旅と日々のレビュー・感想・評価
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言葉の向こう側にあるもの
脚本家の主人公が、言葉で表現することの限界を感じ、自分には才能が無いと自信喪失するまでの、夏の海パート。
亡くなった恩師からもらったカメラをきっかけに旅に出て、言葉の向こうにある美しさや豊かさを知り、その力を信じることができたことで心を再生させていく、冬の旅パート。
自然の音と美しい景色、人との交流、その時の表情が、言葉に頼らなくても雄弁に語りかけてくると気付いた時、主人公は言葉だけの力で何かを作ったり、組み立てたりするのではなく、ありのままを見せることで伝わることがあると知ることができた。
この作品は、同じ気付きを主人公を通して、私たちにも気付かせてくれる作品になっているのが、観る側のコンディションによっては、退屈でつまらないと感じてしまうかもしれない。
ストーリーを楽しむというより、繊細な物語の奥にあるメッセージを受け取り、こちら側から汲み取ろうとする気持ちで観る作品だと思った。
旅や人生の本質をとらえた宝物のような映画
率直に思った。なんと豊かで、自由で、私たちを普段とは違う思考の場にいざなってくれる作品なのかと。小難しいことなど何もない。しかし構造は驚きに満ち、無駄がなく研ぎ澄まされている。つげ義春の原作をベースにこれほど奥深い旅の本質に触れられるとは。旅、それはもしかすると「人生」とも言い換え可能なものかもしれない。加えて、シム・ウンギョンという人はどうしてこれほど面白いのだろう。彼女が物思いに耽るたび、熟考の末に脚本を書き出すたびに我々の心は静かにふるえる。そして、何気ない表情とセリフを通じてこの脚本家とにわかに重なっていく。まるで私たち、脚本家、彼女の劇中劇という3つの世界が並存して繋がっているかのよう。言葉から遠く離れてもすぐに追いつかれる世の中で、私たちはそれを振り切るように旅を続け、その果てに各々にとっての秘密の場所を見つける。あの入江や雪国の宿のように、私にとってこの映画こそがその場所だ。
「本物を語るには本物をもってするしかない」
原作者・つげ義春ファンであり、神津島にも7年前に行った私は存分に楽しめた。『海辺の叙景』の舞台といえば千葉とばかり思い込んでいたが、神津島との相性抜群じゃないですか!そういえばつげ義春師の父も神津島と同じ伊豆諸島の伊豆大島に縁があるはずだ。あの2つのセリフが、ああいう風に使われるのかと。かつて、『美味しんぼ』において、海原雄山が山岡士郎に「本物を語るには本物をもってするしかない」と言ったが、まさにそんな感じ。河合優実・高田万作の演技も見事でした。パンフレットに神津島のマップも載っていて感動。映画に出てきたロケ地にはすでにいくつか見覚えがあったが、やはりそろそろ再訪せねばならない。
2020年代日本と韓国(語)との関係という点でも興味深い映画。原作の描かれた1960年代の日本ならば、両者はここまで親和的にはならないはず。『ほんやら洞のべんさん』を原作としたという映画後半も、とくに終わり方がすばらしかった。2025年の最後に良い映画を見ました。
静かな空気に癒されました
旅は染みるね
おかしみはすぐそこにある
冒頭。
硬質な文芸作品の空気感に「ついていけるか?」と不安になります。お目当ての河合優実は変わらず「この世の物ならぬ普通の子」で心を鷲掴みしてきますが、なんともインディーズな作風が私を弾き出そうとします。(そこに意味があったと後で分かる)
中盤から一気に引き込まれます。
韓国で生まれで東京で暮らす主人公。東北の豪雪地域に小旅行をし、江戸時代の農家のような宿屋に滞在するはめになる。
宿の主人を演じるは堤真一。彼の日常と主人公の非日常が融合する、ここからが面白い。
中規模な邦画らしく、日常に漂う「ユーモア」と「哀しみ」をほんのりと味わせてくれる。なぜ「 」を付けているかは、見てのお楽しみ。
大作じゃないけど面白い。
いや、大作じゃないから面白い。
小難しいアート作品じゃないです。
家でお茶すすりながら楽しむのが正解かも。
私のようなミーハーでも瑞々しい気持ちで劇場を後にしました。
何度でも見たくなる映画
つげ義春を知らなくても、不思議な力に引き込まれてしまう。
雪国は大変です
海と雪の地を90分で巡れる幸せ
各方面から評価の高い三宅唱監督の作品を初めて観た。私にとってはウェス・アンダーソンと同様キネ旬で特集されていなければおそらくスルーしていたであろう、つげ義春の旅漫画2本をつなぎ合わせて構成したかなり地味で小さな映画である。夏の離れ島と冬の豪雪地帯というそれだけで絵になる舞台設定に都会で疲れた女とスランプ韓国人脚本家が旅をしてその地で出会った人と数日関わり行動を共にし会話をするちょっとしたエピソードだけで大したドラマもない男女間の期待もあんみつを食べるだけというこんな脚本を自ら書いてロカルノ国際映画祭で最高賞を獲る映画に作り上げる三宅監督はやはりただものではないのだろう。シム・ウンギョンも堤真一も河合優実もたしかに良くてこの魅力的なロケーションに放り込み彼らがしゃべり動くだけで十分映画足りうるというべん造が言う通り「幸せな気分さなる話はどうだ?」の答えがこれなのであった。
大切なのは「眼差し方」を変えてみること
「言語化」とか、「わかる」ということに関わる思考を、とても刺激される映画だった。
自分はこれまで「自分が感じ取ったモノ」には、「自分の中を掘り返して、ピッタリとした言葉をあてていかないと、その感じとったモノ自体がいつの間にか流れていってしまう」とずっと思ってきた。(レビューを記しているのも、そうした理由による)
ただし、「ピッタリした言葉」をあてられることなんてほとんどないので、本当は「言葉をあてようとする意識をもつこと」「言葉を探し続けること」が大事だと思ってきた。
だが、今作で李は「言葉に囚われている」とか、「日常とは、周囲のモノや感情に名前を与え慣れ合うこと」と言って、「言葉から遠いところに身を置きたい」とまで言う。
彼女が使っている「言葉」とは、なんだろう。自分が考えている「言葉」とは違うのだろうかと思いながら観ていた時、ある場面で、一つの答えが見つかった思いがした。
それは、彼女が旅に出ることを決める、走ってくる電車に向かって、アパートの中からカメラのシャッターを切るシーンだ。
李の表情を変えたのは、魚沼教授のカメラのファインダー越しに視た風景。つまり、物理的に「眼差し方」が変わるという体験だった。
「言葉」とは、つまり「眼差し方」なのだと思う。「旅」をしていても、日常の「日々」を過ごしていても。
「自分の中に、いつの間にか染み付いてきたモノの見方・考え方から遠いところに身を置きたい」というのが、彼女の姿を借りた三宅監督の願いだったのかもしれない。
今作は、つげ義春の2編が原作になっているとのこと。確かに、その味わいを感じるが、ちゃんと三宅監督らしい映画にもなっている。
自分は、「(映画は)ユーモアがあるものを見たい。ただし、いい映画は、人間の哀しさが描けているかどうか」というセリフを、とぼけた風情の堤真一に言わせたところが面白かった。
ちゃんと、ユーモアがあって、人間の哀しさが描けている映画でした。
私にはピント来なかった。
夏と冬のシーンが出てくるが、それは別々の話。海と冬山の世界のなかでほぼ二人の男女の会話。多くの方が絶賛された注目の映画。
私は旅で偶然出会った人とこのような話はしたことがないので、どうも中に入り込めなかった。
どうしましょう。。。
かっちりとした画づくりが印象的
都会のアパートの一室で、考えをめぐらしていた主人公が鉛筆で1行書く。するとそれが映像になり、後から1本の映画になっていることがわかる入れ子構造。つげ義春の2つの漫画作品を原作にしているが、主人公を脚本家にして、前半の創作パートと、後半の実体験パートをつなぐ構成が秀逸。
その中で印象的なのは、丁寧でかっちりとした画づくり。トンネルを抜けた海岸、夕闇の中の二人の長回し、雪原を横切る二人のロングなどなど。スタンダードサイズのせいもあって、50年代のクラシカルな雰囲気も感じた。
しかし、前半と後半をつなぐのに「脚本の才能がない」と言わせるのは、それまでの映像を自己否定しているようで、どうもピンと来ない。映像の力に比べて、脚本は無力に感じたということか。「言葉にとらわれている」という独白も、その後の旅の体験につなげるためのセリフにとどまっている感じ。言葉と映像をめぐる物語になるのかと思ったが、タイトルどおり素直に、人生と旅についての作品と受け止めればいいのだろう。
シム・ウンギョンのたどたどしい感じは、起用した狙いどおりなのだろう。河合優実のほのかで妖しげな色気、堤真一の山親爺ぶりが良かった。
後味は良いが、物足りなさも残ったのは、三宅唱監督の新作という期待の高さがあったためか。
何かに囚われる不安な人々を描くつげ義春の世界
夏の海の場面から始まる。若い男女が出会い、訥々と言葉を交わしてその交流が近づく。言葉が失速したりすれ違ったり、繊細な交流を河合優実と髙田万作が見事なタッチで演じている。やがて夏は不穏な空気と共にバランスを崩し、それは映画の一片であることが明かされる。上映が終わりシム・ウンギョン演じる脚本家の李は、質疑に応じて「私には才能がない」と溢した。なるほどこれは、「言葉といかに向き合って人は生きることを前に進めていくのか」と言う映画なのだと分かる。それに、つげ義春だし。李は「旅でもしてみれば」と勧められ、場面は一転して大雪の冬の田舎に変わる。ここにマタギのような人里離れて暮らすべん造という男が登場する。かなりステレオタイプに作られていたので最初はこの章も映画の一片か、李の思索の一部かと思ったが、何と現実であった。謂わば“言葉を探す旅に出た”李ににべもなく立ちはだかったのは、言葉を拒絶するただただ人当たりの悪い男だった。言葉探しに静かに奮闘する李を演じるシム・ウンギョンの健気で真摯な姿に大きな共感を覚えるが、彼女の旅はあえなく頓挫してしまう。作中の夏の映画の場面が余りにも繊細に言葉と対峙して心を掴まれてしまったので、冬の場面は梯子を外された感が強い。でもこれもまたつげ義春かとも思う。もしこのべん造という男を言葉にガッツリと向き合う俳優が演じていたならどうなっていただろうか…。柄本明さん…松重豊さん…年齢は関係ない、黒崎皇代くん。
自信のない脚本家の女性の創作世界と現実の旅。 創作の世界は息苦しか...
俳優を役の人物に昇華させる監督の技量
自分にとっての2024年のベスト作品は、三宅唱監督作の「夜明けのすべて」だった。
その監督の新作ということで、ほとんど情報を得ないままに映画館で鑑賞。
面白かったかと聞かれれば、「面白いわけじゃないけど、退屈でなく気持ちが楽になった」と答える。それは言葉をツールとする脚本家の主人公がモヤモヤと感じていた鬱屈感と敗北感が、冬の山奥の風景、そこに暮らす男の人生に触れ、言葉の呪縛から解き放たれるセラピーのような旅を共有する作品だ。
「夜明けのすべて」で圧倒的だったのは、監督の作品内の全てを「整える」技の素晴らしさだった。
監督が作品制作の過程で判断する全てを通して、これ見よがしなカメラワークや人物演技の整合性の無い起伏をきちんと排除して、作品を見事に「整えて」いたのだ。その中でよく知っているつもりだった俳優が今まで見たことない演技を引き出され、役の人物として作品に「存在」することになった。「夜明けのすべて」では、光石研がそうだった。そしてそれができる三宅唱監督の技量に感服したのだ。
新作の「旅と日々」では、堤真一の新たな真髄が引き出されていた。登場してしばらくは正面アップを意図的に(多分)避けられていたこともあって、堤真一と分からなかった。声色、動き方、表情、すべて今まで知っていた堤真一ではなかった。訳あって一人で山奥の宿屋(単に自宅のようだが)を営む初老の男がそこに居た。俳優が登場人物に昇華していた。見事だった。
原作については知識がない。セラピーのような内容に関しては、原作自体が持っているものなのかも知れない。しかし映画作品としての「整い」方は、紛れもなく三宅唱監督の技量の賜物だと思う。彼は今の日本映画の宝である。
自由きままな旅をしたくなるような映画
一部の映画館でしか上映していない作品。
万人受けはしないかもしれないが、旅の本質を教えてくれるような心の琴線に触れる映画だった。
あのような宿は現実的ではないですが、ファンタジーとして面白かったです。
個人的には、最近このような静かな映画が好みになりつつある。
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