「ブラピに始まりブラピに終わる。これぞスターの風格! カッコイイとは、こういうことさ。」映画「F1(R) エフワン」 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ブラピに始まりブラピに終わる。これぞスターの風格! カッコイイとは、こういうことさ。
ブラピ、かっけ~~~~!!!!
基本的に感想はこれだけなので、
それ以上あまり書くことがない(笑)。
やっぱり、ハリウッド・スターってのは、
オーラが違うな。
しょうじき、このあいだTVでやってた『M:Iデッドレコニング』でトムクル先生見て、もうだいぶおじいちゃん入ってるなあ、枯れてきちゃったなあと思ったんだけど、ブラピはまだまだテラテラしてるわ。
一線級のモテオーラ。憎めない愛嬌。オスのフェロモン。
往年のスティーヴ・マックイーンに負けてない。
キアヌは暗いうえに薄いし、ジョニデは荒んでるうえに汚い。
デカプーはいまや、ただのそのへんのオッサンだ。
アル・パチーノやデ・ニーロはたしかに往年の大スターだけど、
性格俳優の要素が強くて、アクションヒーローのイメージがない。
逆にスタローンやシュワちゃんは知性派オーラに欠ける印象。
その点、ブラピはまだ現役感を体じゅうから発散させてて、本当に素晴らしい。
もうさ、座ってても立っててもかっこいいわけ。
胸元を開けてても締めてても、かっこいいわけ。
笑うとチャーミング。くぼんでるとキュート。
2時間半姿を追ってて、ぜんぜん飽きない。
これがスターの風格なんだなあ、と。
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あと、出だしでいきなり
ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」!
で、クイーンの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」!
よくやるよ(笑) 臆面もなさすぎる。
ケツがむずがゆくなるような直球の選曲だが、
これがいい。たまらん。
自分も学生マジックの舞台に立っていたときは、
開演前に景気づけで『アキレス最後の戦い』を
ウォークマンで聴いていたのを思い出す。
鉄板だよね、鉄板。
ハンス・ジマーの楽曲も、
いつもどおり、終演すれば、
なんにも記憶に残らないような、
ひっかかりのないBGMではあるが、
映画の盛り上がりに合わせて、巧みに
客の心の動きをステルスで操作してくる。
こちらもプロフェッショナルの仕事ぶりだ。
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お話自体は、正直たいした話ではない。
恥ずかしいほどの「王道」プロットだ。
ちゃんとはしているけど、
別段深い内容があるような映画ではない。
型破りな風来坊のオールドルーキーが、弱小チームに乞われて30年ぶりに復帰して、しだいに実力を発揮してサーキットを席捲する。
同じチームの若手(黒人)とは反発しあいながらも、最後は信頼関係で結ばれ、若手はヴェテランの教えを吸収しながら成長を遂げる。
これ以上ないほどの「よくある」話だが、王道ゆえの「堅固さ」と「充足感」がある。
ストレスがない。展開がスムーズ。収まるところに収まっている。
娯楽映画ってのは、マジでこれでいいんですよ。
ああだこうだ、思想を入れたり、新機軸を入れなくても、面白けりゃそれでいい。
前作『トップガン マーヴェリック』(22)同様、ジョセフ・コシンスキーという監督は本当にそのへんがよくわかっている。過不足のない設定とスタイリッシュなアクションで、誰もが虚心に楽しめるエンタメに仕上げるのが本当にうまい。
別に「深い」映画を撮るわけじゃないけど、エンタメ職人としては超・超・優秀。
アカデミー賞かなにかのときに、トム・クルーズもコシンスキー監督も「過小評価されているが本物のプロフェッショナルだ」といった薦を多く耳にしたが、たしかにビッグ・バジェットの企画を成立させる「実務者」としてのバランス感覚は、ふたりとも図抜けているように思う。
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そもそも、『F1』は大成功を収めた『トップガン マーヴェリック』の方法論を再活用している部分が大きい。
①定型の物語の活用
型破りのヴェテランと、伸びしろのある若手のマッチング。
反発のなかで生まれる友情と、知識と技術の継承。
弱小チームの再建。ミッション達成の高揚感。
『F1』には、『トップガン マーヴェリック』で成功を収めた物語の組み立てが、ほぼそのまま導入されている。これはおそらくコシンスキー監督にとっての、相撲や柔道でいうところの「必勝」の型というやつだ。
ただし、監督本人は『トップガン マーヴェリック』は「父子」の物語(いかにもアメリカですね)、『F1』は「ライヴァル」の物語だから別ものだと言っていて、まあそう言うだろうなと(笑)。あと、監督の中では『ハスラー2』(86、マーティン・スコセッシ監督、ポール・ニューマン×トム・クルーズ)を意識した部分が大きいということで、ああなるほど、と。たしかに、よく似た構造の映画だよね、あれは。
あと、Wikiにシルベスター・スタローンの『ドリヴン』(01)と似ていると書いてあって、そういやあれもヴェテランと若手の映画だった。
②スター・ムーヴィーとしての大前提
大スターを起用して、“コックピットに乗せる”。
これが『トップガン マーヴェリック』の第一成功法則だ。
マシンバトルには肉弾戦より、初老の男が勝ってもおかしくないリアリティがあるからだ。
インタビューでコシンスキー監督は「この規模とスケールで映画を作る場合、主役候補のリストには3、4人しかいません」と述べている。要するにこの監督は、筋やアイディアからではなく、バジェットから映画のスキームを考えているのだ。
失敗できない巨大プロジェクトを任された
→スターが主役じゃないとダメ
→トムとはもうやったから次はブラピ
→ブラピはレース愛好家だからF1
→ブラピを車に乗せるためには理由が必要
→セカンドチャンスの老雄としてのキャラ付け
→ライヴァルには若者が必要
こうして、①で提示した王道プロットが必然的に導かれてくる、というわけだ。
③全面協力の取り付けとリアリティの追求
『トップガン マーヴェリック』で、コシンスキーは海軍の全面協力を取り付けることに成功した。今回、『F1』ではF1自体をスポンサードにつけることに成功しており、F1サイドは、ロゴの使用から本戦を用いた撮影、実際のレーサーやエンジニアの出演に至るまで、すべてのことに全面的な協力を惜しみなく行っている。
ビッグ・バジェット映画の強みを最大限に発揮して、最も主要な相手先を巻き込んで「オフィシャル」な作品に仕立て上げるというのは、きわめて重要な戦略だ。
その結果として、『F1』は、実際に客の入ったサーキットで、練習と本番のグリットのあいだで撮影するという、とてつもない偉業を成し遂げた。
リアリティがあるどころではない。
映っているのは、本物のF1であり、本物の観客なのだから。
コシンスキー監督は、題材(海軍、F1)からしても、どちらもマニアが鵜の目鷹の目で細部に目を光らせてくることはわかっていたから、とにかく「リアリティ」の確保が重要だったと述べている。
そのリアリティの部分を、本体を巻き込むことで達成した調整能力の高さは、やはり有能だとしかいいようがない。
④シンプルさを恐れない
同じインタビューで、コシンスキー監督は、タイトルが『F1』に決まってほっとしたと述べている。「『グランプリ』があり、『栄光のル・マン』(原題『Le Mans』)があったんだから、この映画のタイトルは『F1』にしたかったんです」とのこと。
彼のいうところの「ジェネリックなタイトル」よりも、芯を食ったタイトルを付けたいという指向性は、トップ・オブ・トップにオファーする姿勢や、関係団体の親玉と真正面から契約して協力を乞うやり方とも通底する。
要するに、彼は「まっとうなエンタメ」を目指す際に、常に「最短距離」を模索するタイプなのだ。くだらないことを考えない。要らないことを付与しない。
そうやって作られた「エンタメ」は、骨太で、無駄がない。そして強度がある。
これほどにビッグ・マネーが動く仕事に適した監督もいないのではないか。
ただ最初に言ったとおり『F1』が「たいした話ではない」のも確かだ。
観ている2時間半のあいだは、息つく間もなく猛烈に「上がる」体験を約束できる。
その一方で、おそらく2週間も経ったら内容すら忘れてしまうような、人生にほとんど爪痕を残さないまま忘却されるだろう映画でもある。
でも、僕は娯楽映画はそれでいいとマジで思っている。
そして、その方向性において、
『F1』が最高品質のエンタメ映画であることに相違はない。
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僕はここで何度か書いているとおり、免許をもたない究極の車音痴である。
30代までセダンを車種名と思いこみ、月極駐車場を「げっきょく」という社名(月星シューズみたいな)の会社だと思っていたくらいのぼんくらだ。実家にも車はなく、バスと電車だけを乗り継いで、この齢まで生きてきた(笑)。
ただ20代のころ、よくF1のTV放送は観ていた。
アイルトン・セナ、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、ミハエル・シューマッハ。
彼らの激走は、THE SQUAREのフュージョン・サウンドと、古舘伊知郎の名調子の記憶と相俟って、いまも脳裏に焼き付いている。
車載カメラ(レーサーとフロント)とフィールドカメラの切り替えによって演出される映画『F1』のカーレースシーンは、まさに自分がF1視聴に熱中していた頃の興奮を呼び起こすものであり、とても懐かしい想いに駆られた。
また、ちょうど90年代くらいに僕が夢中で観ていたころの、やけに荒っぽい小競り合いや果敢なアタック、かなりずる賢い戦略などを思い出させる臨場感があり、車体の性能だけでなくレーサーの技量や度胸が問われた頃のF1を彷彿とさせるものがあった。あるいは、90年代に一度ルーキーとしてサーキットを走ったブラピ演じる主人公が、2020年代のF1にあの頃の古いやり口を「持ち込んでいる」という言い方もできるかもしれない。
プロレスにおける予期せぬ事故やセメントマッチが何十年経っても忘れられないのと同様、クラッシュや炎上事故もまた、F1を彩る関心事でもあった。起こってほしくはないといっても、起こってしまうといつも大興奮していたものだった。
その意味で、本作において2度の大クラッシュがドラマの分岐点になっているのは、F1を題材にする以上は致し方ない構成だといえる。
とはいえ、あれだけ車体が大破してもレーサーが生還できるくらいは生命保全が成されているわけで、去年観たマイケル・マン監督の『フェラーリ』(23)の時代と比べれば、隔世の感がある。
なにせ、『フェラーリ』に登場した実在のレーサーたちは、その大半が自動車事故で若いうちに命を落としているわけで、当時、レース前に遺書をしたためるのは縁起担ぎでもなんでもなくて、「ガチで必要な事務的作業」だった。
あの映画が描いていたのは50年代。まだ第二次世界大戦が終わったばかりで、人の命は今よりも格段に軽く、カーレースは半分「国Vs.国」の文字通りの「代理戦争」だった。
その点、『F1』で描かれるレースはまだ、ある程度は「安心」してみていられる作りだったし、結果的に作中で死亡事故が起こらなくて本当によかったと思う。
でも改めて考えてみて今更気づいたのだが、F1の運営がスポンサーに付いている映画で、死亡事故とか最初から起きるわけないんだよね(笑)。
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●ハビエル・バルデムがくっそ楽しそうで良かった。
なんか辛気臭い役でしか観たことがなかったので、こういうはっちゃけた役も出来る人なんだな、と。ハビエルとケリー・コンドンが出ていることで、映画としての画格というか文芸味が増している印象。
●弱小チームの再建や新型マシンの開発という意味では、ちょっと『プロジェクト✕』みたいなところもあって、わくわくした。低迷していたチームに一人、空気を変えてくれる存在が入って一気にいろんなことが動き出すってのは、『王様のレストラン』にせよ『下町ロケット』にせよ、日本人大好きだからね。
●カードやボール、靴下といった小道具の使い方も秀逸。オールドルーキーとバリバリの若手のトレーニング方法や直前の精神集中に対照的な差を設けてあって、わかりやすい。
●ピットイン時の激烈に細かいカット割りに痺れました。
白ブラピ、黒ブラピなど、
分類してみると、なんかたのしいですね。
たとえば、
「リバー…」は、白ブラピ。
「ファイトクラブ」は、黒ブラピ?
「イングロ…」は、黒ブラピ?
「エフワン」は、白ブラピ。
「キック・アス」、
「それでも夜は明ける」は、
裏ブラピになりますかねぇ ^_^
もうさ、座ってても立っててもかっこいいわけ。
胸元を開けてても締めてても、かっこいいわけ。
↑
あと、ココ、笑わせてもらいました (^。^)
いや、ほんと、何をしても絵になる男・俳優だと思います。
リバーランズ…もセブンもファイトクラブもイングロ…も、、、ブラピ出演作ですきなの沢山あります。
③全面協力の取り付けとリアリティの追求
今回、『F1』ではF1自体をスポンサードにつけることに成功しており、F1サイドは、ロゴの使用から本戦を用いた撮影、実際のレーサーやエンジニアの出演に至るまで、すべてのことに全面的な協力を惜しみなく行っている。
ビッグ・バジェット映画の強みを最大限に発揮して、最も主要な相手先を巻き込んで「オフィシャル」な作品に仕立て上げるというのは、きわめて重要な戦略だ。
その結果として、『F1』は、実際に客の入ったサーキットで、練習と本番のグリットのあいだで撮影するという、とてつもない偉業を成し遂げた。
リアリティがあるどころではない。
映っているのは、本物のF1であり、本物の観客なのだから。
コシンスキー監督は、題材(海軍、F1)からしても、どちらもマニアが鵜の目鷹の目で細部に目を光らせてくることはわかっていたから、とにかく「リアリティ」の確保が重要だったと述べている。
そのリアリティの部分を、本体を巻き込むことで達成した調整能力の高さは、やはり有能だとしかいいようがない。
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そっかぁ、それでめっちゃリアリティあったんですねぇ〜!
どうやって観客(エクストラ?CG?)入れたんだろ?とチラッと思ってはいましたが、、、
たしかに、
「マニアが鵜の目鷹の目で細部に目を光らせて」きますよねぇ
だからこそ、追求した作品作り、
なんか、監督や製作関係者にリスペクトです。
それから、今回も濃厚モアベターな
レビュー、ごっつぁんです!! ^_^

