「主役の存在感がすごい」ふつうの子ども 画面の旅人さんの映画レビュー(感想・評価)
主役の存在感がすごい
ふらっと映画館に行ったとき上映時間がたまたまあっていた「ふつうの子ども」を観ました。
全くどんな映画か分からず観初めましたが、主役の何とも言えない顔のアップから始まり、主役の何とも言えない顔のアップで映画が終わります。
終始既視感のある場面で、大人が観ると自分の幼少期を想起させるような内容でした。
始めは主人公の唯士が作文を読むシーン。自宅で母の恵子に「お腹が空いたらご飯を食べる」や「うんち」のことなどふつうの日常を書いた作文を褒めてもらうも、担任の浅井先生には「ふざけるのと自由は違う」と言われてしまい、しばらく俯いて落ち込んでいた。ここにすでに、大人に振り回されて傷つく子どもが描かれています。
唯士は自分の作文とは似ても似つかない環境問題を取り上げたヒロイン心愛の発表を聞き、恋に落ちてしまうのですが、そのアプローチの仕方がなんとも子どもらしい。知ったかぶりや、昔クラスにいたよな〜と思わせる小さな仕草がとても可愛く、微笑ましい気持ちにさせられました。
しかし心愛はクラスの悪ガキ的存在である陽斗に気があるようで、唯士はそれを好ましく思っていない。そんな時の唯士の表情や仕草がたまらなく応援したくなる。
すごくマニアックかもしれませんが、個人的に唯士が春巻きを食べるシーンが大好きです。
「肉は環境に悪いから食べない」と言った唯士に、母は春巻きに肉を入れて食べさせようとする。ここにも“大人は子どもの意見を聞かない”という風刺が込められているのですが、唯士自身はそれどころではなく、自分たちのいたずらがバレるのではないかと怯えている。その恐怖と葛藤を、一口春巻きをかじる表情だけで伝えてしまう嶋田鉄太の演技に圧倒されました。
いたずらがついに露見し、唯士が登校したときにはすでに心愛が先生と話している。そのときのクラス全体を映しただけの画面から、唯士の心情がこちらに伝わってくる。
保護者を呼び出された会議室シーンでは、ギャン泣きする陽斗とその両親、裏のある心愛の母が登場し、子どもたちの追い詰められた姿が描かれます。
そこで唯士が「ごめんなさい」とやや大きな声で言い出し、心愛に好かれたかったという不純な理由を告白する。この瞬間に、心愛の心が唯士へと傾いたのだと感じました。
そして最後の唯士と心愛の二人きりの場面。唯士というキャラクターが最高潮に輝き、ここまで観て彼を好きにならない人はいないのではないでしょうか。
大人にとっては、後味の悪い映画です。
子どもたちを微笑ましく見ていたはずが、気づけば大人として居心地が悪く、胸の奥をえぐられるような感覚に陥る。特に子どもに関わる立場の人にとっては、強烈なダメージを残すはずです。
けれど同時に、この映画は唯士という存在の重さを突きつけてきます。
彼の沈黙や視線の動き、ほんの小さな仕草にまで、子どもの不安や迷いがにじみ出ていて、大人の観客はそれを見逃すことができない。
その姿はただ可愛いだけではなく、観る側に「子どもをどう受け止めるか」を問う鏡のようでもありました。
この“居心地の悪さ”と“愛おしさ”の両立こそ、『ふつうの子ども』の特異な魅力でした。
最後に断言したいのは、この映画の主役は嶋田鉄太以外あり得なかったということ。
彼の独特な存在感が唯士に命を吹き込み、細かい表情や仕草、言葉にする前に唸る癖までもが、観客の心を掴んで離さない。
あの目線、あの食べ方、あの沈黙――その一瞬一瞬が「演技」ではなく「生きている唯士」そのものでした。
彼がいたからこそ、この映画はただの“後味の悪い社会派作品”ではなく、観る人の心をぐちゃぐちゃにして、それでも「唯士を愛おしい」と思わせる特別な体験になりました。
