夏の砂の上のレビュー・感想・評価
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舞台劇らしいが、とても映画的な映画
舞台劇らしいが、とても映画的な映画。映像がいい。
ひと夏の暑い記憶に残る夏…。
緩やかなストーリーはあるけれど、それほどドラマチックでなく、内面の痛みをそれぞれが抱えながら、ひと夏を過ごす。ほぼ日常のような日々を淡々と描く。
それが案外心地よくて、ず〜っと見ていられる。
話がないような書き方をしたが、大まかなストーリーはある。
子供を亡くして妻と別居状態の主人公(オダギリジョー)は、溶接工として勤めていた造船所が閉鎖されて無職状態で日々ぶらぶらしている。そこに、博多に住む妹(満島ひかり)が姪っ子(高石あかり)を連れてやってくる。ひと夏預かってくれと。この二人を中心に、様々なさざなみのような出来事が起こり、ラストは、また姪(高石あかり)は妹(満島ひかり)に連れられて帰ってゆく。
始まりはどちらも苛立ちや、空洞感があったのが、人間らしく前向きに生きていけそうな力がそれぞれが湧き立ち、お互い次の日常へと向かう。
ちょっとソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」を思い出す。ラストの二人の抱擁が。とても暖かい気持ちになる。
なんとも表現が難しいけれど、とても充実した映画体験をさせてもらった。
なんだろう、この普通さ、と穏やかさ、というか面白さ。
撮り方も、引きの画で、複数人の登場人物が自然体で演技をする。それを長回しで撮っている。それがけっこう見ながら楽しい。長崎の風景(ダラダラ坂や路面電車や造船所など)がこの雰囲気とマッチしている。
ダメ男をやらせたら右に出るものがいないぐらいハマるオダギリージョーで、いつもは、脇役でダメ男だが、今回はダメ男で主役。ちょっとしたことで精神的に行き詰まる。これが面白い。
かたや高石あかりは、柔らかい魅力とつかみどころのない雰囲気が楽しい。ちょっと色気はあるけど、いやらしさがない、高橋文哉との絡みも「おままごと」のようで、いやらしさがない。それでなんとも癒し力がある。
今回、松たか子は、異質な嫌な妻役だったけれどきっちり仕事をしている。「嫌な奴」感がよく出ていた。
相変わらず光石研はうまいし、今回、松たか子の相手役の森山直太朗は意外といい。いい土下座姿だった。満島ひかりもちょい役ながらいい味を出している。
と、うまく説明できないけれど、とてもいい映画でした。
くたばれ、雰囲気映画
オダギリジョー目当てで観ましたが、前半50分くらいであまりにつまらなくて途中退場しようかと思いました。
。。退場すればよかったです。(もったいなくて結局見届けた)
舞台が長崎で坂道に佇むオダジョーはフォトジェニックでしたが、それだけ。
脚本がダメすぎるし、時代設定も意味不明で見終わった後に怒りが湧いてきました。
登場人物たちが唐突に色んなことをするのですが「なぜその行動を取るのか」が全く提示されないので観てる方はイライラします。
「なんでそんなことする(言う)?」って台詞がしばしば聞かれるんですがこっちがそれを言いたい。
主人公とゆうこの心の触れ合いというにはあまりにも中途半端エピソードの数々。
そもそも、ゆうこのキャラクターが。。
(恐らく)親の愛情不足で闇を抱えていて、ツンデレな態度で男を振り回したり、唐突に目線を宙に泳がせてポエミーなセリフ(長崎がどうとか)をつぶやいてみたり、雨の中ずぶぬれになってはしゃいでみたり、胸焼けするような類型キャラ。
女優さんは頑張ってはいましたが、彼女をトリックスターにして周囲の大人たちが傷を癒していくというストーリーには無理がありました。
なんとか読み解くとすれば、真夏の断水という設定は登場人物たちの「渇き」を暗喩していて、ラスト近くに雨が降ったことで何らかの救済がもたらされたということで一応ハッピーエンドなのかな。
(その後の指詰めには何の意味があったのか再び疑問が…)
時代設定について。
主人公は造船所の閉鎖?で職を失ったらしくタバコをぷかぷか吸って、舞台となる家はふるーい昭和臭ただよう一軒家。
ゆうこ(姪)のバイト先の仲間は店長を交えて飲み会とかしている。
てっきり昭和〜平成の話かと思いましたが開始後1時間くらいでスマホが出てきたので現代の話だと気付いてびっくり。
(そういやスーパーのレジがセルフ会計システムだったと後で気付く)
それならせめて女性キャラクターの服装でちゃんと現代感を出さないと。
令和の若い女性はいくら暑くてもショートパンツなんか履きませんよ。(流行ってないから)
オダジョー夫妻が失意の中時が止まったような生活をしているという設定ならまだしも、現代劇としてこれではリアリティ皆無。
邦画を滅多に見ない理由は、こういう細かい部分が気になってしまって興醒めするからなのですが、やっぱり相性悪いですね。。
オダギリジョーは朝ドラ(カム・カム・エブリバディ)でもやっていましたがプー太郎役がよく似合う。
奥さん役の松たか子、オーラを消しすぎていて配役を見るまで誰だか気付きませんでした。
重く息苦しい狭い人間関係に疲弊した二人が出会い、触れ合ったことで救われたひと夏の出来事
狭い社会の人間関係で息が詰まり、追い詰められた、男とその姪の少女。
二人は、ひと夏を共に過ごす中で、いつしか共感し互いを思う。
立場も年齢も全く違う二人が、短い時間でも触れ合ったことで、互いを思い心が通じることがあった。
やがて、夏の終わりとともにやがて別れの時が来る。
変わらないように見える日常。
しかし、表情は柔らかく、心は軽く、救われたことを感じさせる爽やかなラストだった。
オダギリジョー、高石あかり、松たか子ら、現在活躍中の注目の俳優陣が良かった。
カラカラ
ほとんどの登場人物が不快で理解不能だった。
話も通さずやってきて娘を置いていく阿佐子。
別居の経緯こそ不明だが、不倫しており、自分は面倒を見ないのに優子を預かることを先に了承する恵子。
不倫相手の旦那に普通に話しかけ、家に上がり、説教までたれる陣野。
軽く薄っぺらい好意と性欲を押し付ける立山。
理不尽な八つ当たりブーメランを投げてくる陣野の妻。
まともなのは持田くらいじゃなかろうか。
優子はよく立山なんかの誘いを受けたなぁと思ったが、やはり度々虚しさを覗かせる。
母との関係自体は表面上悪くないように見えたが、他に何かあるわけではなく、結局母が原因らしい。
息子と仕事を失った治と共に、この2人はずっと空っぽだ。
それを埋めようと仕事を始めてみたり、身体を許してみたりするものの満たされない。
荒ぶる時の治も、無邪気に笑う瞬間の優子も、ただ空虚を吐き出してるように映った。
一見明るい雰囲気雨のシーンですらその延長で、ほんの少し互いの空洞を感じ取った程度じゃないかな。
ポスターによると「一筋の希望」を描いているらしいが、自分はまったくそれを感じなかった。
特に治は劇中で、持田が亡くなり、指を3本失い、恵子とも正式に離婚し、優子も去ってしまっている。
あのラストシーンの先に前向きに生きる姿はあるのか。
どちらかと言えば、夏が終わる頃に自宅で孤独死している姿の方が浮かびました。
息子の遺影すら映さないなど、直接的な描写を徹底的に避けた上での治と優子の心情は本当に見事。
それ自体はしっかり伝わってきて痛いほどです。
しかしその先がなく、重苦しい気分だけが残った。
ひと雨きたところで、砂はまたすぐ乾く。
雨や帽子が希望の表現だとしたら、脚本家は本当の虚しさを知らないのだと思う。
中華屋のオダギリジョーはAirペイっぽい。笑
暑い、もがき苦しむ!そこに己のドン底を知る。 それでも生きてゆけ~!
今日も世間は暑かった。何もかも・・・
ジッとしていても始まらない。海へ行こう!砂浜だ!
浜辺は風があって涼しいか、向こうには海。波が押し寄せている幾度となく。
そこまで行くのに 砂の上を素足で歩くとするが・・・
灼熱に焼かれた砂は もの凄く熱い! まるで地獄の溶岩の様ではないか。
しかも素足が砂に埋まって上手く歩けない・・・向こうにはコレを冷やす海原があるって言うのに・・・。 雨さえ降れば少しは歩き安くなるかもだが。
私はこの感覚、これを上手く表現し流れ展開を組んでいるように思えた。
今日は「夏の砂の上」の鑑賞です。
全く期待はしておりませんでした。
オダギリジョーさんが共同プロデューサーなのは エンディング見て知りました。元々は第50回(1998年)読売文学賞戯曲・シナリオ部門を受賞した
松田正隆さんの作品なんですね。
この深みのある男の生き方、荒々しさ。そしてもがき苦しむ姿。
愛さえ届かない、いや 離れて行ってしまう程の心の奥底。
夫婦の唯一の光であった一人息子を喪った哀しみ。
手に付いた職までも失い 希望すら無い 人生のどん底感。
とっても 共感いたしましたわ、 これ。
寡黙な男の歩んだ一時を上手く描いた作品でしたです。
松たか子さんが妻役で出ていて、同じように破局を迎えた夫婦の映画”ファーストキス 1ST KISS” 見て イエ-イ!! などと感じていた人には全くウケない作品と思います。よって評価は低めに成るかもですが。致し方ない。
なぜ そう感じるのか。
この作品を河原の石に例えると、 初めて獲る感覚の作品って言うのは 丁度上流の山の頂から切り立った岩山を割った様な 荒々しい岩なんです。感覚的に石じゃ無いんですよ。
だから手に取っても ”痛い” そう言う物と思います。
作品も同じで 最初に位置する物は 不細工で上手く心に持てなくて 分からなくて、そして 痛いんです。 だから評価が上がらない。
川を転げて落ちて何度もぶつかって 流れて行くと。
つまり何度も上演上映されて 真似されて、引用されて行くと
オリジナルも まろやかになると思うのですよ。
そして 岩から角が取れた河原の石になる。
そうなってくると 誰でも受け入れられる 評価の高い作品になる。
源流に位置する作品が 本作なんだと感じました。
だから 流れ凄く荒くて、そして新鮮。そう思います。
原作:松田正隆氏
監督・脚本:玉田真也氏
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小浦治(夫 元造船所で働く)役:オダギリジョ-さん
小浦恵子(妻 やがて離婚)役:松たか子さん
川上優子(治の姪)役:高石あかりさん
川上阿佐子(治の妹)役:満島ひかりさん
立山孝太朗(姪の彼氏)役:高橋文哉さん
陣野航平(造船所の同僚 妻の再婚相手)役:森山直太朗さん
陣野茂子(陣野の元妻)役:篠原ゆき子さん
持田隆信(造船所の同僚 途中で逝去)役:光石研さん
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(感じたところ)
・私も昔にいった事あるけども、長崎の坂の街並と、真夏の景色は 良く描けていると感じました。
また九州長崎弁を流ちょうに話しているのが良かった。
やっぱり言葉は温かいね。
光石研さんは確か九州男児。さすがセリフは聞いててナチュラルそのもの。
とっても よかばい。 よかよか。
・優子(高石さん)がアルバイト出来る高校生くらいの年齢には流石に見えない。
だが とっても見つめる目線が良くて 味があると思う。
姪としての存在感。治とのよく似た境遇。
この人のもつ 独特な雰囲気が全体的に出ているね。そこがいいかな。
・存在感がいまいちな立山孝太朗。優子の彼氏には不向きな存在。何しに出てきているのか いい人ぶりだけ? 別れ際には出てこないし。
・深夜に3人が僅かなビ-ル1缶をコップに入れて飲んで寝る。
コップに息を吹いて キレイにしたつもりで 注ぐビ-ル。
分かるわ~ しかも この酔っ払い方。
意味ある 喧嘩。 そして仲直り。
元仲の良い職場同僚感を実に上手く表していると思うね。
・職を失った元同僚が次々と違う職に就いていって 焦る治。
この気持ちも分かる。
自分の行く道が見えない状態 不安がよく出てる。
ハロ-ワ-クの応対も そう。 そうやねん。
なんか適当に職を紹介されるのよね。
そして 不安乍らに職につくが、結局 誰よりも似合ってる本人。
どっからどう見ても お店の大将みたいよね。その風貌 いいわ。
・出て行った妻とやがて離婚なのだが。 時々物を取りに来ては帰って来る妻。住まいは思ってた以上にスグ近くで。 実際良くある話ね。
場所を何となく話す陣野。どうやらお前が再婚相手なのかと うすうす分かる。
それを 黙って許す 治。 同僚の絆は深いと感じたわ。
頭 額を地面一杯まで擦りつけて 土下座して精一杯謝る陣野。この姿・・・。
ここも 男として分かるし、 恵子への愛を推し量るのである。
だから 去って行く二人を許すのだろうと思う。
・恵子(松たか子さん)と治との仲。
息子が5歳の時、大雨洪水で水路にはまって亡くなる。この現実に二人が向き合えてなく。乗り越える事が出来ていなくて その思いに 見ていて私は淋しかった。
恵子が ”仏壇にご飯も線香もあげられてないじゃない!” 言葉を強く言う所 とってもジ-ンと来ましたわ。
恵子は 亡くなった子供だけ気にかかるの?
同時に職も失った夫は? そのままでいいの?
ここの思いが、夫婦の在り方として 問い正したい所。
地味だけど もの凄く良く表現出来ていると思う場面だったと感じました。
・妻が出て行って、やがて夏の空に 激しく雨が降る。心に淀んだ想いをどっと洗い流していく。(ココの雨なんか貯めて吞む場面は不要だったね。)
夫婦の絆と、決して忘れてはいけない 子供への記憶を治は失っていく~。
それは 切ってしまう指に例えられていて、巻かれた包帯が痛々しいが
残った親指と小指が やがて治の心を元に戻して行くだろう。そう思う。
人生のドン底まで知って味わった男は それでも夏の陽の下を
明日に向かって 生きてゆくのだろう。 それでいいと思う。
中々 味わい深い作品でした。
ご興味 御座います方は
是非 劇場へどうぞ!!
説明のない物語
冒頭の土砂降りが全ての水を流し切ってしまったようにこの映画は乾いている。何本吸ったか分からないオダギリジョーのタバコ、長崎の日差し、暑さ、坂に続く坂、ひたすら聞こえてくる蝉の声、人々の会話の内容。
最初の雨が我が子を奪ったとは一言もないが、夫婦にとってそれからの日々は乾き切っていたのだろう。優子役の髙石あかりさんの瞳が印象的。大きく見開かれていてもやっぱり乾いている。
伯父と姪の二人だけになった時の大雨。私はこの時しか人物の心が潤う場面を見つけられなかった。
皆が別れてこの映画は終わる。オダギリジョーに残ったのは一人だけの家、我が子の位牌、不自由になった身体。そこにまた蝉の声が振りそそぐ。
夫婦であり続けていたから二人の心は乾くばかりだったのではないか。台詞にはないが、優子と浴びた雨が心にほんの少しでも潤いを残しているのではないか。四人は離れたからこそそれぞれに何かが芽生えるのではないか。
心情を口にする場面はほとんどない。それなのに何か語りかけてくる。それを説明することはできないが、四人の心に雨が降ってくれればと願う映画だった。
戯曲と舞台劇と映画と
原作戯曲既読。
舞台劇は見ていないので、脳内演出で読んだ。
戯曲の「場」は、治(オダギリジョー)の家だけ。
家の周りは、台詞から想像させるだけ。
映画はもちろん、家以外を映せる。
逆に、家以外も映さないといけない、とも言える。
そうしないと画面が退屈至極になるから。
となると、その移し替え(映し変え)がうまくいくかどうかが気になるんだが、
持田(光石研)の葬式をめぐる場面、会場と家を分けたのは、
間延びしちゃって上手くなかった。
* * *
原作者はハヤカワ演劇文庫のあとがきでこう述べている。
>場面に奥行きが生まれるとその劇はわかりやすい感じになるのだ。つまり、ちょっとドラマチックになる。それが、私には辛い。
だが映画は、ドラマチックな要素がないと辛いだろう。
だから声高に叫んだり取っ組み合ったりする演出をしていたわけなんだが、
そういうト書きもなかったと思うし、
少なくともワタクシの脳内演出はそうではなかった。
そこが、違和感。
ラストも、センチメンタル過ぎる。
あと、細かいことだが、
「葬式」の電話連絡が「昨日」というのはどうなのか。
「通夜」ならわかるけど。
とか、
優子(髙石あかり)「お醤油取って」
治「自分で取れ」からの、
取らせずお説教、そしたら優子が、残ったご飯をひとくち食べて食事終了、からっぽのご飯茶碗とおかずの皿を持って片づけ、
って、醤油かけるものないじゃん、
なんてことが気になった。
(何言ってるか分かるかなぁ……)
それから、優子が「川上さん」と呼ばれて返事しないことが多々あったのは、
苗字が変わって慣れてないから、ということが、
映画からは分からないのも気になった。
左手の指を切断しちゃうところは、
舞台だと語りと包帯だけで表せるけど、
映画ではその場面があるんだろうな、嫌だなぁ、と思っていたので、
治が包丁を使うたびに目をそらしてたんだが、
やっぱりそこ、カットしなかったのね……
* * *
読んだときは笑える要素のない戯曲だと思ってたけど、
実際しゃべってるのを見ると、
あ、もしかしてここ、うまく演出すると笑えるのかも、
と思うところはいくつかあって、
初演の際の平田オリザ演出はどうだったのかなぁ、
というのが気になっている。
叔父さんと姪っ子が、ひと夏、長崎で生活した話。雨降って地固まるってほどでもない。ナーイス。
東京はカラツユで今日(7/6㈰)も35度で蒸し暑い。画面の中の長崎も暑くて雨も降らないからカラッカラで、映画館は涼しいのに、クソ暑さが伝わってくる。
映画は特に感銘を受けるような事もなく、レビュータイトル通りの物語だ。
最後はそれぞれが新たな一歩を踏み出した感じで終わるけど、雨降って地固まるってわけでもない。
というのは、そもそも最初から登場人物が抱える悩みや問題が深刻なものでもなく、生きてりゃみんな色々あるよねってレベルだからだ。
僕は、このそんなに深刻でもないところが良かった。そこがナーイスである (^^)。
だから、カタルシスを感じるということはなかったが、何となく良かったので見て良かった。
雨が降らずに大地が乾いて、水も出ないで喉も渇いてたのが、最後に雨が降って大地と喉が潤ったのは、おそらく物語の内容を反映してるのだと思う。
だけど、雨水飲むのはヤッパシ良くないと思った。
人は寂しい心を埋めるために愛を求める…のか?
舞台は日照り続きで水不足の夏の長崎。
幼い息子を亡くし、勤めていた造船所も潰れ、気力を全く失った治。
そんな治に愛想を尽かして、家を出て治のかつての同僚に惹かれる妻の恵子。
シングルで娘を育てているが、新しい男ができるたびに娘の優子を置いて出て行き、振られると戻ってくる治の妹の阿佐子。
母親に放置される17歳の優子。
それぞれが痛みと喪失感、寂しさを抱える登場人物たち。
人はそんな寂しさを埋めるために愛を求めるのだろうか?
寂しさを抱える者どうしが少しずつ心の傷を癒やし合うことで、渇いた夏の砂の上に降る雨の如く、カラカラに渇いた心を潤してくれる。
なんの変哲もない日常の中にわずかな希望の光を見出すような作品だ。
砂
公開記念舞台挨拶の抽選に当たって2列目(の端っこ)で鑑賞。鑑賞後にオダギリジョー、髙石あかり、玉田監督の挨拶があり、鑑賞直後の曖昧な感想が補完される体験となりました。オダギリジョーは色々笑わせてもくれ、司会奥浜レイラさんは今回も落ち着いて的確な制御でした。
本作は2022年に田中圭と山田杏奈が出た舞台を見ていたのだが、ちょっとはまりきれておらず、今回街や家屋の中で制御された画角でアップも含む表情がよく見える形(映画という意味)で展開された本作を見て、自分は映像化に向いている作品だと思った。
しかし松たか子は松たか子であるが故にどこかいい人であって欲しいと潜在的に思ってしまう自分がおり、それだけにラストの表情は完全に悪者で、いい意味でやられた感。
で、タイトルの砂とは何と解釈するべきなのか考え中。
オダギリジョーのオダギリジョーによるオダギリジョーのための映画
孤独に生きている男性に、次々と悪夢が襲い掛かる……。九州は長崎。造船会社で溶接工として働いていたオダギリジョー。幼い息子を大雨の洪水で流されて亡くし、造船会社は倒産した上、妻は同僚に奪われ、博多の飲み屋で働くことになった妹の子供を預かることになり、元職場の先輩は交通事故で亡くなってしまう。再就職した中華料理屋では不注意で左手の指を包丁で飛ばし、そしてついに妻は広島の造船所に仕事を見つけた同僚に付いていくことになり離婚届に判を押すのだった。そうして手痛い裏切りに遭った後、博多で裏切られた妹は今度は子供を連れて、新しい彼氏と和食料理店を出すとカナダに旅立ってしまう。
彼女たちを見送り独り残されたオダギリジョーは、長崎らしい坂道を家路に向かう。オープニングと同じようにトヨタのヤリスが急な坂を下って行き、オダギリジョーは坂道の途中で煙草屋に寄り、今日も暑いね、と声をかけられ¥500で一箱のタバコを買って行く。いつもの独りの生活に戻ったのだと悟らせる情景。そして、家の前の階段で振り向き、汗をぬぐいながら長崎の町を眺めるオダギリジョー。下からカメラが追う彼の背景の真っ青な空と白い雲が、左手に大怪我を背負い孤独な彼の生活が、それでも上手く続いていくという予感で終わらせる。
見終わって残った印象が、アキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」と似ているなぁ、と思いながら劇場を出た。
昨今、造船会社が復活してきて嬉しいんですが、映画で長崎の三菱造船所の明治時代の艤装クレーンと懐かしい福山の名前が出て来たこと、それにそもそもオダギリジョー贔屓なので+0.5しました (笑)
オダギリジョーの存在感が圧倒的!
雨が降らない長崎の夏における雨、
雨を「うまかー」といって治(オダギリジョー)と優子(髙石あかり)が二人で飲むシーンが圧巻だ。
ここが最大の見せ場であるといって過言ではないだろう。
乾いた心の登場人物たち。
オタギリジョー演じる治は、その動作や佇まいで気だるさや無気力さを体現していて
演技の凄まじさを感じたし、髙石あかり演じる優子も然りである。
彼女の目の演技、表情の演技がカメレオンの如く変化していき、
この年代でこの環境にいるキャラクターの心情をよく表現していて、
もはやベイビーわるきゅーれでの彼女の演技を超えたと思った。
登場人物たちの造船所がなくなってからの生きづらさ&乾きは
説明的に語られずとも、きちんと脚本で紡ぎあげられていて、観ていればわかるようになっている。
タクシードライバー持田(光石研)は自殺?だろうと会話の中で感じた。
実にせつない。
優子が治の心の潤いになったといって良いのではないか。
優子が来るまでは停滞していた治の生活が転がり出したし、息子の死を乗り越えようとする姿がそこにある。
優子とやりたいだけの立山(高橋文哉)、
嵐のようにやってきて去る優子の母(満島ひかり)、
登場人物たち、それぞれが存在感があった。
映像の質感が好き、色あいも好きだ。
淡々とした作品だが、最初から最後まで集中力を切らさず鑑賞できた。
🈶パンフレットも購入。これからじっくり読みたいと思う。
長崎は今日も雨だった
オダギリジョーが主演と共同プロデューサーを務めており、まさに「オダジョーの、オダジョーによる、オダジョーのための作品」と言える一本でした。
長崎の造船所に勤務していた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業。不幸はそれだけに留まらず、数年前の豪雨の際には、最愛の一人息子・アキオ(5歳)が排水溝に転落し、命を落とすという悲劇にも見舞われたことが明かされます。その出来事がきっかけだったのか、妻・恵子(松たか子)との関係も悪化。やがて恵子は、治の元同僚・陣野航平(森山直太朗)とダブル不倫関係となり、家を出て行ってしまいます。
また、やはり元同僚であり、造船所閉鎖後はタクシードライバーとして働いていた持田隆信(光石研)も、仕事中の交通事故で命を落とすなど、周囲の状況も悲劇に満ちています。治自身も、ようやく再就職を果たした中華料理店で、調理中に包丁で自らの指を三本切り落とすという事故にも遭い、まさに踏んだり蹴ったり。
そんな治のもとに、妹・阿佐子(満島ひかり)が、姪の優子(髙石あかり)を半ば強引に預けていきます。ようやく優子との間に小さな絆が芽生え始めた矢先、気まぐれな阿佐子が突然彼女を連れ戻してしまうという展開も加わり、まさに不幸の連続といえる物語でした。
こうして書き出してみると、徹底して暗い内容のように見えるのですが、実際に鑑賞してみると、坂の街・長崎の穏やかな風景と、ゆったりとした空気感が全編に漂い、不思議と重苦しさを感じさせません。そして、どんな逆境にも飄々と生きる治の姿に、かえって勇気づけられるという印象すら覚えました。
特に印象的だったのが、物語の冒頭と終盤で繰り返される大雨のシーン。これは、息子を失った過去と向き合う治の内面を象徴するものであり、また、バケツで雨水を集め、それを治と優子が一緒に飲む場面に象徴されるように、優子との関係を通して、治の心に突き刺さっていた「喪失」の棘が、少しずつ抜け落ちていく過程が丁寧に描かれていたように思えました。渇水に見舞われた夏の長崎は、乾ききった治の心のメタファーであり、そんな彼の心に慈雨=潤いをもたらしたのが、他ならぬ優子でした。
作中唯一の挿入歌として登場したのが、持田が酔ったときに口ずさんでいた「長崎は今日も雨だった」という点からも、まさに「雨」というモチーフが全編を貫く、象徴的な作品だったといえます。
物語自体は地味な部類に入るかもしれませんが、オダギリジョーをはじめ、松たか子、髙石あかり、満島ひかり、高橋文哉など、主役級、4番バッター級の実力派をズラリと並べた俳優陣は、実に豪華でした。ただ面白かったのは、それぞれが目立ちすぎることなく、逆に本作の物語世界に完全に溶け込んだ演技を見せてくれたところでした。
流石に主役のオダギリジョーは、いつものようにヨレっとした風情の中にも独特の色気を漂わせていましたが、松たか子は『ファーストキス 1ST KISS』の時のキラキラ感満載の演技から一転、くすんだ日常を背負った妻役を深みのある演技で表現していました。
中でも特筆すべきは、優子を演じた髙石あかり。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや『ゴーストキラー』などアクション作品での印象が強い彼女ですが、本作では、母親に捨てられ、バイト先では男(高橋文哉)に体を求められ、遅刻を理由に職も失うという不遇な境遇の少女・優子を、繊細な表情と台詞まわし、そして全身からにじみ出る演技力で見事に体現していました。
去年大ヒットした『ラストマイル』でカッコいい主人公を務めた満島ひかりも、身勝手でどこか抜けている感じの役柄を、実にそれらしく演じていました。
そんな訳で、長崎の風景と役者の演技を楽しめた本作の評価は、★4.2とします。
渇いてるから潤したい。
幼い息子を亡くし妻・恵子と別居中の小浦治、ある日妹の阿佐子が17歳の娘・優子を連れてきては預かってと…、治と優子のひと夏の生活が始まる。
長崎県の暑い夏、何気ない日常で見せ、その日常にある夫婦のいざこざを間近で見る優子、高校は行かず近所のスーパーでバイトを始めバイト先の男・立山との関係を持ちながらも治と優子の抱く心情とは…。
本作を観ての感想は何だろ!?
治の日常と妻のことで色々な心情、だらしない母親のせいで長崎で世話になる優子の日常と心情って感じでストーリーのアップダウンがない為、感想が難しい。
ただ観てて感じたのは治と優子の性格と波長が合ってて何かいい!作品雰囲気もいい!
立山演じた高橋文哉君太った!?てか体型がだらしなくてガッカリが印象に残ってる(笑)
優子は治オジサンの事好きになちゃったのかな!?
人生における転機というのは、お天道様の機嫌ぐらい曖昧なものかもしれません
2025.7.5 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(101分、G)
原作は松田正隆の戯曲『夏の砂の上』
妹の娘を預かることになった失業中の男を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は玉田真也
物語の舞台は、長崎県長崎市
かつて造船所で働いていた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業し、次の職を探さないまま日々を過ごしていた
妻・恵子(松たか子)は愛想を尽かして出て行ったが、元部下の陳野(森山直太朗)と不倫関係にあると噂されていた
ある日のこと、治の元に妹の阿佐子(満島ひかり)がやってきた
博多で店を開くために娘・優子(髙石あかり)を預かれと言うもので、有無を言わさずに置いていく
優子は未成年だったが、近くのスーパーで働くことを決めていて、金銭的な負担ははいと言う
そんな様子を観ていた恵子は呆れ果て、何も言い残さないままどこかへと消えていく
それから治は、どう接して良いかわからぬ年頃の娘と共同生活をすることになったである
治は元同僚の持田(光石研)の再就職宴会に呼ばれ、そこであることないことを言われてしまう
そこには陳野もいて、噂話は尾鰭が付いていた
新しい女でもできたかと言われる始末で、生きた心地のしない夜を過ごすことになった
映画では、優子のバイト先でも飲み会が行われ、大学生の立山(高橋文哉)から言い寄られる優子が描かれていく
優子は自分に起こることを拒絶しないタイプで、興味本位で立山と付き合いを深めていく
それに対して、治は自分からは決して動かず、自分に起こる事もスルーするタイプだった
何を考えて生きているのか読めないものの、何とかなると気楽に構えていた
そんな治もやがて再就職をすることになるが、恵子との関係悪化が衆目の元となり、正式に離婚することになったのである
映画の冒頭では、干上がった川や溝などが強調され、給水車が出るほどの水不足になっていることが描かれていく
そんな日々も突然の大雨によって終わりを告げ、渇望しても降らず、忘れた頃に降ってくると言う感じに描かれていた
人生に起こる事もこれと同じで、意図して出来事に遭遇することはないと言える
映画のタイトルは『夏の砂の上』で、要は乾き切っていると言う意味になるのだと思う
元々海にいたハズの砂も、やがては海岸に打ち上げられ、海とは無縁のものとなっていく
彼らが潤うのは雨が降った時だけだが、彼らがその時を待っているとも思えない
すぐ近くに潤いがあるとしても、それを感じるのは人間だけで、砂はそんなことを思いもしない
そんな場所に足を踏み入れる私たちは、砂を憐れむかもしれないが、ただ熱いだけと思う人もいるように、その状態をどう受け止めるのかは、人それぞれと言えるのかな、と感じた
いずれにせよ、戯曲ベースなので演技力が必要な作品だったと思う
キャスティングがしっかりしているので、そう言った不安点もなく、淡々とした日常でほとんど何も起こらないのにずっと観ていられるのは凄いと思う
俯瞰的に見れば、治を取り巻く女性は大概だと思うが、そんな中にいて優子だけはまともに見えてしまう
治と真逆の気質で、何でも吸収してしまいがちだが、それが若さと言うものかもしれない
そう言った意味において、優子との出会いは治を少しだけ変えたのかな、と感じた
渇水の長崎に降る雨……
いい映画を見た、ジワーっと沁みる、そして余韻にひたる。
それはリアリティに裏付けされているから、だと思う。
幼い子供を亡くした夫婦がいる。
決して珍しいことではない。
治(オダギリジョー)と惠子(松たか子)は5歳の息子を、
大雨の日に水の事故で亡くした。
戸外に出たのを知らなかった。
側溝に落ちて急流に流されたのだ。
あの時、妻が目を離さなければ、
あの日、夫が、家で遊んでやってれば、
などと相手を責めたり、
お互いに顔を見ると亡くした息子の辛い思い出が蘇る、
後悔がつのる。
松田正隆の同名戯曲を、劇作家でもある玉田真也が監督。
映画は長崎市が舞台で、
坂が多くて、治の家もかなり高台にある。
坂の登り下りが頻繁に出てくるし、
家の窓からは治の勤めていた造船所の鉄塔やドックが無造作に残る港が
一望にできる。
息子を亡くした失意と溶接工の仕事の誇りもあり、
半ば自暴自棄になった夫を、見捨てて妻は家を出ている。
久しぶりに荷物を取りに戻った惠子は、
水もあげておらず、埃だらけの仏壇を見て治を責める。
“位牌を持ち帰る“という惠子、
”持たせないたくない“治、
顔を合わせば、「なんばしに来た」と怒鳴る治。
そんな恵子も、息子の好物を持参した様子はない。
恵子の様子はどこか荒んで渇水のように枯れている。
(長崎は日照り続きで、断水して、放水車が回っている)
暑い、暑い、汗が吹き出す。
喪失感から心が干からびた惠子は、
妻ある造船所の治の同僚だった男、
陣野(森山直太郎)と道ならぬ関係になり、
陣野の妻は治を激しく罵倒する。
長崎言葉の怒鳴り声は、内容がよく聞き取れないが、
自分が考え事をして、自転車事故を起こした・・・
それも治がしっかり恵子をつなぎとめずにいるから・・・
と、責める陣野の妻はかなりの打撲の怪我をを負っている。
前後して、治の妹の阿佐子が、17歳の娘の優子(高石あかり)を
無理やり家に預けにくる。
断りきれずに押し切られる治。
この優子もまた水商売で男から男へ渡り歩いている様子だ。
高校も行かずに、預けにくる途中にスーパーのアルバイトを
勝手に決めてしまう母の阿佐子。
身勝手で幼稚な姿が浮かぶ。
(満島ひかりが、17歳の子持ちを演じるのにも驚く)
この映画の一番の収穫は高石あかりだと思います。
「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ以来、売れっ子で
オファーが絶えない・・・タイプは違うが河合優実なみの実力
と、今作で実感した。
底知れぬ何かを秘めている。
自堕落な面、
あどけない童女の顔と天性の魔性、
幾つもの顔を演じ分けるが、
蒼い沼のような寂しさが漂う姿は演技という言葉では言いあらわせない。
スーパーの先輩・立山(高橋文哉)との濡場も演じる。
優子は掴みどころがなくて、ふいにプイといなくなる猫のようだ。
治には心を許したらしく、
美しいシーンが3つある。
一つは、治に離婚届の印鑑を押させて、坂の階段下に待たせた立山と
連れ立って降りていく恵子に、声をかけるシーン。
二つ目は、日照りの空から、バケツをひっくり返すような、雨が
ようやく降って、
喜び、はしゃぐシーン。
三つ目は、長崎から今度はカナダへ行くと言う
「うまい話」で阿佐子が迎えにくる。
「叔父さんは私が守る」と啖呵を切ったのに、
身勝手な母親に簡単に母親に連れられてタクシーで去っていく。
なんとも切ないシーンなのに、
心は治の元に居たいはずなのに・・・
流れていく、流されていく、
(治に被っていた麦わら帽子を被せるシーン、
(17歳の娘の人生経験が・・・乗り越えてきた日々が
(伝わる…………名シーン、
☆優子はもしかして、難聴なのでは……
呼びかけられて振り向かないシーンが何度もある。
想像だが、暴力を受けて殴られて・・・
そんな気がする。
☆治は、優子と暮らすようになり、部屋も見違えるほどに片付く。
☆☆ハローワークにも出向いて、中華の店の下働き始める。
(ショッキングな出来事も起こる)
いつに無く嫌われ役の松たか子。
この戯曲に惚れ込み共同プロデューサーで主演のオダギリジョー。
舞台は見ていないが、会話劇が生き生きした人間の息吹きが伝われ
良い作品に生まれ変わった気がする。
オダギリジョーの存在が光る。
若い頃から独特な個性が好きだった。
恵の雨に打たれて生き返ったように、人も何度でも仕切り直しして、
晴れた空は清々しかった。
結局、何を描きたかったのかが、よく分からない
いつまでたっても、何を描きたいのかがよく分からなかったのだが、終盤になって、男と、その姪の少女が、心を通わす物語だったのだということが分かってくる。
確かに、幼い息子を亡くし、妻とは別居して、職も失った男と、母親に捨てられ、バイト先の人間関係に馴染めず、彼氏ともうまくいかない姪とでは、不器用で、人付き合いが苦手なところがよく似ており、お互いに自分と同じ「匂い」を感じていたのだろうと思わせる。
ただ、それでも、姪が、男の妻に向かって「伯父さんの面倒は私が見る」と言い放ったり、久しぶりに雨が降って、2人で、たらいに溜めた雨水を飲み合ったりといった場面では、唐突感と脈略のなさを感じざるを得ないし、「どうしてそうなるの?」といった疑問も湧いてくる。(雨水を飲むのは、衛生面でも、よろしくないのではないか?)
もし、男と姪の絆のようなものを描きたかったのであれば、2人が、互いの心の距離を縮めていくようなエピソードを、もっときめ細かく、丁寧に描くべきだったと思えてならない。
むしろ、心に残ったのは、葬式の場で、男の後輩の妻が、男の妻と自分の夫が浮気をしているのを黙認している男を責める場面で、後輩の妻が徐々に感情を激化させていく様子を長回しで捉えたシーンは、篠原ゆき子の熱演もあって、見応えがあったと思う。
ただ、その後、男の妻が、葬式の手伝いに行こうとしている場面で、普通だったら、男は、彼女が、浮気相手の妻と鉢合わせしないように、葬式に行くのを止めようとすると思うのだが、彼女を押し倒して乱暴しようとしたことには、「いったい何を考えているのか」という疑問を抱かざるを得なかった。
男と姪が心を通わせたと思ったところで、姪が、母親と一緒にバンクーバーに旅立つというラストにも、「面倒を見るんじゃなかったいかい」と突っ込みを入れたくなる。
そうでなくても、左手の指を欠損した男には、身の回りの世話をしてくれる人が必要なはずなので、ここは、どう考えても、姪は、男と共に長崎に残るという展開にするべきだったのではないだろうか?
ようやくと作品のテーマが分かりかけたところで、最後の最後で、また、何を描きたかったのかが、分からなくなってしまった。
ローテーション
シーン変わりで人物の感情が変わる事が多く、え?と思う事がある?基本暗い話。というか最後もなんとも言えない終わり方。ただ、一つの物語として、映画としてはそこそこ面白かった。
髙石あかりはやっぱ狂人的なキャラの方が合ってるね。
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