能登デモクラシーのレビュー・感想・評価
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ありがとうございます、かな。
大きく取り上げられている、滝井さんがすばらしい。
信じる道を実直に歩む姿が潔いです。
「ボランティアの滝井です」と言いながら仮設住宅を回る姿に頭が下がります。
音楽(音響効果?)もいいよね、というのも今回の収穫でした。
こんな奥能登を全国に紹介していただいた監督に感謝します。
民主主義(デモクラシー)を「生きる」ということ
多くの人々は、民主主義を深く意識することなく、その恩恵を享受しているように見える。
しかし本来、社会学の視点ではこう言われる——「民主主義を支えるには、フリーライド(ただ乗り)は許されず、労力や時間というコストがかかるものだ」と。
では、そんな「手間のかかる民主主義」を実践している人は、どれだけいるだろうか?
石川県・能登半島の小さな町、穴水町に、まさにその体現者とも言える人物がいる。滝井さんという方だ。
彼は、手書きの新聞を自ら作成し、それを1軒1軒「お変わりないですか?」と声をかけながら、町の人々に配って歩く。
情報発信者であると同時に、まるで保健師のように人々の暮らしに寄り添う——そんな活動を、すべて無償で行っているのだ。
タイパ、コスパ、映え——現代において重要視されること全てが真逆である。
天才社会学者と称される故小室直樹氏は「社会が廃れれば、人が輝く」と述べたという。能登は震災があり、穴水は限界集落であるのだが、滝井さんはその言葉を地で行くような存在に思える。
頭が下がる思いとともに、ただただ尊敬の念を禁じ得ない。
この映画は、民主主義を「制度」としてではなく、「日々の営み」として生きるとはどういうことかを、私たちに突きつけてくる。
一人でも多くの人に観てほしい作品である。
紡ぐ
【批判だけに終わらない取材姿勢に共感】
タイトルなし(ネタバレ)
鑑賞する前に、映画の紹介記事を読むことはリスクを伴いますね。
つい、予断を持って、それが誤誘導に結びつくと最悪です。でも、
ある程度は調べておかないと観るか観ないかの決心がつきません。
ハイゼンベルクの不確定性原理みたいなもんッスねー。
前町長の所有する土地に現町長が理事長を兼任する介護施設を
主軸とする「多世代交流センター」を町と国に金を出させて
建設するという利益誘導型の政策が、まかり通ってしまうのは、
首長側の問題なのか議会が機能していないのか市民の眼が届いて
いないのか。そういった問題が主軸になる映画かと思っていたら、
なかなか、どうして一筋縄ではいかない深みのある作品でした。
こういう作品は、何回も見直して観たいし、五百旗頭監督の
『はりぼて』や『裸のムラ』を観たくなります。
町の職員を辞職して町議会に初出馬する方の選挙活動や
開票結果を待つ陣営の様子、当選直後に前町長や現町長が
祝福する様子などが描かれるのですが、開票が始まると
同時に前町長が「当確や」と断言し「811票も取るとは
なあ。初出馬でトップ得票だ」「マスコミの当確は、我々より
遅いのよ」などと、一種、ハシャいでいる姿が映し出される
というのも、なかなかスゴイのです。実は、前町長や現町長が
初出馬の議員の当選を祝ってるシーンは、最後に現町長の
顔色を失わせることになるのですが、そういったジャーナリズムの
正義感が鋭く不正を暴くみたいな映画だろうと思い込んで
観に行ったのが予断でした。
新聞『紡ぐ』を毎月2回も発行し、自らの手で公共施設や震災後には
仮設住宅の一軒一軒に配布しながら、「困ってることはない?」と
声かけをしている滝井元之さんというスーパー80歳も、カメラは
丹念に追いかけます。滝井さんは、ソフトテニスのコーチや監督なども
していて、中学生や小学生のチームを全国大会に出場させたりしています。
そういう滝井さんを震災後には現町長とタッグを組むかのように手を
携えて穴水町のビジョンを描こうとする姿も映し出されるのですが、
予断を持ったままだとシニカルに見てしまう、このシーンや、あるいは
町議会で質問する議員が発言の最後に「答弁には及びません」と付け加える
奇異さも、五百旗頭監督は、ある舞台挨拶で 「穴水には分断がない」と
表現したというんですね。その視点で、この映画を鑑賞したら、まるで
違う風景が開けてきます。。
この映画を観ていて私が一番ニンマリとしたのは、五百旗頭監督も
馳知事のことをバカにしてるか、少なくとも嫌いなんだあと思える
ショットが、いくつもあったことでした。
能登デモクラシー
ここから始めねばならないのかと暗澹たる思い
老齢化・人口減少が続き、このままでは消滅も遠からずと思える石川県の穴水町の政治を見つめたドキュメンタリーです。
役所から一本釣りされる様な形で町会議員選挙にトップ当選し、前回のトップ当選議員は町長になり、前町長の仕事を引き継ぐ。そして、新町長が理事を務める施設を前町長の土地を借りて町と国の資金で新設するという余りに分かり易い利益誘導。それを監視する筈の議会を、この20年間一度も質問した事がないという37年職歴の長老議員がが取り仕切る。行政・議会・役所がこれ程あからさまなズルズルの馴れ合い関係で、選挙の投票率も高く住民に承認され続けている事に驚きます。
民主主義という事を、こんな所から始めねばならないのかと暗澹たる思いがしました。でも、これは地方だから分かり易いだけで、都市部ではもっと巧妙に同じ様な事が進んでいるのだろうな。これが、80歳を迎える日本国憲法を頂く国の姿だ。
『批判』の先にある対話の積み重ね
福岡にあるKBCシネマで五百旗頭監督の舞台挨拶付き上映を鑑賞。監督の作品ならすぐ満席になるはず!と思って3日前に座席を確保しましたが、当日来てみると空席が目立つ状態。九州は公開が遅いうえ、舞台である石川から距離があるため観客の関心が薄いのか…ぜひ沢山のひとに観てもらいたい作品です。
本作品の主人公である滝井元之さんは、石川県穴水町の山奥にある限界集落で手書き新聞を発行し、町の魅力や政策に関する意見を積極的に発信している元・中学校教師。滝井さんは新聞『紡ぐ』を毎月発行し、自らの手で公共施設や各家庭へ配達を行う。さらに週5日はボランティアで子供向けテニススクールのコーチをしており、80歳になるとは思えないバイタリティ溢れまくる御仁である。
そんな滝井さんの言葉で印象的だったのは「批判のための批判ではない」というもの。滝井さんは旧態依然としている議会のあり方や、私欲に走る議員をしっかり批判するが、批判して「終わり」ではない。手作り新聞で自らの意見を表明し、各家庭を回って町民の声に耳を傾け、困りごとがあれば手を差し出し、要望を役場まで届け、自ら批判した議員とも笑顔で協力する。滝井さんの批判の先には、愛する故郷をより豊かにするための具体的かつ地道な行動が伴っているのだ。そして、16年に渡る行動の積み重ねによって、地域での厚い信頼を獲得している。それに比較して、常日頃の自分を振り返ってみると、いかに行動が伴っていないかを痛感させられる。なにかを変えたければ、滝井さんのように自ら行動しなければならないのだ。
舞台挨拶のなかで監督は「穴水には分断がない」と表現していた。昨今のSNSでは立場や意見が少しでも違えば、徹底的に攻撃するのがあたりまえ。意見の違う相手は敵と見なされ、そこには話し合いや妥協の余地は存在せず、時には人格さえ否定する。まさに批判のための批判である。それに対して穴水では、滝井さん、町民、町議会議員、町長、五百旗頭監督…みんな立場も意見も異なるが、相手を同じ人間として尊重し、協力しようとする意志がそこには存在する。ある議員は滝井さんに触発されて仮設住宅を訪問して回り、町長は屈託ない笑顔で滝井さんに漢字の書き方を教える。悪い部分があれば批判もするが、意見や立場が違うからといって相手を完全にシャットアウトするわけではない。分断なき対話の積み重ねがこそが、時間をかけて民主主義を形成し、よりよい町をつくってゆくのではないだろうか。
ちなみに監督は前作『裸のムラ』で警戒されていたにも関わらず、議員たちが誠実に取材を受けてくれたことに対して好感を抱いたそうだ。そしてなんと、金沢の舞台挨拶では商品券を受け取った問題の議員2人がゲストとして登壇したうえパンフレットを購入して帰ったそうで、監督は「そんなこと普通ありますかね」「彼らのそういう人間味のあるところは好きです」と笑っていた。
穴水町の現状は、私たちが住む町の未来の姿でもある。自分ができることは何なのか、考えさせれられる映画でした。他人のために身を粉にして働く滝井さん、滝井さんを支える可愛らしい順子さん、たくさんいる猫ちゃんたち。みんなが故郷で穏やかに楽しく過ごせることを応援すると同時に、自らも地域のための行動を起こしたいと思う。
デモクラシーのみえ隠れ
序盤は、穴水町長の経歴が無難に描かれる一方で、対抗軸としての滝井氏の経歴も縷々取り上げられていく。2024年元日の能登地震前から、それぞれの取材が進んでいて、地震後の復興未来づくり会議に滝井氏も含め、若い世代の人々が参画し、町長も参加して耳を傾けようとする姿勢に、確かに希望が感じられた。事後のトークにおいて、五百旗頭監督は、前作『裸のムラ』で警戒されていて、他の取材対象に断られた経緯があって、滝井氏に辿り着いたという事情、他作と比べて希望を描いた面が評価される一方で、妻との関係に懸念を感じて、そこも描き込んだことを述べていた。進行役の田村元彦氏は、『はりぼて』は富山だからそうだったけれど、他の都市ではどうか、福岡県大任町とは対照的だ、と問いかけていた。
発言の機会があり、『はりぼて』上映の時期に自分が広島に住んでいて河井夫妻問題が表面化していたので参考になったこと、福岡に住んでみると市のレベルと校区や町内のレベルとでは違うこと、NHKの取材では既存の自治会機能の衰退が描かれているが滝井氏の活動はそうした機能を補完するものとみてよいのか、と提起してみたが、五百旗頭監督は、滝井氏の活動について、補完を超えたものだと評価していた。他に、当地に知り合いがいて、町長や反対派の動きへの意見を紹介してくれる方もいた。
町の人々にとって何が一番大事なことなのか
映画の前半では、地方議会の闇をたった一人で追及し、手書き新聞で告発を続ける滝井さんの姿が描かれる。
町の人々に損得勘定なく奉仕する彼の利他的な人柄に感情移入させられた後、大地震が発生。
町中の家屋が倒壊する中、監督が滝井さんにスマホで連絡を取ろうとするが繋がらない。
町の人々に滝井さんの行方を聞いても、誰も彼の居場所を知らない。
まるで親戚のように、赤の他人であるはずの滝井さんのことを本気で心配してしまった。
安否が判明した時は思わず涙がこぼれた。
穴水町の議会が推し進めようとしている「多世代交流センター」は、まるで大阪万博。
町の人のためと言いつつ、実態は利益誘導に過ぎない。
腐敗した議会のトップである町長は、まさに悪の親玉とも言える存在だったが、地震発生後に劇的に変化。
前半は権力者のために動いていた彼が、後半では地元住民のために汗水流して働く姿に衝撃を受けた。
選挙パフォーマンスのために一時的にそういった活動をする政治家はいるが、町長はそうは見えなかった。
大地震で苦しむ町民の姿に心を動かされたのか、それとも石川テレビで議会の不正疑惑が報道され、自身の行動を正さなければならないと思ったのか、その変貌の理由は謎に包まれている。
しかし、利己的だった人間が考えを改め、利他的な行動を取る姿はとても感動的だった。
前半では対立していたはずの滝井さんと町長が、後半、一緒になって住民たちの意見を聞きに行く場面は胸が熱くなった。
日本の政治は腐っていると感じることが多いが、この瞬間には希望を感じることができた。
ここで終わっていても十分に素晴らしい映画だと思うが、ラストにはとんでもないものが描かれる。
前半、一人の議員が選挙に当選する場面で、町長が選挙違反をするシーンがさりげなく映し出されていた。
映画のラストで、監督はそのことを町長に追及。
最初は余裕そうな振る舞いでとぼける町長だったが、監督の想定問答は完璧なようで、町長が何を言っても論破。
表情からは明らかに余裕がなくなり、ついに観念した町長は、最後は力のない表情で、どんな罰でも受ける覚悟ができているように見えた。
映画やドラマならともかく、リアルでこんなシーンを見たのは初めてかもしれない。
しかし、今目の前に映っている町長は以前とは違う。
彼は今や町民に寄り添う素晴らしい政治家になっているわけで、たとえ過去に過ちを犯していたとしても、彼を断罪することが本当に良いことなのだろうか?
そんなことを考えていたら、その後に監督が町長に語りかける言葉が予想外で衝撃的だった。
文春砲で不正が発覚した有名人を徹底的に叩くコメンテーターたちとはまるで逆だった。
町の人々にとって何が一番大事なことなのか。
それを考えれば、監督の行動に拍手を送りたい。
地震発生後、SNSなどでは過疎地域を切り捨てようとする意見が噴出し、不安に思った町民が町長に「街を残してほしい」と直訴。
SNSの意見を力強く否定し、町民を安心させようとする町長の隣にいた、馳浩石川県知事の冷めた表情が忘れられない。
過疎と震災、政治と生活
石川県穴水町の元中学校教師の男性が、農業とボランティア活動をしながら手書きの新聞を発行する様子を追ったドキュメンタリーです。その男性滝井氏は80歳だそうですが、無尽蔵にも思えるほどのバイタリティーで活動しています。見る前は町長の所有する施設にまつわる問題が主なテーマだと思ってたんですが、能登の人々の暮らしぶりにも結構時間が割かれていました。こういう過疎の地域で暮らすことの大変さをしみじみと感じました(一方で非常に豊かな面もあると思います)。滝井氏は優しい性格ゆえか鋭く追及するという感じではなく静かに寛容に対処しているように見えました。そこは最後に監督が代わりに追及していましたが。町民も、しがらみのせいか思っていることをはっきりと言える人はいないようで、彼のような存在がいなくなれば政治家のやりたい放題になってしまうだろうと思います。五百旗頭監督の今後の活躍に期待しています。
限界集落から見えてくる政治と民主主義とメディア。そして愛。
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