「驚くほど「わたし」のことを描いた作品だった」兄を持ち運べるサイズに えすけんさんの映画レビュー(感想・評価)
驚くほど「わたし」のことを描いた作品だった
作家の理子は、突如警察から、兄の急死を知らされる。兄が住んでいた東北へと向かいながら、理子は兄との苦い思い出を振り返っていた。警察署で7年ぶりに兄の元嫁・加奈子と娘の満里奈、一時的に児童相談所に保護されている良一と再会、兄を荼毘に付す。 そして、兄たちが住んでいたゴミ屋敷と化しているアパートを片付けていた3人が目にしたのは、壁に貼られた家族写真の数々。子供時代の兄と理子が写ったもの、兄・加奈子・満里奈・良一が作った家族のもの・・・ 兄の後始末をしながら悪口を言いつづける理子に、同じように迷惑をかけられたはずの加奈子はぽつりと言う。「もしかしたら、理子ちゃんには、あの人の知らないところがあるのかな」 兄の知らなかった事実に触れ、怒り、笑って、少し泣いた、もう一度、家族を想いなおす、4人のてんてこまいな4日間が始まったー(公式サイトより)。
本作は、ひょんなことから、たまたま、何の予備知識もなく、付き合いで観に行った程度だったのだが、少し恥ずかしくなるくらい涙が止まらなくなった。なぜなら、それは、驚くほど「わたし」のことを描いた作品だったからだ。
そもそも、映画を観たレビューをここに書き連ねるという行為自体、どこか無粋だという自覚があるので(なぜなら文章で表現できるなら、監督は映画を撮っていないのだから)、ほのかな罪悪感から、できるだけ主語をぼかしたような、例えばテーマ設定や脚本、映像美、俳優の演技、社会的背景等、レビューの書き手である「わたし」という主体がなるべく起き上がってこない一般化、抽象化、テクニカル論を心がけたテキストを意識的にあげてきた。だが、本作にはそれが困難なほど「わたし」がいた。今日だけはその禁を解こうと思う(勝手に自縛していただけだが)。
わたしは東北出身で、オダギリジョーと同い年で、ちょうど本作と同じくらいの年齢差の妹がおり、人生において、何度か、予期せぬ不運な死を経験してきた。その結果、人の死自体に意味などないのだから、遺族が悔やんで現実社会を前に進めなくなるのはナンセンスで、その死にどういう解釈を与えて前に進むかはいまを生きる人間の権利と責任であるという考えを持つに至り、実際にそういう趣旨の弔辞を読んで、葬儀会場をややざわつかせたことがある。さらに最近、本作のお兄ちゃんと同レベルのダメな親族の瀕死を経験し(幸いにも死ななかった)、そのことを形象化するために、小説に相当する長いテキストを書いた。
もともと、家族愛や母性神話やジェンダーロール、死によって故人を美化する風潮等、ありきたりな固定観念を熟慮せずに、所与のものとしてとらえたり、肯定したり、礼賛したりするような作品があまり得意ではない。ちなみに映画を観ても、葬式に出ても滅多に泣かない。
本作にはつまり、上に挙げた要素が詰まっている。
人の死は色々なことを浮き彫りにするし、どんなに憎んだクズ人間の死でも、兄や元夫の死を受容していくのは容易ではない。天啓が降りてきて悟りを開くことも、死によって全てが美化され赦す展開になることも実際にはない。現実には解決すべき問題が山積しているし、とにかく部屋は臭くて汚いし、数年離れて暮らしていた息子はろくに箸も持てないし、前髪は不必要に長い。現実を生きる妹や、元妻や、娘や息子は、兄・元夫・父の後始末を通してクズ人間の足跡を辿り、じんわりと、ただじんわりと、物理的にも精神的にもかれを、自分たちが明日に「持ち運べるサイズ」にしていく。
「支えであり呪縛ではない」という、最初はよく分からない冒頭の文言や、豊橋に着いた加奈子がわざわざ戻ってきて理子に告げる宣言めいたことばや、クズ人間の兄がしばしば口にする「それはお前が答えを出せ」という科白に、6歳で実父を亡くした監督のメメント・モリが柔らかく織り込まれている。
特に後半は、ずっと、つーと涙が流れ出ながら鑑賞した。わたし自身が遺族に対して発した「人の死に意味などないのだから前を向こう」という考えや、形象化のためにテキストにして公開するということと、同じ感覚を持つ人に初めて出会えた気がした。死者や、悲しみに暮れる遺族に鞭を打つようなことばじゃなかっただろうかというそこはかとない迷いが解かれたような、赦されたように感じたのだろう。遺骨なんてシートの隙間から裸で渡すくらいでいいのである。
それにしても満島ひかりの凄さである。亡き人を「持ち運べるサイズ」にして明日を生きていくとはこういうだという傑出した演技を見せた。オダギリジョーの憎めないクズっぷりも良かった。柴咲コウは、懐古的な「甘える」演技にぎこちなさがあったが、ラストシーンでその不自然さを一気に回収した。その気持ち、泣けないわたしには痛いほど分かる。
本作がここまで刺さったのは、あくまで「わたし」という個人が極めて色濃く投影された作品だと「わたし」が感じたからであるが、シネコンで小さなスクリーンしか与えられなくても、「わたし」にとってかけがえのない作品に出合えたことには感謝したい。長生きするぞ。
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