「聖者の犠牲のうえに成立する祈り」愚か者の身分 KaMiさんの映画レビュー(感想・評価)
聖者の犠牲のうえに成立する祈り
あまり複雑なお話しではないが、緩急の付け方がよくて最後まで一気に見てしまう作品だった。
前半は半グレ集団の下っ端でうだつの上がらない生活をしている若者が描かれる。「何かもっと面白いこと起こらないの?」という観客の不満をくすぶらせるのが上手い。その分、後半の破局は「うわわわ、こんなことまで望んでないよ」と目をそむけたくなった。
そもそも半グレのカモにされる冴えない男性たちと、彼らを騙す若者たちのどっちがマシなのか。新入りのマモルを見ていると「もっと手際よくやれないのか」という思いが募るが、犯罪の先には集団の上下関係にがんじがらめになり、抜けられない未来も見える。
どちらにせよこのままでは危ない。「運命の日」の前、マモルに向き合ったタクヤ(北村匠海さん)の空虚な目は何を見て、何を選ぼうとしているのか。その先に待っていたのは、「死んだ魚の目」という比喩を通り越し、人間ながら魚のように扱われる末路だった。
わからなかったのは、タクヤがそれほど危ない橋を渡ろうとした動機である(マモルたちに大金を残す、というだけでは弱い)。リスクを感じていたはずなのに、なぜ上司役の罠にはまったのか、そして無警戒のまま自宅に戻ったのか。
タクヤのメールで事後的に意図が告白されるところは拍子抜け。スマホの時代にも「君が今この文を読んでいるころ、俺は…」っていうやり方があるのね。
ただ、タクヤを「動機なき受難者」として描くことこそ映画の真意だったのかもしれない。「映画の中で何かが起こってほしい」という観客の欲望を一手に引き受ける形で、タクヤは聖者のような位置に押し上げられる。
後半は、犠牲者となったタクヤ、それを目撃したマモル、梶谷、希沙良にも、「ごめんなさい、少しでも幸せになってください」と祈らずにいられない。
煮魚を食べる、牛乳を買う。そんな日常すら応援したくなる。大げさかもしれないが、私たちの代わりに罪を背負った人への贖罪の気持ちだ。
そのぐらい絶対的な存在を描かなければ、この世界の底辺には光が当たらないということなのだろうか。それを描こうとする映画の深い絶望と意志を感じた。(*加筆修正しました)
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