていくのが大変だが、車載テレビの、何度付け替えても落ちてくる照明の話で、場面の時間を切り替える手法は面白い。(大成功とはいいがたいが…)
団塚唯我 1998年生まれ。27歳
脚本と監督。
天才現る!! ブラボー!
見逃さないでよかった。
ひとりよがりな映画
再開発された宮下公園、ミヤシタパークか主な舞台になって、ある家族の物語が展開されるのだけど、もうご都合主義が満載で、私には無理でした。
何が言いたいんかい?!
再生できなかった家族の再出発物語?再開発反対?
都市というコミュニティと家族というコミュニティを並走して描いていくのだが、人間描写が浅く、刺さってこない。
ドキュメンタリー風を狙ったのか、どのカットも不必要に長く、テンポが悪い。
訳のわからない電球話から母親の再登場。
最後はループに乗った、知らないカップルが蕎麦の話をして終わる。思わせ振りでさえない、観客置き去り。これが若い世代に受けるんですか。ええかげんにせいよ!
オモロイやんw
はじめ本作の存在を知ったのは
吉岡里帆ナビゲートのURのラジオ番組だった。
団塚。の名称を聞いて僕が思ったことは
え〜やだなぁ。あのオッサンの親族?
独りよがりなカッコつけた映画じゃないの!?
だ。
が、観ないでごちゃごちゃ言うのは違うよね。
と観に映画館へ
ぶっちゃけ観てて痛快。観に来て良かったである◎
カンヌでの評価も好評で受賞した。のも
わからんけど
きっとこの世代からハッキリと引導を渡すような
作品が出てきた!と言うことに対する賞賛
だと思うのだw
もっと広く見はらして社会への働きかけを
結果として残してこなかった世代の一部だけが
楽しく幸せを感じる世界の在り方に対して
可笑しいよ!ってね!
まぁ知らんけど僕はそう言うメッセージとして本作を
観ました。痛快痛快オモロかったわ〜
物や場所を雄弁に語らせる事は難しい、?
物や場所が、時に人よりも雄弁に語る時がある。
そういう映画は少なくない。
じゃあこの映画は?
もっと「宮下パーク」の持つ歴史や時間を描ければよかったのか、
はたまた描きたい人物たちと場所との関係性か、描く量のバランスか、
何か色んなことが足りてない気がしました。
物や場所が、時に人よりも雄弁に語る時がありますが、
この映画はそれに頼りすぎてはいませんか?
映画理論や編集、観客に頼りすぎて、人を描くことから逃げてませんか?
ループのりながらそばの話するラストは怒り心頭でした。どれだけ観客のこと馬鹿にするんだろうと。変な怒りですよね。勿論、馬鹿にしてるわけではないはずだけど、なんだろう、お金払って2時間みてるのに面白さのかけらも貰えなかったからそう思ったような、物語をまとめるつもりの無いスタンスに「そうは言ってもさ」と悲しくなったからか、
とりあへずカンヌという称号がその怒りの原因の一部をつくってることは確かです。(まじカンヌって何なん)
面白くなかった。
今日みた感想はその一言に尽きます。
怒りが収まらず、余計な事追記させて下さい、↓
想像してしまっただけなので、当てはまらなければ私を鼻で笑ってどうか見逃して下さい
もし、もし同世代の監督たちと、この映画の面白さを語り合ったり、俺たちを理解できないあいつらの事なんか忘れて作りたいものをつくろうぜ、
なんて話しているのであれば、本当に救いようが無いと思います、
何でしょうか、ここ数年の、海外で賞を取る日本人若手監督作品の品のなさと思いやりのなさは
スパハピもナミビアもねおそらも奥山由之もみんな全部つまんない!!!!!!クソ国がっ
賞なんてどうでもいいから面白い映画作ってくれよ頼むよ映画ってエンタメだろ?エンタメに生かされてきたんだろ、エンタメ作ってくれよ頼むよ
再開発と再構築
レビュー評価が両極端なので、正直どうなんだろうと、観るかどうか迷ったけれど、自分は嫌いじゃなかった。
別荘での導入部が、どちらにもイマイチ共感できないまま、いきなり10年半後に戸惑ってしまった。
ワンカットがちょっと長めかなぁと思うところはあるものの、ストーリーも、インディペンデント系の邦画によくあるポヤーンポヤーンと何の楽器で演奏してるか分からない劇伴曲も、けっこう好みだったりする。
わりと吹っ切れちゃってる姉と、反発しながらも父親を諦めきれずにいる弟の対比が良い。
レストランのシーンで、は?とはなったけど、奥さんの想いが伝わって、家族、夫婦、親子のかたちが再認識できたのは良かったかなと思う。
ラストシーンは全くもって意味が分からない、なんで蕎麦?
急に出てきて「主演です」みたいな振る舞いの女の子は、大手芸能プロダクションからねじ込まれたのか、はたまたLUUPのプロモーションなのかと邪推してしまうほど、謎のシーン。
ミヤシタパークって、ヒューマントラストシネマの向かい側だから、よく見るけど入った事はない。東京に住んでた頃はなかったし、おっさんには不似合いすぎる。
今の渋谷が嫌いなわけではないけど、人が多すぎて移動がしんどい。
東急文化会館やシネマライズ、シネセゾン渋谷、シネアミューズとかあった頃の渋谷の方が好き。
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