アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓のレビュー・感想・評価
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この映画は時に言葉を超越して愛と尊厳を伝える
タイトルの語感から生じる可愛らしくコミカルな響きと、それとは真逆の悲痛なまでの歴史の重みや爪痕を併せ持つ稀有な作品だ。それゆえこの映画の笑いには涙がにじむ。言うなれば『ライフ・イズ・ビューティフル』的な喜劇の感動とでも言うべきか。自らのルーツを求めてアルメニアに舞い戻った主人公を待ち構える運命はあまりに不運で、過酷だ。しかし彼が独房の鉄格子ごしに誰かの暮らしを覗き見るとき、広い窓はワイドスクリーンとなり、見ず知らずの男はサイレント映画の花形スターとなる。この思いがけなく生じる唯一無二の劇場的状況が実に見事。絶望のふちで咲くイマジネーションが胸を揺さぶってやまない。そしていつしか互いを鏡面的に意識し合うようになってからは、彼らがまるで引き裂かれた分身のようにも思えてくる。それは主演、監督、脚本を務めたグールジャンが、祖父を始め故郷の人々を追想し、心を重ねようとする姿そのものなのかもしれない。
中盤までは退屈。
私にとってアルメニアと言えば、作曲家アラム・ハチャトゥリアンの母国である。たしか、アメリカの小説家ウィリアム・サローヤンもアルメニアからの移民のはず。知らない国ではないが、アルメニア語を始めて聞いた。また、アルメニアはトルコ?から大量虐殺を受けたことは、漠然と知っていた。
物語は第二次世界大戦後、祖国再建というスターリンの口車に騙されて、強制収容所に収監されたアルメニア系アメリカ人の苦難の話。絶望的環境の中で、人はいかにして生きていけるかを訴える映画だ。
中盤までは本当に退屈だった。牢獄の窓から見える収容所監視人と通じあえた所から、やっと面白くなる。が、現実はやはり過酷だ。明るい結末にしたい気持ちは分かるが、私には疑問だ。
アルメニアのように、戦後日本でも北朝鮮出身者の祖国帰還運動があった。帰国者は劣悪な環境に置かされた。知っているだけに、結末は納得がいかない。
アルメニア音楽も素敵。
アルメニアの映画です。歴史的に不安定なこの地域の映画大好物ですわ。地続きは本当にいつも武装してないとウクライナ見たく難癖つけられてあっという間に国土取られちゃうんで心落ち付かないですね、日本に生まれてよかったです。この地域の歴史も上記の理由で複雑で日本ではあまり紹介されないのもあり、必ずパンフ買ってその国の背景歴史少し知るのも楽しみの一つです。
バラバラに世界に散っていたアルメニア人が大戦後、国の再建のために母国に集められ(実はソビエト連邦の陰謀)、アメリカに居た主人公がいきなりスパイ容疑で投獄される所からはじまる獄中記です。ライフイズビューティフルみたくどんな辛い状況でも笑顔で生きる事の重要さ、ユーモア(humor)とは人間らしさなんだよと、どんな状況でも楽しみ方を見つける事が重要なのだと教えてくれる映画です。かれの場合は窓から見える元画家の看守の家庭だったりするのがなかなか話を面白くしてくれてます。
アルメニアといへば私は
映画だとパラジャーノフですかね。
音楽だとJazz系ティグランハマシャン最高です。
アルメニアじゃないけど「コシュバコシュ」とか、「葬送のカーネーション」とかも素敵ですよ。
sprite survive
映画を見終わって、すぐ思ったことは主人公Charlie Bakhchinyan(監督脚本、主人公Michael A. Goorjian )の想像力・創造力などが、現在人である我々が投獄されたら残るだろうか?
当時を計算すると、1922年(アルメニア・ソビエト連邦)からスターリンの死、1953年まで約31年主人公(チャーリーorカロ)は獄中にいたわけだが、この間、主人公は砂、石、そして、口をきくことは看守やソ連軍や同胞とだけである。この中で、画家Tigranの差し入れて、絵を描きはじめた。それに独演をしたりしたわけだ。また、Tigran(Hovik Keuchkerian )や奥さんのマネごともした。二人の気持ちになって、アドバイスを与えたりした。その、アドバイスが絵だったり、黙示力もあった。エンターテーメントスキルもあるわけだが。体罰を受けても、食事が粗末でも、乾杯したり、アルメニア語を生活の中に入れて、一人芝居をした。獄中の環境が最悪でも、彼はこのクリエイティビティがあったからこそ、ここまで生きられたと思う。
たとえば、Z世代のある青年が投獄したとすると、まず、使えなくなるものはスマホである。膨大なインフォが隠されていると思うし、どの組織や仲間にもコンタクトされたくないから。これなしに、紙と鉛筆の世界に戻るわけだ。スマホに汚染されているとしよう。そうすると、鉛筆での動きはキツい。我々は主人公のようなクリエイティビティーをどう確保できるのだろう。明らかにサバイバルスキルである。肉体的にもメンタルも弱くならないためにも。生き抜くためにも。
まず映画の冒頭に字幕でアルメニアの歴史が説明される。『第二次大戦のあと30年世界に散って行ったアルメニア人がソ連政権の元に戻ってきた。スターリンはアルメニア人虐殺の生き残りの人々に、お金を出した。10万人のRepatrates (この場合アルメニアに戻ってきたアルメニア人)の中に三百十三人の米国アルメニア人がいたと。米国の市民権を拒否して、自国に戻って、自分のアイデンティティと文化をとり戻した。この物語はその中の一人の話である』と。映画の最後に、この映画は監督の祖父に捧げると。多分だが、これは監督の祖父の経験に脚色を加えて制作したもか?と思った。なぜかというと、1915年にアルメニアの主人公の家族がオスマン帝国の虐待に遭い、米国に難民化した。それは監督の祖父も同じであり、祖父は(主人公も)アルメニアのソ連体制に(Repatrates )戻ってきたから。
序幕で主人公のお婆さんが『Caro,Never lose your smile』と。おばあさんのいうことをよく聞いたね。大変だったのに。それに、この時、すでに主人公はイマジネーションのある子供だったんだね。
メインストーリーは1948年、アルメニア・ソ連の時代から始まる。第2次大戦後、妻を失った主人公は、故郷アルメニアに帰ってきたが(Repatrates )ソ連連邦から信用されず、スパイだと思われてしまう。ソ連は米国が反革命プロパガンダを広めるために送り込んだと思っている。事態をのみこめていない主人公とソ連側の軍人の会話は質の悪いコメディのようだった。たとえば、十本のネクタイをある軍人は欲しがっていると思ってる主人公。しかし、軍人は主人公に10年のシベリア行きを与えると。また、数人の同胞が刑罰を受けるんだが、その順番を先にさせてくれと頼む主人公。主人公はアメリカ英語でとても丁寧に頼むんだよね。おかしくて、おかしくて!
主人公は独房に押し込められるが、その生活で、小窓から 自分をエンターテインする方法を見つけたようだ。 Tigran(Hovik Keuchkerian )と奥さんの演劇を遠くから観賞している。会話の続きが毎日あり、遠くから見ているだけで、十分理解できるようだ。最初は演劇の観衆になったように振る舞うけど、その後は家族の一員になって、食事も一人で食べず、窓向こうの夫婦と一緒に食べるようになる。たのしそうだ。ター(Ta)という楽器を Tigran?が弾き始めた時、主人公はほとんど聞こえていないと思うが、目を閉じて聞いているのが良かった。こんなとこで生活しているけど、感慨深い顔つきをして聞いていたよ。食事にしろ音楽にしろ独房にいて一般人のアルメニア人の文化との接点を見出したんだね。文化を体験して、自分をその文化に置いてみるのもアルメニア文化を知る最高の方法だからね。コメディのようだけど、悲劇で、おばあさんの言った、微笑みを忘れないね。主人公のポジティブなスピリットが苦境を乗り越えたね。主人公はシベリアに流刑されずにアルメニアに残ることができたが、30年もの間、監獄の中で刑罰を受けた。
主人公のおばあさんが冒頭で歌っていた「gorani」の意味が『鳥』だと、ソナから教わったシーンもいいねえ。この歌はアルメニアのフォークソングだけど、Taronという地域の曲だと。これで、主人公が鳥に注目したり、地震でも鳥の卵を助けようとしたりした行動に伏線を貼ってるね。
この地域を検索する(私の検索が間違いなければ)と、現在はトルコだ。巨大な文明の発祥地、アルメニアの現在は小さな国になったけど、近隣の地域は過去にはアルメニアだったようだね。
ここで、おかしいと思ったシーンをいくつか書いてみる。
1)自分のことを正当?のアルメニア人だと思っている年配の刑務所仲間がいるが、彼はTrigonのことを身売りをしたスターリン派だという。Trigonこそ反スターリン派だと思うが。なぜなら、彼の芸術に理解を示さない、スターリンの独裁に対して、画家としての仕事を奪われ、監視塔で働いているから。そして、主人公のチャーリーにこっそり画材を送ったり、食べ物を届けたりして主人公の立場を理解してくれてる。でも、主人公チャーリーを命令で、殴らなければならなかった。その心の呵責で彼は、監視塔での仕事を辞めたように思う。ソ連体制で、果たしてそれができたかどうか知らないが。少なくても、ソ連のコマンダー、ドミトリー(Mikhail Trukin )の奥さんのソナ(Nelli Uvarova )とTigranの奥さんは姉妹だから。コネはあるよね。
2)自分のことを正当な?アルメニア人だと思っている男は刑務所の中で最高に引き立つし、監督はアルメニアの知名度を上げるためにも面白い存在を映画に入れたね。自分の国を誇りにしているのいいことだ。アルメニア人がワインを発明したとかいうが、検索してみたら、ジョージア人の説もあるようだ。古代文明の発祥地、メソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス)の土地だから、はっきりアルメニア人と言い切れないものがあると思う。しかし、キリスト教を国教として最初に受け入れたのはアルメニア人だというのは史実となっている。エルサレムにも(モスリム、ユダヤ、クリスチャン、アルメニア使徒教会)があるからねえ。
3)ソ連のボス、ドミトリーのダブルスタンダードと権力の横暴には笑っちゃうね。西洋の物質への憧れ、それを持てない僻みや英語が少し話せる妻ソナから味わう屈辱。ソナの主人公に対する言動を伺っているのを知ってか、その嫉妬深さ。スターリンが死んでから、ニキータ・フルシチョフの大きな写真が飾られたが、ドミトリーの家族はその後どうなちゃうんだろうと思った。スターリン派の人の将来はフルシチョフの政策には結びつかないからね。
最後に、監督はなぜこの作品を作ったのか見当がつかない。パンデミック中の作品のようだ。勝手に考察すると、一つにはアルメニアの知名度の低さにアルメニア人だったら驚くと思う。ダイアスポラはユダヤ人や中国人のように世界中に散らばっているが、アルメニア人はおとなしい人々だ(偏見?)。そして、アルメニアというと主に、オスマン帝国の虐殺を思い出すし、その映画やドキュメンタリーは数ある。それに、メソポタミア文明。三代文明の一つだと言っても、イラン、シリア、トルコ、イラクなどと現在では幅広い国にまたがっている。文化のいいところだけを海外に出す(偏見?)、イスラエルや日本と違って、もっと幅広くアルメニア文化を啓蒙したいのではないかと思う。それを深くするには人間の喜怒哀楽がつきものだからこの映画をこのように、アルメニアで作ったと思う。-私見
すごく良かった こんな状況下でも、 こんなに素直で前向きで、人を信...
すごく良かった
こんな状況下でも、
こんなに素直で前向きで、人を信じて疑わず
どうしたらこんな人ができるんだろう、
そう思いながら何度も泣いてしまった
監督のおじいさんに捧げられてたようだけど、
まさか、おじいさんの体験談?
ヴァーニャを助けただけなのに
お互いカタコトな上に、ちょっとした発音の違いで全く意味が変わってくるからややこしい。
過酷であるはずの状況をユーモアを交えて描くというストーリーは、なんとなく『ライフ・イズ・ビューティフル』や『ジョジョ・ラビット』を彷彿とさせる。
戦後だからユダヤ人の迫害のような事は起こらないとはいえ、理不尽じゃないか。
ずっと、あの時ヴァーニャを助けてなければ...というのが心の片隅に残る。
しかしチャーリーの前向きで気丈なキャラクターと、ティグランへの想いが届かない「志村うしろうしろー」的なもどかしさが微笑ましく思えるのが救い。
と同時に、ドミトリーをぶん殴ってやりたいもどかしさもあり。
終盤のチャーリーの、なんとも言えない寂しげな表情がすごく印象的。
なんか幸せになってほしい。
希望
牢獄の小さな窓から見える故郷
「飛んでお行き、小さなコウノトリ」それは息子の幸せを願う母の思い。
アルメニア人版「ライフイズビューティフル」と呼べるような作品。ホロコースト、いわゆるジェノサイドと聞くと、どうしてもユダヤ人を先に思い浮かべるけどアルメニア人も同じく受難の民であり、ユダヤ人同様ディアスポラを経験している。
本作も「LIB」同様に主人公はどんな苦境に立たされても決して笑顔を忘れずに希望を抱き続けた。
オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を逃れた幼き日のチャーリー。彼を命がけで守った母は銃殺される間際まで彼を笑顔で見送った。「人生これから苦しい時もあるだろうけど、どんな時でも笑顔を忘れてはいけないよ。飛んでお行き、小さなコウノトリ」それは母が息子に込めた思い。息子を思い最後まで笑顔でい続けた母。
これはアウシュビッツに収容されながらも息子を思い、怖がらせないよう噓をつき通したあの父親の姿と被った。彼も銃殺刑に処せられる直前まで隠れてる息子の目の前でおどけて息子を笑わせた。生涯忘れられないシーンだ。
母の思いが通じたのか、大戦が終結し故郷に戻ってきたチャーリーは笑顔を絶やさない紳士となり、子供を助けたことから同じアルメニア人のソナと親しくなる。
しかし、彼女の夫のちょっとした嫌がらせと当時のずさんなソ連の体制も合わさり、チャーリーはスパイとして逮捕されてしまう。
暗い独房に収容されたチャーリー。幼いころに虐殺により唯一の肉親の母を失い、見知らぬ土地で生き抜いてようやく帰ってこれた故郷の地でスパイと疑われてよもやのシベリア送りになる直前まで。
このような悲惨な体験をしてきたなら、人間はへこたれてもおかしくはない。実際に彼の独房での所業に看守たちは彼が頭がおかしくなったのではと疑う瞬間もあった。
しかし、彼は狂ってはいなかった。彼はこんな絶望的な状況の中で小さな幸せを見つけていた。
暗闇が暗ければ暗いほど微かな光でも見つけやすくなるように、彼は絶望的な状況下で微かな幸せを見つけていた。それは独房の小さな窓から見える景色だった。
それは同じアルメニア人で看守のティグランが夫婦で暮らすアパートの部屋。長く故郷を離れていた彼にとってその光景は忘れていた故郷を思い出させてくれる光景だった。
そこで繰り広げられる夫婦の何気ない日々の暮らしを見つめていつしか彼は彼ら夫婦と同じ時間を過ごす。冷たい牢獄にいるはずの彼が暖かい空気に包まれ幸せな時を過ごせた。
仲睦まじい二人と自分とを重ね合わせ彼らの幸せがまるで自分の幸せのように感じられた。大勢の来客を招いた際にはアルメニア人の伝統的な食事の作法なども学ぶことができた。
彼は日々の強制労働や粛正による拷問のつらい日々でもその窓から見える景色のおかげで幸せを感じることができた。
夫婦が離婚の危機には彼が何とかして彼らをつなぎとめようとキューピットの役割まで果たした。文字通り地面にスノーエンジェルを描いて。
彼の存在に気付いたディクランは彼に感謝して、それから彼らの窓越しの交流が続いた。やがて夫婦に子供が出来てそれを自分のことのように喜ぶチャーリー。
しかし運命は彼らにさらなる試練を与える。粛清の拷問担当にティグランが選ばれたのだ。初めて言葉を交わせるほどに近づけた二人だったが、それは言葉ではなく暴力を浴びせる場面であった。
スターリン体制のソ連で逆らうことは死を意味する。チャーリーもそれを理解していた。殴られた方のチャーリー、殴らされた方のティグラン、二人は共に同じ痛みを受けた。
彼らはともに傷ついていた。同じ民族同士で傷つけ合わねばならなかった彼らのその姿こそソ連統一の名のもとに行われたスターリンの民族政策に翻弄された少数民族の姿だった。
同じ受難の民のアルメニア人同士、ようやく祖国に戻った彼らにとってソ連のスターリン体制は残酷であった。
しかし二人の絆は壊れることはなかった。ともに描いたアララト山の絵を見せ合う二人。それはまさに彼らアルメニア人の祖国の象徴でありアイデンティティの源。それが彼らの絆をより強いものとしていた。
ノアの箱舟が大洪水を逃れて辿り着いたとされるアララト山。ジェノサイドを経験しディアスボラを経験してやっと祖国にたどり着いた彼らも同じだった。
やがて別れの時が訪れる。ディクランたち家族は転居してしまう。そしてチャーリーもソナの計らいで釈放されることに。
故郷を探すつもりで祖国へ戻ってきたチャーリーだったが、彼はある部屋を借りてそこで暮らし始める。
その部屋の窓からはチャーリーが閉じ込められていた独房の窓が見えた。この部屋こそディクランたちが暮らしていたあの部屋だった。
チャーリーはここに故郷を見出していた。だから故郷を探す必要はもうなかったのだ。彼はここで家庭を築き幸せに暮らした。カーテンを閉めることはけしてなかった。
独裁者たちがいくら物理的に人の命を奪おうとも彼らの魂までは奪うことはできない。彼らの思いは受け継がれていく。たとえその人間が死のうとも失われず受け継がれていく彼らの意志。死んでも失われないものを魂というのならその受け継がれていく意志こそ魂と呼ぶんだろう。母の魂は息子に受け継がれ、彼は幸せを運ぶコウノトリとなった。
人生で忘れられない映画のワンシーン、「ライフイズビューティフル」の一場面を思い出させてくれた。
「過酷な状況でも希望を失わず」
なんとなくユーモラスで、ほのかに温かい。
映画のノリに付いていけないままで終わってしまった
独特のリアリズムとリズム
基本的に前情報ゼロで観るが、
本作は、
メインビジュアルの人と木が、
なんとなく、イェジー・コジンスキー(youtuveで話題にしてます)の、「チャンス」に似てるので、観た。
驚いた!1915年オスマントルコ・・・!
主人公の意としない状況に、
巻き込まれていくのは似ているが、ベクトルが真逆だ。
言葉が通じないという状況を逆手に取り、
そのもどかしさや切なさを、動作や表情で表現している。
シナリオ、演出、そしてキャラクターたちの芝居は、
言葉の壁を超え、感情の機微を雄弁に物語る。
登場人物たちの表情や仕草、
目の動きひとつひとつが、
彼らの内面を映し出す、
これは、現代の映画製作において難易度の高い挑戦であり、
見事に成功していると言えるだろう。
また、安易にハッピーな展開に流されない、
独特のリアリズムに満ちた展開も本作の大きな魅力だ。
不条理で、残酷な現実が連続して突きつけられるが、
それらを乗り越えていく登場人物たちの姿、
このリアリズムの文法は、
ロシア文学から多大な影響を受けている可能性を強く感じさせる。
そこには、大国の狭間で生きる人々のたくましさや、
逆境に立ち向かう人間の普遍的な姿が描かれているかのようだ。
劇中に登場する文化的な要素も、
この映画の奥深さを形作っている。
ゴラニはゴラン・ブレゴビッチ(あくまでもゴラン、ゴラニという語感からだが劇伴の曲調の類似性は見逃せない)
胡弓のような細い弦楽器、
そしてドクトル・ジバゴを連想させるバラライカのような楽器の登場は、
映画の背景に広がる複雑な歴史と文化の融合を示唆している。
四方を小国と大国に囲まれた地域の複雑な背景が、
映画の文法、リズム、音楽、
そして使用される楽器にまで色濃く影響を与えているのが、
随所から見て取れる。
これらの要素が単なる雰囲気だけではなく、
物語の深みを増す重要な役割を担っている。
まさに「発掘良品」という言葉がふさわしい一本だ。
言葉に頼らない表現の可能性を追求し、
独自のリアリズムで人間の普遍的な感情を描き出した。
給仕のおじさんが、どことなく、ピーター・セラーズに似ていた。
我々には感覚的に掴みづらい作品かも。
アルメニアは黒海とカスピ海に挟まれた地域にある国である。キリスト教徒(アルメニア正教会)が多いアルメニア人による民族国家であるが地図でみるとトルコとイランに接していて古くからペルシャとトルコの支配を交互に受けてきた。第二次世界大戦後に独立は果たすが、今度はソビエト連邦加盟国家としてモスクワの支配を受けることとなった。アルメニア人虐殺は第一次世界大戦前後に東アナトリア地方でトルコ軍が行ったものでこの影響もあってアルメニア人は世界各国へ離散することとなった。という程度の知識がないとちょっとこの作品は何が何だか分からないかもしれない。
「帰還者」がキーワードであり、アメリカに渡っていたチャーリーが故国アルメニアに戻ってくると、そこはバチバチのスターリニズムの教条主義国家となっていた。チャーリーは水玉のネクタイをして公衆の面前に現れたため、帝国主義者、世界主義者(トロッキズムのことだと思う。分かんないよね)の烙印を受け投獄される。彼が、獄内で心を通わせる看守のティグランは元々は高名な画家だったのだけど、教会を描いた廉で絵を取り上げられている。
この辺まで書いてきてゾッとしているんだけど、これって「ミッドナイトエクスプレス」ですよね。不寛容との戦いというか。
でも、監獄自体は、管理が緩いというか、全般に戯画的というか、心が通っているところがホッとします。
映画としては、チャーリーが覗き込むティグランのアパートの様子で話は進んでいくのですが、これがいわゆるワイドスパンのお家でして「裏窓」っぽい。ちょっと最後の方がドタバタして尻切れトンボな印象はあったけど。
アルメニア人の監督がつくった作品です。(アメリカ資本は入っているが)途中、アルメニア自慢みたいなのが突拍子もなく挿入されますがご容赦ください。ちなみにアルメニアコニャックですがアルメニアのブランデーは品質が良いので有名です。確かに厳密にはコニャックって呼ぶのは僭称っていうやつですが、ロシアから東欧にかけては幅広く一般名称として通用します。ほんの10年ぐらい前まではラベルに堂々と印刷してありましたよ。
お国柄、お人柄
幼い頃、トルコからのジェノサイドを逃れて一人「ある特殊な方法」でアルメニアを離れ、遠くアメリカへ渡ったチャーリー(マイケル・グールジャン)。その後、ソ連の統治下となったアルメニア・ソビエト社会主義共和国が「離散したアルメニア人を呼び戻す」ために打ち出した政策に乗じ、微かに記憶に残るメロディーの一節を頼りに、故郷を求めてアルメニアを訪れます。ところが、度重なる意思疎通の齟齬によって「すれ違いコント」さながらにおかしな展開から収監されてしまうチャーリーは、突然に発生した天災がきっかけで起こる「奇跡」によって、自分の牢の窓から見える「向かいの部屋の様子」に気づいて興味を持ち始めます。
言葉や立場などが障壁となってもどかしい状況が重なり、時に死んでしまいたくなることもありますが、その都度、小さな希望を見出しては這い上がろうとするチャーリー。そもそも、自分の祖国でありながらも殆ど記憶や知識がないため、この土地での慣習や振舞い方すらわからない彼は、窓の外に見える「世界」からヒントを得ることで祖国を知り、そして自分の故郷をイメージして思いを馳せます。
一方、作品中の殆どの時間をチャーリーと向き合う役人たちが、「良い意味」でステレオタイプなキャラクターが揃っていて、地味になりがちなシチュエーションを見事に展開させていく役割を担っています。むっつりして如何にも俗物といった感じも、モスクワと妻には頭が上がらず立場の堅持に必死な高官。日和見で処世術に長け、即断即決することでリスクを取らない所長。モスクワ色強くて融通が利かず、目付け役でありながら隙さえあれば虎視眈々と出世も狙っているであろう副所長。そして、最初こそチャーリーに意地悪な仕打ちもするが、どこか牧歌的でまた人情にも厚い属吏達など、モスクワとの距離感も判るような「地方」だからこその世界観と、厳しい歴史が続いたお国柄、お人柄が見えて味わい深く映ります。或いは、彼らと関わりの強い「女性陣」がいずれも(この時代にあって)男勝りで主張が強く、影響力があるからこそ、惑いがちな男達の箍(たが)となって支えているようにも感じます。
決して劇的な感動はありませんが、しみじみ感じ入るような作品性と、グッと掴む「決定的な瞬間」に思わず涙腺を刺激され、チャーリーに引っ張られるようにアルメニアへの興味も沸いてきます。ラスト、これで終わりかと思うシーンからもう一つ、少し先の「未来」が描かれます。早まって席を立たれませんように。良作でした。
愛溢れる視線で周囲を見つめるチャーリーにハラショー!
アルメニアの悲しい歴史は知りませんでしたが、オスマン帝国に大量虐殺され、国を追われた人々を「夢の国へようこそ!」の如き甘い言葉で招き入れ労働力として利用するソ連に胸クソさを覚え、刑務所職員やチャーリーを陥れたドミトリー達のいかにも劇チックな演技に多少閉口しましたが、それを遥かに上回るチャーリーの優しい表情に終始キュンキュンしっぱなしでした。
言葉は通じなくても優しさは伝わるもので、日を重ねるほどチャーリーの身の回りに幸せが溢れてくるのが何とも言えず、こちらにも幸せが乗り移って来るようです。
そして窓越しに繰り広げられる刑務所の看守ティグラン夫妻の日常、会話の内容は聞こえてこなくても、そこで起こっている葛藤などがチャーリーの目を通してワタシの胸にもビンビン届きました。
予告編を見た限りでは、ヒューマンドラマだろうがそれほどでもないのかな、なんて思っていましたが、とんでもない!大きな感動をもたらしてくれました。
エンディングでアララト山をバックに民族衣装と楽器で唄い・踊り・演奏する人たち、その姿や旋律からはソ連なんて一切想起させられない、全く別物の文化や歴史のある国だということが理解できます(作品中でも囚人仲間が、いかにアルメニアという国が世界に先駆けた者や由来があるのかと自慢するのも、オラが国への誇りからくるものなのでしょうね。)。
そんな国が力によって支配されてしまう、本当に戦争はイヤだ(そう言っている間にも北や中東ではたくさんの命が奪われている現実)、その嫌な世界を忘れさせてくれそうな、生きているって、希望を持つって、誰かを愛するって素敵だな、そう思わせてくれる作品でした。
ピーピング・チャーリー
セザンヌが描くサント・ヴィクトワール山と思っていたら…
アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓
アメリカからソビエト社会主義共和国連邦統治下時代に故国アルメニアに帰還した男の話。
塀の向こうの夫婦生活が、蒲焼きの匂いをオカズとしての牢獄暮らし、
恋があり、ホームパーティーあり、夫婦喧嘩あり、歌や別れもあり…
のぞき生活も楽しそうだが、ヒッチコックの「裏窓」を思い出しながら、類似性は思い出せないが、見てはいけないものを見過ぎではないかと思いつつ、盗撮者の楽しんでいる姿を見ている自分も恥ずい。
それにしてもアルメニアって何処なんだ?
こんな国だよっと、
上手い掴みで、
しっかりとアルメニアの歴史と文化を勉強させてくれます。
その一つが、何といっても世界で最初にキリスト教を国家宗教として採用した国で、今も息づいているのが誇りなんだろう。
しかも、何千年も昔からあの紛争地帯でアルメニア人一民族国家として成立しているのだからこれは凄い。
だからこそ、アルメニア人は柔軟で、したたかで、愉快なんだろう。
そして、過去からコウノトリなんだ。
でも、映画としてラストを一つに絞りきれずにどれも白昼夢となったのが残念だ。
そこがまたアルメニア。
それは、エンディング後のおまけの背景には、
日本の富士山の様な、
雄大なアララト山5,137mを故国と讃えていた情景がコウノドリ民族と彷彿させていた。
( ^ω^ )
アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓
ソ連統治下のアルメニアを舞台に、無実の罪で収監されたアメリカ人男性が、
牢獄の小窓から見える部屋に暮らす夫婦を観察することに幸せを見いだしていく姿を描いたヒューマンドラマ。
幼い頃にオスマン帝国でのアルメニア人迫害から逃れアメリカに移住したチャーリーは、1948年、自身のルーツを知るため祖国アルメニアを訪れる。
そこはソ連統治下にあっても理想の故郷のように思えたが、チャーリーは身に覚えのないスパイ容疑で逮捕・収監されてしまう。
悲嘆に暮れるなか、牢獄の小窓から近くのアパートの部屋が見えることに気づいた彼は、そこに暮らす夫婦の生活を観察しはじめる。
チャーリーは想像力を研ぎ澄ませ、まるで夫婦と同じ空間にいるかのように彼らと一緒に食事をし、歌を歌い、会話を楽しむようになる。
しかし夫婦仲がこじれて部屋には夫だけが残され、時を同じくしてチャーリーのシベリア行きも決まってしまう。
移送の日が迫るなか、チャーリーは夫婦を仲直りさせる作戦に乗り出す。
アルメニア系アメリカ人のマイケル・グールジャンが監督・脚本・主演を務めた。
ウッドストック映画祭長編映画賞・審査員賞など、世界各地の映画祭で数々の賞を受賞。
アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓
Amerikatsi
2022/アルメニア・アメリカ合作
(^_^)
アルメニア共和国はユーラシア大陸に位置し、黒海とカスピ海にはさまれた南コーカサスの国です。
アルメニアは、北にグルジア、東にアゼルバイジャン、南にイラン、西にトルコとそれぞれ隣接してお り、海の無い内陸国です。
首都は、エレバンです。
「アルメニア共和国」はアルメニア語では「ハヤスタン」と言います。
人の幸せを妬んでいる限り幸せにはなれない…
浅学にしてアルメニアの近代史について全く知識がありませんでした。
オスマン・トルコによる虐殺、ソビエト連邦による支配、
強国の都合で振り回される小国の国民たち。
けれどどんなところであっても故国は故国で、魂が帰るところなのかもしれません。
とにかく主人公のポジティブっぷりに圧倒されます。
痛めつけても痛めつけても幸福を見つけ出す主人公に苛つく悪役たちの気持ちも分からなくはないですが
人の幸せを妬んでいる限りいつまで経っても彼ら悪役たちが羨望し、憧れている幸せはかえって手に入れられないということが悲しくなります。
そんな理不尽な暗い状況を描いているのですが、大真面目なゆえに逆に愉快なシーンが背景設定の暗さを和らげる灯火となり、映画の雰囲気を穏やかなものにしています。
独房の模様替えを眺めているだけでなんだか幸福感に満たされました。
アルメニアを舞台にした映画を初めて観ましたが、エキゾチックな異国情緒が興味深かったです。
チャーリーとティグランの間に「言葉」はいらない
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