旅と日々のレビュー・感想・評価
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言葉を離れて、旅せよ人よ
つげ義春の原作を知らずに映画を観た。パンフレットを読んで、これは想像以上につげ義春をフィーチャーするための映画だと思ったので、原作も買って読んだ。
短編2作をもとにして映画は作られているのだが、前半の李が脚本を書いた映画、という体裁の劇中劇が「海辺の叙景」、後半の李とべん造のパートが「ほんやら洞のべんさん」をもとにしているようだ。
観ている最中は、随分渋いロードムービーだなぐらいにしか思わなかった。ちょっと驚いたのは、佐野史郎のくだりぐらいだろうか(あ、佐野史郎きた! もう死んだ! えっまた佐野史郎??みたいな)。話の構造から、「カメラを止めるな!」を思い出したりした(本作は冒頭でネタバレしているが、劇中劇が長いので)。
ラストシーンのあと、李はインスピレーションを得ていい作品が書けたんじゃないかな、と漠然と思った。
原作を読んで、映画で李が言っていた「言葉から離れる」という感覚が、物語のテーマなのではないかという気持ちが強くなった。
言葉のくびきから逃れたい、という彼女の気持ちを想像しながら眺めた一面の雪景色、実際には私一人では絶対に泊まることのないであろうべん造の宿。うさぎ小屋に書かれたうさぎの名前、元妻の実家に鯉を盗みに行くべん造。そこここに散りばめられた微かな可笑しさや癒しや哀しさが、ちらちらと光って消えてゆくような、何かとてもデリケートなものを見ているような気持ちになった。
旅で非日常に身を置くことで言葉から離れる、ということが何となくわかる気がした。
一方で、正直よくわからないままの部分も多かった。
根本的な話だが、まず原作「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を組み合わせた意図がわからなかった。劇中劇の内容は、映画の中では李の作品(厳密には李がつげ義春の作品を映像化したもの)であるということ以外に、李の現実の物語との相互の影響というか組み合わせの妙がわからず、「海辺の叙景」である必然性を感じ取ることが出来なかった。河合優実のビキニ姿が盛り込めて、映画的にアクセントが作れた……くらいだろうか(レベル低くてすみません)。
パンフレットの三宅監督インタビューには「夏と冬を組み合わせることでそれぞれの魅力もより味わえるのではないだろうか」といったことを考えた、とある。映像的なコントラストは確かにあったが、それだけでは監督の意図を十分読み取れていない気もする。つげ作品の魅力を理解することが鑑賞の前提にある映画、という印象を受けた。
正直強烈に刺さる作品とまでは言えなかったのだが、原作にはコアなファンも多いだろうし、かねてから評価されている作品が原作なのだから、私の理解が及ばない部分があるのだろうと思う(弱気)。映画がきっかけで原作を一読しただけの段階で何が言えようか。
原作云々を一旦切り離して感想を言えば、ロードムービーとしてシンプルかつ本質的。迷いのある人間が、旅で異質な誰かと触れ合い、前向きに生きる力を得る。単純にそれがよかった。映像も美しい。
そして、言葉から逃れるという感覚を思い出させる、言葉の外側の感覚を研ぎ澄まさせてくれる。原作を知らずとも、そんな体験があるだけでも観る価値があるのではないだろうか。
ガンギマリした画の迫力と奥行き
映画の冒頭は確か東京のビル群だったと思うのだが、そこにはただビルとビルが重なり詰め込まれフレームに収まっていて、その画として決まりっぷりに膝を正した。そして後部座席で河合優実が寝転がっている自動車の窓から、ネットで覆われた崖の岩肌が映っている。それだけでもう前半「海辺の叙景」パートが醸すただならぬ空気が伝わる。さらにどっちに倒れてくるかもわからない河合優実の危うさが画面に置かれることで、大したことは起きないが--なんて前置きするのががバカバカしくなるくらいエキサイティングで目が離せない。4:3のアスペクト比は大きくうねる波を映すときにも効力を発揮していて、こっちは波のうねりに合わせてわあわあと狼狽えながら眺めていることしかできない。
トーンとしては打って変わってのんびりする後半も、雪景色の明るさとその向こうの暗さや、民宿の中の暗さと窓の外の世界の広がりが、しんしんと積もる雪のようにじわじわと押し寄せてきて、ずっとヘンな緊張感がある。ただそれがしんどいとか怖いとかではなく、わりとしょうもない人の営みと、併存している世界の境界線を登場人物たちと一緒に漂っているような、ほんのりした非日常感みたいなものはおそらく旅情にほかならず、シム・ウンギョンが帰っていく頃にはしょうがねえなあ自分もまあやれることをがんばりますかくらいには背中を押してもらえていて、とてもありがたい時間だった。
つげ義春の漫画の映画化。なかなか尖った映画。で、ちょっと癒し系で、人生を温かく見つめるような映画。
つげ義春の漫画の映画化。なかなか尖った映画でした。
原作は、前半が「海辺の叙景」で後半が「ほんやら洞のべんさん」。
主役のシム・ウンギョン扮する脚本家が書いた映画が「海辺の叙景」という設定。で、「自分には才能がない」と自信喪失の中で、旅に出る。そこからが「ほんやら洞のべんさん」の話になる(原作では、漫画家の男だが、映画では女性のシム・ウンギョンの脚本家)。
前半の「海辺の叙景」は、河合優実がちょっとアンニュイで、ドキッとする色気を感じさせて、どことなくつげ義春の漫画に出てきそうな雰囲気がある。取り止めのない感じもつげ義春の漫画らしい。まるで映像のコラージュのような趣(いわゆるストーリーものではない)。圧巻なのは、夕景から暗くなるまでをワンカットで撮っているシーン。ほとんど人物の輪郭が見えなくなるまでの長回し。多分このシーンのために今回は、16ミリフィルム撮影ではなく暗さに強いデジタルカメラを使ったのでは、と思う。それと海の中のシーンもちょっと怖い。波と雨の中で泳ぐ二人のカットバック。で、唐突に終わる(というか大学で上映しているシーンに繋がる)。
見ている側は言葉にならない中途半端な気持ちのままに。
で、脚本家は旅に出る。ここからは、トンネルを抜けると「雪国」というベタだけど美しいシーンから始まる。「ほんやら洞のべんさん」の話。
こちらは、堤真一の素晴らしい怪演があり、楽しい話になった。ラストに熱が出て、警察に連れられて医院に行く事になるのは、映画のオリジナルで楽しい。
で、シム・ウンギョンの脚本家は帰ってゆく。スランプは脱したかどうかはわからないが、前向きな気持ちで帰っていったと思わせるラスト、タイトル「旅と日々」が出る。(ほのぼのとした音楽が流れる)
ちょっと癒し系で、人生の行ったり来たりする気持ちを温かく見つめるような映画。
映像は、シンプルで揺るぎない。風に飛ばされる帽子や暗い中での猫の動きが楽しい。音楽も良かった。
(劇場では、後半、大欠伸をする人がちらほらいた。そんなリラックスした気持ちのいい時間が流れていたのかもです)
何度か見直しながら、いろんな発見がありそうな映画。繰り返し見て、もっと味わい尽くしたくなる映画でした。
不完全さの美しさ
気付かないうちに、無駄な物に囲まれた生活を送っていた脚本家(シム・ウンギョン)が砂漠を旅して、偶然見つけたオアシスで息を吹き返した印象を受けた。
実際に旅をしていたのは雪国で電気も通って無い様な宿で、只一人宿主のべん造(堤真一)のボソボソと話す言葉にスランプに陥っていた事も忘れさせられていた。
べん造の「お前様はベラベラとよく喋るね。」の言葉に表されてる様に、この映画は侘び寂びの精神を思い出させてくれた様に思えた。
堤真一さんの惚けた顔で東北訛りって、最強の癒しですね。ホッコリさせられました。
言葉ではなく
主人公の李は悩める韓国人脚本家。
脚本を書いている。
海に不釣合いな青年とどこか影のある女性が海辺で出会う。河合優実が出てくるとどこか不安気で何か破綻のではないか?という緊迫感が出るのですね。
それが李が「海辺の叙情」をベースに脚本を書いた劇中劇であることを後から知らされます。
「気晴らしに旅でも出たらどうか」という助言にしたがい旅に出る李。
そこは闇山深い雪に埋もれそうな一軒家の宿。
その中年の宿主とのストーブもなく、息も白くなるような不便さながらもユーモラスなやりとり。鯉を盗むのはちょっと不謹慎ながらも笑ってしまった。
李は口数も多くなり「やけにベラベラ喋るなと」ツッコミを受けるほど活気に創作意欲を取り戻していく。
海は楽し居場所ではなく、荒々しい岩肌や土左衛門上がった話などどこか死の匂いが漂っている。その土左衛門の話に対して「それは怖い話じゃなくて、悲しい話だね」と言った河合優実の言葉が印象的。
冬の雪山は鎮まるというか何か人の心を洗ってくれる様な佇まいがある。
「夜明けのすべて」で社会性のある映画を作った三宅唱監督ではありますが、一転、大自然に畏怖を覚える様なプリミティブな映像体験で魅せてくれる、そんな映画になったなと思わされました。
旅をするのっていいよなぁって思った。
・映画内映画の河合優実の青春の不安定な日常シーンが続いて、ここと現実がリンクするような映画だったらしんどいなぁって思っていたらわりとすぐに終わって、脚本家当人の話になってそこから主役が暗くもなく明るくもなく、何か満たされない感じの雰囲気と寂しい風景とが合わさってとても良かった。観終えてから思うけど、冒頭の開放的なシーンがあっての後半の閉鎖的なシーンがあったわけなので、ちょうど良かった。
・後半は孤独な中年がひとりで経営をしている古い宿がメインだった。真冬の雪中で営業してるのかも怪しくて閉鎖的だし、どうやって生計を立てているんだろうと不思議だった。そのシーンが続いてて、隣村の錦鯉を観に行くため夜に月あかりを雪道と川を徒歩で渡っているし、これはいつの時代の話なのか分からなくなってたら不法侵入で警察が軽自動車?で宿に車で来てて、そういえば車のある時代だったと驚いた。
・旅行をしていると帰るのがとても嫌になってくるけど、宿があれだともう帰ろうかなって思えるような気がした。旅をするのっていいよなぁって思った。
眠くなってしまった
前知識無しで鑑賞。
自分が思っていた感じでは無く、
それは良いんだけど、
全体を通して、眠気を誘う雰囲気で、
寝不足と昼食後という事もあり、
中盤からはウトウト^^;
前半の自然の中での少年少女の文学的な描写。
佐野史郎も言っていたエロティックな雰囲気。
河合優美はセリフがなくても魅せられる、
良い役者だと思った。
後半の脚本家と宿主の堤真一とのかけ合い。
暗い雰囲気で何か答えがある訳でも無いが、
文字から離れてみるには旅が良いんだろう。
ただ、中盤から後半にかけては、
雪国のシーンは、本当に静かで、
睡魔が限界だった(( _ _ ))..zzzZZ
しっかり起きていれば、
もう少し楽しめたのかもしれないとちと反省。
タイトルなし(ネタバレ)
韓国出身の脚本家・李(シム・ウンギョン)は、監督からつげ義春の漫画「海辺の叙景」の脚本化を依頼されていた。
完成した映画は大学で上映され、ティーチインでの質問に「自分には才能ないな」と答えた。
しばらく後、上映会で李脚本映画に対して「エロスを感じました」と感想を述べた教授(佐野史郎)が死去。
弔問した教授宅で、亡きひとそっくりの双生児の弟から手渡されたカメラを持って、李は東北の温泉地に旅に出かけたが、あいにく空き部屋がなく、雪深い商人宿ともなんとも判別のつかない古い民家にたどり着き、主のべんさん(堤真一)と数日過ごすことになった・・・
という物語。
生と生、の映画。
(性ではない)
若い生にはエロスの香り。老いた生にはペーソスの匂い。
みずみずしい肌と垢じみた肌。
画面は、青と白の対比。
夏と冬の対比。
対比するも地続き。
つげ義春の漫画との比較のため、小学館文庫の『紅い花 異色傑作選2』を再読。
「海辺の叙景」は大きな差異はないが、「ほんやら洞」は漫画で最も効果的な「鳥追い」のエピソードが省略されている。
映画に挿入すると、「非日常」の要素が高まりすぎるという判断と思料。
個人的には「海辺の叙景」パートが面白かった。
劇中、佐野史郎演じる教授が言うように、何気ないのにエロチシズムを感じた。
蛸に食べられてしまう土左衛門の件、頭のない魚の件、強雨の中の游泳の件など、随所に死的なものが挿入されているからだろう。
対して「ほんやら洞」の方は、これまでに映画化されたつげ義春的なペーソスやオフビートなイメージのままで、やや凡庸に感じました。
一般的には、こちらの方がおもしろいと感じられるだろうが。
つげ義春の世界の、現代的な見事な再構築!
『旅と日々』を観て数日が経った。未だに奇妙な感覚が抜けない。
「感動した」とか「癒やされた」というような感じとは何となく違う、狐につままれたような感覚だ。どこかの異世界に迷い込んで、現実に送り返されたような、時差ボケみたいな感じが残っている。
本作は、つげ義春の『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』を原作としている。何冊か手元にあったの古いつげ義治の本をひっくり返したけれど、見当たらなかったので購入して読み返してみた。いずれも20数ページの短編だ。
映画では、『海辺の叙景』は、シム・ウンギョン演じる主人公の脚本家の手による河合優実主演の映画作品として、『ほんやら洞のべんさん』は、脚本家の旅先のエピソードとして、原作にかなり忠実に描かれていた。
エピソードは忠実だけれど、一つは劇中劇として、もう一つは、何となく行き詰まっている脚本家の旅として、かなり大胆に再構築することで、つげ義春の世界観を保ちつつ、三宅監督独自の現代的な作品に仕立て上げている。
かつて、つげ義春が描いた「行き詰まり世界」に接触し、そこから帰還するという「回復の物語」になっていると言えると思う。
つげ義春が活躍したのは60年代後半、漫画雑誌「ガロ」を舞台にしてのことだ。高度経済成長の時代に、「少年ジャンプ」の「努力・友情・勝利」といった前向きな価値観や、生産的で貢献できる人間になるべし、という価値観が強まってきた時代だ。そんな中、白土三平や水木しげるらと共に「ガロ」というアングラ世界で、経済的な繁栄や、成功物語からこぼれ落ちてしまった人を描いていたのがつげ義春だった。
私がつげ作品を読んだのは多分90年代に入ってからだったと思う。91年に竹中直人監督による映画『無能の人』が公開されるなど、つげ義春はちょっとしたブームだった。
90年代は「自分探し」という言葉が流行語になるほど「何者かにならなければならない」という強迫観念が強くなった時代だったと思う。しかし当然、ただのサラリーマンにそんな手応えのある時間などない。
当時の僕はつげ作品の中に「自分よりもっとダメな人」を見出し、その救いようのなさに安心する気分があったのだと思う。生活のために石を売ろうとして、上手くいかない主人公。そのあまりに不器用で、自ら望んで失敗を引き寄せてしまうような生き方に共感する部分があった。
つげ義春本人もまた、自身の分身であるつげ作品の主人公と同様に、社会との違和感を抱え続けた人物である。貧困旅行と称して寂れた温泉宿に長逗留し、蒸発願望を抱え、描く苦しさに胃を痛め、健康を害していた。
そんなつげ義春は一昨年、フランスのアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞し、日本芸術院の会員に推挙された。かつて「無能」を標榜した男が、芸術家の最高峰として歴史に名を刻んだ。本人はかなり居心地が悪そうである。彼が90年代を最後に筆を折った背景には、病や家族の事情もあるだろうが「評価されてしまうことへの居心地の悪さ」もあったのではないかと思う。
映画の話に戻りたい。
物語の主人公は、現代の東京で脚本家として行き詰まっている女性だ。彼女は、つげ作品の主人公たちが抱えていたような生活苦や実存的な不安というよりは、現代的なバーンアウトにあるように見える。
劇中劇として描かれる映画の中で、河合優実演じる少女が「何にもしたくない」と呟くシーンがあるが、それは脚本家自身の現状の表現だ。この劇中劇が、一本の映画でみたくなるほど見事だった。「河合優実出演作にハズレなし」である。
脚本家は、自分の中に明確な方向性を見出だせず、この劇中劇の大学での上映会でも質問から逃げまくり、答えると「私はダメだと思った」などと言っている。
そんな彼女に転機をもたらすのが、突然亡くなった佐野史郎演じる大学教授の肩見分けで譲り受けた古いフィルムカメラだ。
このカメラが、主人公を変えていく展開となるのが、小道具使いとして見事だと思った。カメラは記録の道具でもあり、また現在は、自分の人生の充実した瞬間を世に伝える道具でもあるけれど、この映画ではその機能は希薄だ。このカメラは「ただそのままの世界を見る」ことに意識的になる、それを促す道具となっていく。
ファインダーを覗いて世界を見るとき、人は自分から意識を逸らし、目の前の光や風景、他者という外側に意識を集中させなければならない。自分の内部でぐるぐる回る自意識に押しつぶされつつあった主人公にとって、カメラは、自分を滅するための矯正器具として機能しているようだった。
カメラで移す景色には、意味や物語などなく、ただ世界がそこに在るだけだ。その静かな時間の蓄積が、彼女のリハビリテーションとなっていく。
堤真一演じる「べん造」のただの古民家のような宿。ここはまさに、つげ義春の『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』のような、時間が停滞した異世界だ。
原作では、こうした場所はしばしば、一度入ったら出られないアリ地獄的世界だったり、諦めの果ての終着点として描かれる。それを三宅監督は、現代人が一時的に身を寄せる避難所として再定義した。
宿での時間は、奇妙で、滑稽だ。生産性とは無縁だ。
噛み合っているような、いないような会話。そこには、現代社会に要請される成長も、貢献も、正解もない。ただ、雪深い山奥で、やる気のない宿主と時間を浪費する。「何もしないでただそこにあること」への没入が疲れた主人公に必要な処方箋となっていく。
そして、主人公は、この異世界に止まらない。この流れが、つげ義治の世界と異なる点だ。主人公は、再び脚本を書く意欲を見せる。異界での時間を通過儀礼(イニシエーション)として消化し、現実へと帰還していく。
「何にもしたくない」から始まった旅が、カメラを通して世界を再発見し、奇妙な宿での停滞を経て、「また書きたい」という人生の再出発に変わる。この変容のプロセスを描いた点に、本作が2020年代の「つげ義春映画」としての必然性があるのだと感じた。
現代を生きる私たちの多くは、ドロップアウトする覚悟もなければ、狂気も持ち合わせていない。どれほど疲れ果てても、結局は、仕事を続け、社会というシステムの中で生きていかなければならない。
だからこそ、この映画が必要なのだと思う。
本作は、スクリーンの向こう側に、日常とは異なる時間が流れる場所を、リアリティを持って出現させた。
観客は、主人公と共にその「わけのわからない時間」に身を浸し、べん造さんの宿の冷たい空気を吸い、カメラのファインダー越しに世界を見つめ直す。その短い滞在が、私たちが再び「こちら側」で生きていくためのエネルギーになるのだと思う。
本作に、明確なメッセージや結論を読み取るのは難しい。ただ、その鑑賞体験が残す違和感のようなものが、身体の中にしばらく残り続ける感じがする。それは、かつて『無能の人』を読んで感じた重たい安らぎとは少し違う感覚だ。もう少し透明で、静かな力強さを持った感覚を残してくれるような気がしている。
癒される。
美しい自然の情景、クスッと笑えるユーモア、心地良い劇伴の奥底で描かれる人々のささやかな苦悩や孤独を優しく包み込んでくれる作品。
ラストシーン、言葉の檻から解放され、筆が進みはじめる様に、ちょっとした希望を見出せたらと思う。
Hi'Specの劇伴は毎度ながら三宅唱との相性抜群。
エンドロールの余韻ですら楽しめる。
夏と冬 虚と実 ユーモアと悲哀 雪景色と鯉泥棒 見事な対比
2025年映画館鑑賞109作品目
11月15日(土)フォーラム仙台
レイトショー1500円
原作は『無能の人』『ゲンセンカン主人』『ねじ式』『リアリズムの宿』『雨の中の慾情』のつげ義春
監督と脚本は『きみの鳥はうたえる』『ケイコ 目を澄ませて』『夜明けのすべて』の三宅唱
ロケ地
東京都神津島村
前浜海岸
名組湾
返浜
神津島村郷土資料館
ありま展望台
山形県鶴岡市
じょい食堂
国見山玉川寺
スタジオセディック庄内オープンセット
あつみ温泉街
秋田県
由利高原鉄道
奥羽本線はイメージに合わなかったのだろうか
粗筋
つげ義春の漫画『海辺の叙景』を原作に映画の脚本を書いてほしいという依頼を引き受けた韓国人脚本家李
映画は完成し大学で公開された
映画監督らと共に上映会に出席した李
大学生の質問に「自分は才能がないと思いました」と心情を吐露
そんな矢先に大学教授の魚沼が病気で急死
魚沼の双子の弟からカメラを形見分けされる
脚本家として壁にぶち当たっていると感じた李は無計画にぶらりと列車に乗り雪降り積もる山形へと旅に出た
予約がないのでどこの温泉ホテルに泊まることもできずホテルの従業員の勧めで地図にも載っていない山奥の民宿に泊まることにした
食事は一応は出してくれるが粗末なものでサービスらしきものは一切なかった
客は李が久しぶりだった
民宿の者は無気力でヒゲヅラの中年男性1人だけ
名はべん造で流行るわけがなかった
それでも李はなんやかんやでその民宿でしばらく過ごした
しかしべん造が別れた妻の実家に忍び込み鯉を盗み逮捕された
べん造は警察から戻ってくることなく夕方の列車で東京に帰ることにした李
この作品の原作となったつげ義春の作品は『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』
前半の劇中劇が『海辺の叙景』
雪国の山小屋で過ごす羽目になる話は『ほんやら洞のべんさん』
主人公がなぜか日本で活動する韓国人の脚本家というのもまた不条理な日常
李という韓国ではありがちな苗字もおそらくつげ義春の作品『李さん一家』のオマージュだろう
つげ義春の代表作といえば『ねじ式』
日本の多くのクリエイターに影響を与えた
僕も初めて読んだ時はそのアートぶりに衝撃を受け感動したものだ
「は?なにこれ?わかんない?気持ち悪い」と感じた人はそもそもこの映画鑑賞は全く向いていない
原作が合わないんじゃ映画もまず無理に決まっている
原作の2作品は『ねじ式』に比べたらかなり「ソフト」だ
『ねじ式』は夢の中での出来事をなんとか思い出したもので2作品は実際に体験したことを元にしているのだろう
ロカルノ国際映画祭金豹賞(グランプリ)受賞
邦画では2007年の小林政広監督『愛の予感』以来
邦画では他に1954年の衣笠貞之助監督『地獄門』1961年の市川崑監督『野火』1970年の実相寺昭雄『無常』
ロカルノといってもあまりピンと来なかった
世界三大国際映画祭というとカンヌとベネチアとベルリンだがロカルノも公認の映画祭
ロカルノはスイスでスイスといえばドイツ語だがそこはイタリア語圏の地域
もう少し大きく取り上げられてもいいはずだが東京のマスコミ関係者の殆どは文化水準が低いんだろう
シム・ウンギョン主演と河合優実出演以外ほとんど情報を入れずに鑑賞した
そのためか堤真一がべん造を演じていることに気づくのに時間がかかった
声と喋り方は間違いなく堤真一以外あり得ないのに
顔も声もイケメンなベテラン俳優の彼ではあるがこんなさえない汚らしいおっさんも演じきる名優ぶりに感心した
警察に連行される悲哀ある背中がまた良い
夜の海で夏男と渚が会話をするシーンがあるがリアルを追求したのか暗すぎる
好きか嫌いかと言えば自分は嫌いだ
河合がビキニ姿になるのだが意外と胸がある
あっちこっちから寄せてきたのかもしれないが
陽気な女子がビキニになるとマガジンっぽくなるが陰キャだとにっかつロマンポルノっぽくなる
どこか影があるとはモノは言いようだがそもそも影くらいみんなあるでしょう
因みに返浜は遊泳禁止である
シム・ウンギョンのキャラが良い
なんか癒される
風でニット帽が飛ばされたり右足の靴下の穴で親指が出ていることを見つめていたり雪の帰り道をぎこちなく歩いたり
日本語がすっかり上手になり「左様でございますか」?とか鯉泥棒のべん造を「勘弁してください」と咎めたり
べんぞうやを漫画のネタにしたらどうかという提案を受けて色々質問したら今度は向こうが不機嫌になりたしか「さしでがましいことを聞いてすみません」とか謝るシーンもユーモラス
その全てが愛おしい
決してバカじゃないけど抜けた感じが良い
彼女の生まれつきの才能かもしれない
こうしてみるとやはり『新聞記者』はミスキャストだった
プロデューサー側はいろいろ言い訳しているがその全てが理屈に合わないし嘘くさくてありえないしどう見てもでまかせだ
どのマスコミもあまり追及しなかったがそれが不思議でならない
配役
日本で活動する韓国人の脚本家の李にシム・ウンギョン
李が脚本を書いた映画のヒロインの渚に河合優実
映画の中で海辺で渚と出会う青年の夏男に髙田万作
映画のプロデューサー?に斉藤陽一郎
映画監督?に松浦慎一郎
山形県警の警察官?に足立智充
山形県警の警察官?に梅舟惟永
講義の一環で学生たちと一緒に映画鑑賞する大学教授の魚沼に佐野史郎
魚沼の双子の弟に佐野史郎
客が来ない山奥の宿「べんぞうや」の主人でものぐさのべん造に堤真一
美しい映像シーンに対して、ストーリー・設定が追い付いていないような
鑑賞中は、美しいシーンがあったり、クスッと笑えるシーンもあったりして、部分部分では楽しめたところもありました。とはいえ鑑賞終えて全体像が見えると、ストーリーの面では好みの作品になりませんでした。
前半の海(夏)のシーンも後半の雪国(冬)のシーン、どちらもこの先どうなるのだろうと気になるところでブツリと話が切られてしまっているためです。この後どういう展開になるのだろうという手がかりもほぼ示されないまままで、個人的にはかなり不満のたまるストーリーでした。
後半部分の雪国のシーンの方で主役として登場する脚本家(女性)が脚本を書いた映画の中の話が、前半部分の海のシーンだったと判明するわけですが。そういう展開をするのであれば、せめてこの映画の最後には、この脚本家さんのその後の脚本作品が、今回の旅でどう変わったのか(あるいは変わらなかった)は描いてほしかったです。★評価を厳しくしてしまった大きな理由となっています。そこを描かず何を描くのか、というところだと思ったのですが、監督の狙いはそこにはなかったということなのでしょう。描かれていればさらに作品の深みが増したようには思うのですが。
あとは、宿屋の主人のセリフには東北のとある地域の方言が入っていたことは少し気になりました。東北地方やその近郊の方々まではある程度理解できる範囲とは思いますが、そこから距離のある地域の方々(特に、西日本の方々など)には、字幕なしだと理解が難しいのではないか、というところが心配になったためです。
もうひとつ、あの宿屋、主人(男性)と脚本家(女性)が同じ部屋で夜を明かしてしまう設定は、いくらなんでも無理がありすぎます。他に1部屋もなかったのでしょうか、そりゃあ客もこなくなるわ、な宿屋に見えました。
また脚本家さんについては宿屋を去るまで身綺麗なままだったと思いますが、浴室もシャワーも整っていそうにないあの宿屋で、どうやったのでしょう。宿屋の主人に意図せずに鯉泥棒の場面に付き合わされ、川の中にも足を踏み入れざるを得ず、服も濡れてしまったのではないかと思うのですが。どこか別の銭湯でも探して行っていたのでしょうか。とても謎に思いました。
この映画作品では、宿屋が最重要の要素のひとつだと思いますので、もう少しは宿屋の設定を配慮した方が良かったのではないでしょうか。宿屋の非現実な部分の違和感ばかりが気になって、私には本映画作品の世界に入り込むのに妨げになってしまいました。
旅とは言葉から離れようとすることかもしれない
松坂桃李との共演で話題となった『新聞記者』や、映画自体はつまらなかった『七人の秘書』にも出ていたシム・ウンギョンと、『ALWAYS 三丁目の夕日』に出ていた、昭和が似合う堤真一が出ているので、観に行きました。
映画後半での雪に埋もれた山形県庄内地方での2人のやりとりは、期待通りすばらしく、李(シム・ウンギョン)にとっての旅の非日常と、旅先でのべん造(堤真一)にとっての日常との交わりが、とてもよかったです。
おそらくこの映画は、シム・ウンギョンにあてがきしたものと思われます。
ただ、映画前半の「映画中映画」での夏男(髙田万作)と渚(河合優実)のシーンは、この映画においてどのような意味を持つのかがよくわからなかったです。単に、「私には才能がないと思いました」と李に言わせるためだけなのか、それなら、なぜ魚沼(佐野史郎)に「官能的な映画だと思いました」と言わせる映画である必要があったのかが、よくわかりません。なぜ河合優実の水着姿が必要なのでしょう?友人が、「性的な対象として彼女を撮るのはやめてもらいたい」と憤慨していたのですが、全く同感です。
日々を見つめ直す営み
合ってるかは分かりませんが、感じたことを書き残します。
日々の暮らしの中で、私たちの周囲は次第に馴染み深いものとなり、世界は言語化できるものとなっていく。
そのなかでしばしば、私たちは自らの世界に閉じこもり、知らず知らず追い詰められてしまう。
旅とは、そんな日常からそっと距離を置き、自分が立っている世界をあらためて確かめ直す営みだ。
旅先で目にする風景は、木々が重なって形づくる森であり、水の集まって流れとなり、やがて海へとつながるように、無数の小さなものが重なりあって世界を作っている風景である。
そして、その土地には、そこを生きる誰かの日々がある。私たちの日々もまた、木が森となり、水が海をなすように、より大きな流れの一部であることを、旅は静かに教えてくれる。
そして戻ってきた私たちは、改めて自身の日々に目を向ける。世界の大きな流れの中で、日々は再び息を吹き返し、再生していくのである。
タイトルなし(ネタバレ)
つげ義春の漫画のエッセンスは、ニヒリズムともシュルリアリズムともいえる世界観と、その世界観を基底としたどこか滑稽な雰囲気にあるだと思います。
なんとか表現しようとしているのはわかるのですが、いかんせん主役の脚本家のチョイチョイ入ってくる独白・ナレーションがその世界観や雰囲気を台無しにしているようでした。
国際的な映画祭に出展するために必要な措置だとは思うのですが、わたしにとっては邪魔でしょうがありませんでした。
ラストの雪原を歩く足跡はメタファーとしてはよかったです。
人間に回復
日常と非日常。
行き詰まる事もある。
日常から少し横路にそれて
旅にでて鋭利を養い、人間に
回復して行く話。
青い海、真っ白で深い雪、人との出会いと
然り気無い会話。
そこには静かで穏やかな空気が
流れていた。
大自然な囲まれながら、人間らしく
クスッと笑う。
あの錦鯉を持ち帰り放流しようと
見たら凍結していたは笑う。
そして食べてるし。
人間的だよね。
少し疲れた人も一旦休憩して、違う
角度で物事を見たい、視野を広げたい
人には良い。
人間らしく心の新鮮さを取り戻す
ひとつのきっかけになればと思う。
日常と旅が稀に重なる時、そこには
違う光が射し込むのかもしれない。
現代的な今では味わえない忘れた感覚を。
いい映画だな
最後、熱があるから警察の人に連れられていくシーン、現実味があってとても好きです。笑いました。
この終わらせ方、すごくいいなと思いました。
海のシーンでは、女の子(河合優美さん)の最後の眼差し。李の創作物から生み出された人間の奥底、内部が垣間みれた感じ。創作物ならではのリアルさがあった。
女の子の「もっと奥の方だよ」「もっと奥」には、波と思念が共鳴しているように感じました。安全な場所から言ってるところが人間の利己的な図太さがあって好きです。
宿主の奥さんと子どもには、病気や事故で亡くなったという悲しい過去があるのかと思っていたら、実際は宗教観(価値観)の違いによる離婚。現実的で良いと思いました。いい意味で裏切られて好きです。
ただただリアルで、人間のおかしさがあって、面白くて、にやにやしながら見ていました。
最初、冗談で堤真一さんに似た現地の人が出てるのかと思いました。さすがに途中から、あまりにも堤真一さんに似すぎていて気づきました。
日本人だけが登場するわけではないところが、「地球上の物語」という感じがして好きです。
短すぎず、長すぎず、丁度いい尺の映画だと思いました。最後まで楽しめました。
賛否両論ありそうな映画だと思いますが、
ぬるっと終わるところが一番好きです。
もう一回、映画館で観に行こうかな。
イモトとイビキ男
【所感】
つげ義春の漫画は子どものころに読んで、どうにも気色悪く感じて以来、ずっと苦手でした。ところが、週刊文春で高評価を得ていたので、だまされたつもりで観てみました。結果としては、また文春にうまくだまされました。文春あ砲。
映画が始まってすぐ、導入部が「シャイニング」みたいだな」と思いました。けれど、冒頭30分ほどは眠くて眠くて、まるで夢の中で展開されるような、ぼんやりした世界。北野映画のつまらないシーンだけを集めたような印象すら受けました。北野ブルーのような映像も見られます。
主演のシム・ウンギョンは、以前ドラマで見たときから、イッテQのイモトに似ているなと感じていて、当時は途中まで本当にイモトだと思い込んでいました。今回の作品でも、やはり似ています。眉毛メイクを外した、日本語片言のイモトという感じです。
脚本家という役柄ながら、鉛筆の持ち方が妙に独特で、気になりました。ただし、朴訥として、少しとぼけた演技は似合ってました。堤真一は、初老のボロ宿屋の主人が意外にもはまり役で、特に、いびきの演技が見事。亡くなった父親のいびきのうるささを思い出し、胸に響きました。佐野史郎の設定には、ちょっと笑ってしまいました。河合優実はもったいない使い方。
物語は、中盤以降からようやく、少し面白くなりそうな気配を見せますが、気配を見せたままさらっと終わってしまいます。
私としては、少し似た雰囲気のジュリー主演作「土を喰らう十二ヵ月」の方が、田舎めしの描写も美味しそうで、映画としても格段に面白かったです。
今作は、くすっと笑えるシーンもありますが、私にはやはり、少し肌に合わない作品でした。いっそのこと、イモトを主演にして、もっと笑えるようにした方が良かったのでは。でも、それでは、つげ作品になりませんね。
なので、つげ義春の作風に抵抗がなく、淡々とした展開を楽しめる人になら、おすすめできるかもしれません。
旅=非日常感
日本で活動している脚本家の李は、思うような映画を作ることができず、行き詰りを感じていた。
そこで彼女は思い切って地方に旅に出ることに決めた。
宿泊先を探そうにも、どこの宿も満席で部屋が取れなかったが、地元の人にとある一件の民宿を教えてもらい、そこに足を運ぶ。
そこで不器用ながらほそぼそと経営している一人の亭主と出会うことになり、しだいに彼女の心の緊張が溶けていくという物語。
この物語は、都会のビル群が並んでいる風景から始まるが、その時点で「彼女の気持ちがなぜ行き詰っているのか」を、息の詰まるような都会の風景から静かに描き出すことに成功している。
映画の序盤、彼女がいた都会は「乱立するビル群」に囲まれている。
それはまさに「コンクリートジャングル」であり、観客にさえ「閉塞感」を与える。
この物理的な圧迫感は、脚本家として「うまく説明できない」「きっちり生きられない」彼女の精神的な「息苦しさ」そのもの。
彼女が旅行先で遭遇した「ホテルが満室で泊まれない」という出来事は、彼女が社会のルール(予約、秩序)から「どこかはじき出されている」ことを象徴的に示す。
社会(地図)から「はじき出された」彼女がたどり着いたのは、皮肉にも「地図にない宿」だったように思った。地図の範囲外のところにあったのは意図的な演出に感じるし、そこは、都会の「こうしなければいけない」という規範から完全に切り離された場所であることが分かる。
その民宿では、布団は自分で敷いて、寝たいときに寝て、置きたいときに起きる。決められた時間が定義されておらず、その日のうちにやることだけやる。そこが良い意味で適当な暮らしを強いられるところがとても良い。
民宿の不器用な亭主もまた、どこか社会にうまく適応できない「よそよそしい」人物であると思うし、そんな二人は説明不要の関係性を築いていく。
そして、彼女が亭主と過ごす日々は「夢見心地」なように思う。
とある深夜に「鯉を盗む」といった非現実的な出来事は、亭主の「思いつき」で行動することが許される、この場所の性質をよく表している。
彼女は、この「夢」のような体験を「写真」に撮り、「記録」として残そうとする。それは、この非現実的な日々を、かろうじて「現実」に繋ぎ止めようとする行為だ。
しかし、彼女は「カメラをなくす」。
これは決定的だ。唯一の「記録」を失ったことで、宿での体験は再び現実から切り離され、「あれは本当に夢だったんじゃないか」という曖 …(あいまい)な記憶へと変わっていく。
脚本を練っている時の「こうだったらいいのにな(と頭で描く)」ことと、映像化(=記録)の「差異」に悩んでいた脚本家の彼女が、旅先で「記録そのもの」を失うことの意味は大きい。
結局、彼女の「行き詰り」は根本的には解決していないのかもしれない。
しかし、旅から戻った彼女の表情は違うと思う。
今までの生活で人と接するときにはどこか「完璧」なところを見せなければいけないので気疲れしていたと思うが、今回の旅で体験した「ちょっとゆるい出来事」は、都会で暮らしていたらきっと経験はできなかっただろう。
良い意味で「いい加減」な亭主と出会えたことが彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体だと思うし、この作品の静かな救いなのだろう。
日本人でも毎日の慌ただしさで虚しくなる人も多いと思うが、韓国人である李にとっては我々が思う以上に疲れてしまうと思う。
この作品はそうした日常を生きることに精一杯な人に対しての休息映画だと思う。この作品を見終わったあとはきっと、心が少し和らいで和やかな気持ちになる作品だと思う。
今まで都会で感じる「完璧な対応」とは別に、「疎外されたままでいい」と許容してくれる場所(地図にない宿)と時間(夢のような日々)が存在し得たと知ること。
それこそが、彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体であり、この作品の静かな救いだと感じた。
期待値とのせめぎ合い
杉咲花さん、髙石あかりさん、広瀬すずさん、河合優実さんの出演作は自動的に観ます(すずさんの宝島はタイミング合わずで観てないけど)。そんな河合優実さん出演で、三宅唱監督作品、しかもロカルノ映画祭グランプリとくれば、期待値は高くならざるを得ません。
河合さんは、今回も趣きある演技。ただ、河合さんが演じる役としてはぴったりかつお馴染みで新味はなし。突然の水着姿にはもちろんありがとうの気持ちですが…。
女性脚本家の旅パートは、まず佐野史郎さんの生きてたんかい!え、違うんかい!で騙されて、なんとなくコメディかな?って思ってからの宿難民で山奥侵入。
堤真一さん(恥ずかしながらエンドロールまで堤さんとは気づいてませんでした)の東北訛りとシム・ウンギョンさんの韓国訛り日本語の交流が味わい深いと感じました。
季節、ローケーション、年齢、言葉数などなど、前半パートとの対比を意識して観て、何か感じた気がしていましたが、忘れてしまいました(汗
三宅監督直近の「ケイコ目を澄ませて」、「夜明けのすべて」という一級品ストーリーを期待しちゃうと肩すかしくらうかも。日々は旅で、旅の日々の「旅と日々」を他と比較せず観るのがよきと結論づけました。
ロケ地を知りたくなる映画で、映画館を出てすぐ検索。ロケ地紹介のブログを読みました。神津島いいっすね。東北産の人間には懐かしい響きだけども、自分の田舎の言葉とは明らかに違うあの言葉は庄内弁なのですね。満室だらけだった温泉宿に泊まってみたいです。
なんだか非常に散漫な感想で恥ずかしいのですが、なんとなくそういう映画だった気がしています。嫌いじゃないけど、勝手に期待値上げてたために⭐︎4つはつけられず
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