夏の砂の上のレビュー・感想・評価
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平坦な印象なれど感情の起伏は激しい
スマホや携帯が一切出てこないので、一瞬時代背景は古いのかなと思うのですが、他のオブジェクトや社会背景を見ると明らかに現代が舞台だったので、そこで当たり前のようにあるものが全く出現しないとちょっとした異世界的な雰囲気を感じて、なかなか興味深いところもありましたが、楽しい話でもないし、むしろ辛い感じが前面に出ていて、嘘だろと思うぐらいにすぐ感情的になる演出の数々に、なんか嫌だな・・・ってなっちゃいました。
長崎をじっくりと映し出す映像はなんかにいい感じだったんですけど、そこに当たり前のようにといいかとってつけたように被爆のことをつけたされてもねぇ・・・なんて─
正直、時間を割いてまで見たいとは…
ごめんなさい!<(_ _)>
人間関係における同一性障害
ある解説によると、性同一性障害の方は「自らの生まれ付き備わった身体的な性的特徴に、持続的な違和感を覚えている」
人間関係においても、ある種のコミュニティや一定の傾向を持つ人たち、或いは一定の人間関係の範囲における暗黙の了解(それを空気ということもある)…そういうことにどうしても馴染めないことがある。
人間関係における〝持続的な違和感〟
生まれ付き備わった性格的なものか、生育環境によるものか、自らの経験から導かれたものか、人それぞれ要因は違うけれど、違和感を覚えながら生きてる人はたくさんいる。
趣味や推し活や他人とあまり関わらずにできる仕事(PCでできる仕事とか作家とか漫画家とか?)に恵まれた人は幸いだが、経済的環境も含めて、逃れようのない人たちもいる。
治(オダギリジョー)と優子(高石あかり)は、互いに抱える違和感を言語化して確認したわけではないけれど、二人とも誰とも馴染めないことは理解し合っていたのだろう。
人と馴染めないこと(生きづらいと感じることも)はひとつの個性であり、それだけで不幸なわけでもないし、解決しなければならない問題でもない。ましてや否定されることでは絶対にない。
断水中
もうすぐ5歳の息子を亡くし職も無くなり妻とは別居でやさぐれる伯父と、母親が男のところに行く為に預けられた17歳の姪の話。
息子が亡くなってどのくらいか、働いていた造船所の下請けが潰れてどれくらいか、妻が家を出てどれくらいかわからないけれど、出ていった妻が所用で家を訪ねて来るなか、娘を連れて妹が来るとなって始まって行く。
色々とキツイ加状況下、後輩からも情けないと嘆かれる主人公だったけれど、そして姪はこの辺の学校に編入してない?夏休みだから?
治にしても優子にしても、なんか色々めんどくさいことが溜まって行く中、葬式のシーンで急にぶっこまれて何だそれ?
どの口が言ってんだ?なんで上からなんだ?大人ならせめてケジメつけるのが先じゃね?とモヤモヤ。
涼しい顔してクソな奴らばかりの中にいる2人の機微はとても良かったし面白くはあったけれど、これをみて何を思えば良いのかわからなかった。
狙い過ぎ?
狭い世界で精いっぱい生きる人々
人間の営みが愛おしい。
滲み出す「乾き」を感じ取る映画
閉塞感が漂う生活を繰り返す日々に
乾きを抱えた人々が交差する
そこに土砂降りの雨が訪れ
やがて通り過ぎてゆく
雨宿りを終えた人々はちりぢりになり
そしてまた変わらぬ日常が始まる
だか見上げた空には希望の光が
-----2025/07/06追記-----
この映画は物語からテーマだとかメッセージを読み取って何かをわかろうとする作品ではないと思いました。
つまりどういうことかと言うと、この作品は、乾きを抱えた人々の人生を垣間見て何かを感じ取る作品でそれをどう扱うかは観客に委ねられており、何を感じ取ればいいかとかどう扱えばいいかとかそういう正しい答えというものがない映画だと思いました。
それゆえ、人によっては何か凄いものを見たという感想にもなるでしょうし、よくわからなかったという感想にもなるのだと思います。
ですので、これからこの映画を鑑賞される方は、上記を踏まえて鑑賞されることをオススメします。
人は寂しい心を埋めるために愛を求める…のか?
舞台は日照り続きで水不足の夏の長崎。
幼い息子を亡くし、勤めていた造船所も潰れ、気力を全く失った治。
そんな治に愛想を尽かして、家を出て治のかつての同僚に惹かれる妻の恵子。
シングルで娘を育てているが、新しい男ができるたびに娘の優子を置いて出て行き、振られると戻ってくる治の妹の阿佐子。
母親に放置される17歳の優子。
それぞれが痛みと喪失感、寂しさを抱える登場人物たち。
人はそんな寂しさを埋めるために愛を求めるのだろうか?
寂しさを抱える者どうしが少しずつ心の傷を癒やし合うことで、渇いた夏の砂の上に降る雨の如く、カラカラに渇いた心を潤してくれる。
なんの変哲もない日常の中にわずかな希望の光を見出すような作品だ。
期待度○鑑賞後の満足度◎ どことなく昔の日本映画を思わせる。内には抑えきれない想いが渦巻いているのに表には出せない昔ながらの日本人のメンタリティを抑制の効いた演出で映像化しているところとか…
①冒頭シーンの風景が一瞬尾道に見えたので小津安次郎作品のイメージが初めから脳裏に有ったのかも知れない。
②冒頭の松たか子が初めてフレームに入ってくるところとか、満島かおり親子が到着して主要キャスト四人が一つのフレームに収まる図柄とか、元は戯曲らしく舞台劇臭さを感じるけれども、やがて映画らしくなってくる。
③エキセントリックであったり、斜に構えたり、暗い秘密を抱えていたりとか、いわゆる“普通”からちょっと外れた役が多いオダギリジョーが今までになく“普通のおじさん”に近い役を演じているのが何故か新鮮。
松たか子も限りなく“普通のおばさん”に近い役を髪型や衣装も含めいつもより人間臭い。
④何処かで見た顔だと思っていたら(年取ると若い子の顔と名前が結び付いて覚えられないのが悲しい😢…)、『ベイビーワルキューレ』で印象的だった(じゃあ、忘れんなよ)高石あかりだった(次期朝ドラのヒロインだと云うこともこの映画関連の記事で知りました。楽しみ)。
ああいう母親(またまたタイプキャストな満島あかり)の元に育ったやや屈折した少女が、オダギリジョーの叔父と暮らすひと夏の日々の中で少しずつ変わっていく様を微妙に表現していてやはり数いる若手女優の中でも特別な立ち位置でいることがよくわかる。
⑤最近やたらと説明的な台詞に溢れていることが多い邦画(それが必ずしも悪いことではないけれども)。ただ、最近の観客は何でもかでも言語化しないと内容が理解できないのか、老害とはわかりつつオジサンはついつい嘆いてしまうのだか、本作は極力説明的な台詞は抑えつつ俳優たちの表情・動き、家や町の佇まい、その中での人間の生活、背景としての自然といったものを描写する映像を通して余白という人間の想像力を喚起するもので物語を紡いでいく本来映画があるべき姿を提示してくれている。そこが愛おしい。
独り彷徨う石畳。頬に零れる涙雨。乾いた心に沁みて行く
1998年初演の戯曲の映画化と聞く。
主演の『オダギリジョー』は共同プロデューサーにも名を連ねている。
そう言えば彼は〔ある船頭の話(2019年)〕で監督・脚本も務めていたか。
舞台は坂の町、長崎。
急峻な山が海っぺりまで迫り、
住宅は斜面に寄り添うように林立。
見るだけで閉塞感はあり、
登場人物たちは始終階段を登り降っており、
彼等・彼女等が置かれた境遇のメタファーでもあるよう。
また、嘗て原爆が落とされた場所でもある。
戦後生まれの女性の口を通し
その様子は語られるが、
そこまでのリアリティは感じられない。
『小浦治(オダギリジョー)』は以前に幼い息子を事故で亡くしている。
働いていた造船所が倒産し、今は定職にも就いていない。
妻の『恵子(松たか子)』との間には距離が生じ、
今は別居している。
独り暮らす『治』の家を
妹の『阿佐子(満島ひかり)』が訪れ、
十七歳の娘『優子(髙石あかり)』を唐突に押し付けて行く。
二人だけの、奇妙な共同生活が始まる。
ここで”よそ者が来ることで世界が変わる”物語になるかと思えば、
その変化は微か。
また”喪失と再生”や”疑似的な家族関係”についても同様で、
何れもビビットな動きは見られない。
物語りは既存のストーリーや鑑賞者の期待をことごとく外して進行する。
ドラマは無いわけではない。
『恵子』との関係の行く末や、
高校にも行かずアルバイトを始めた『優子』の異性関係と
それなりの出来事は盛り込まれる。
また『優子』は『治』に
父親に抱くのに近い想いを持っているようで、
一連のエピソードは心を暖かくさせる。
それがどれもぷつんと途切れてしまう描写で、
意図的な肩透かしを目論んでいるよう。
勿論、最後にはそれなりの光明は示されるも、
そのために払う犠牲は大きい。
人が生きるスタイルは、
そうドラスティックに変わらぬのだとの、
過去作品へのアンチテーゼのようにも感じる。
〔長崎は今日も雨だった〕との唄もあるように、
同地は他の都市に比べ降雨量が多いよう。
嘗て、息子の命を奪ったのも雨だが、
その年はじりじりと太陽が照りつけ、
水不足が理性も刺激する。
感情はなかなかに爆発せず、
思いは表情から読み取るほかはない。
が、終幕で突然恵みの雨へと変わり
万感と精神が解放されるのは
〔台風クラブ(1985年)〕での乱痴気騒ぎを想起してしまった。
砂
公開記念舞台挨拶の抽選に当たって2列目(の端っこ)で鑑賞。鑑賞後にオダギリジョー、髙石あかり、玉田監督の挨拶があり、鑑賞直後の曖昧な感想が補完される体験となりました。オダギリジョーは色々笑わせてもくれ、司会奥浜レイラさんは今回も落ち着いて的確な制御でした。
本作は2022年に田中圭と山田杏奈が出た舞台を見ていたのだが、ちょっとはまりきれておらず、今回街や家屋の中で制御された画角でアップも含む表情がよく見える形(映画という意味)で展開された本作を見て、自分は映像化に向いている作品だと思った。
しかし松たか子は松たか子であるが故にどこかいい人であって欲しいと潜在的に思ってしまう自分がおり、それだけにラストの表情は完全に悪者で、いい意味でやられた感。
で、タイトルの砂とは何と解釈するべきなのか考え中。
オダギリジョーのオダギリジョーによるオダギリジョーのための映画
孤独に生きている男性に、次々と悪夢が襲い掛かる……。九州は長崎。造船会社で溶接工として働いていたオダギリジョー。幼い息子を大雨の洪水で流されて亡くし、造船会社は倒産した上、妻は同僚に奪われ、博多の飲み屋で働くことになった妹の子供を預かることになり、元職場の先輩は交通事故で亡くなってしまう。再就職した中華料理屋では不注意で左手の指を包丁で飛ばし、そしてついに妻は広島の造船所に仕事を見つけた同僚に付いていくことになり離婚届に判を押すのだった。そうして手痛い裏切りに遭った後、博多で裏切られた妹は今度は子供を連れて、新しい彼氏と和食料理店を出すとカナダに旅立ってしまう。
彼女たちを見送り独り残されたオダギリジョーは、長崎らしい坂道を家路に向かう。オープニングと同じようにトヨタのヤリスが急な坂を下って行き、オダギリジョーは坂道の途中で煙草屋に寄り、今日も暑いね、と声をかけられ¥500で一箱のタバコを買って行く。いつもの独りの生活に戻ったのだと悟らせる情景。そして、家の前の階段で振り向き、汗をぬぐいながら長崎の町を眺めるオダギリジョー。下からカメラが追う彼の背景の真っ青な空と白い雲が、左手に大怪我を背負い孤独な彼の生活が、それでも上手く続いていくという予感で終わらせる。
見終わって残った印象が、アキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」と似ているなぁ、と思いながら劇場を出た。
昨今、造船会社が復活してきて嬉しいんですが、映画で長崎の三菱造船所の明治時代の艤装クレーンと懐かしい福山の名前が出て来たこと、それにそもそもオダギリジョー贔屓なので+0.5しました (笑)
オダギリジョーの存在感が圧倒的!
雨が降らない長崎の夏における雨、
雨を「うまかー」といって治(オダギリジョー)と優子(髙石あかり)が二人で飲むシーンが圧巻だ。
ここが最大の見せ場であるといって過言ではないだろう。
乾いた心の登場人物たち。
オタギリジョー演じる治は、その動作や佇まいで気だるさや無気力さを体現していて
演技の凄まじさを感じたし、髙石あかり演じる優子も然りである。
彼女の目の演技、表情の演技がカメレオンの如く変化していき、
この年代でこの環境にいるキャラクターの心情をよく表現していて、
もはやベイビーわるきゅーれでの彼女の演技を超えたと思った。
登場人物たちの造船所がなくなってからの生きづらさ&乾きは
説明的に語られずとも、きちんと脚本で紡ぎあげられていて、観ていればわかるようになっている。
タクシードライバー持田(光石研)は自殺?だろうと会話の中で感じた。
実にせつない。
優子が治の心の潤いになったといって良いのではないか。
優子が来るまでは停滞していた治の生活が転がり出したし、息子の死を乗り越えようとする姿がそこにある。
優子とやりたいだけの立山(高橋文哉)、
嵐のようにやってきて去る優子の母(満島ひかり)、
登場人物たち、それぞれが存在感があった。
映像の質感が好き、色あいも好きだ。
淡々とした作品だが、最初から最後まで集中力を切らさず鑑賞できた。
🈶パンフレットも購入。これからじっくり読みたいと思う。
渇き
想像と記憶があれば命は存在できる
オダギリジョーさん演じる主人公のひと夏のいろいろな人との別れを描く。
何か明確な一貫した主張を突きつけられるという感じではなく、
暗示、比喩的な表現の読み解きを楽しむ散文的な映画だと思った。
愛の渇きを感じている人たちに
夏の暑さ、蝉の声は苛立ちや不機嫌さを増長させる。
大雨は過去の悲しみの涙であり、
それを洗い流してくれる天の恵みでもある。
虚無感を感じている高石あかりさん演じる姪は
光を通じて1945年に想いを馳せ、
生きること、存在の意味を考える。
豚骨の下処理は憎しみ。
また、満島ひかりさん演じる妹や、森山直太朗さん演じる元同僚の奥さんとか、
自分本位の必死さに思わず笑ってしまう場面や、
肝心なところで話し手をあえて見せずに表情を想像させるような面白い構図もあり、
ハラハラする物語の展開はないけれど、最後まで楽しく見た。
鎮魂歌‼️❓
長崎は今日も雨だった
オダギリジョーが主演と共同プロデューサーを務めており、まさに「オダジョーの、オダジョーによる、オダジョーのための作品」と言える一本でした。
長崎の造船所に勤務していた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業。不幸はそれだけに留まらず、数年前の豪雨の際には、最愛の一人息子・アキオ(5歳)が排水溝に転落し、命を落とすという悲劇にも見舞われたことが明かされます。その出来事がきっかけだったのか、妻・恵子(松たか子)との関係も悪化。やがて恵子は、治の元同僚・陣野航平(森山直太朗)とダブル不倫関係となり、家を出て行ってしまいます。
また、やはり元同僚であり、造船所閉鎖後はタクシードライバーとして働いていた持田隆信(光石研)も、仕事中の交通事故で命を落とすなど、周囲の状況も悲劇に満ちています。治自身も、ようやく再就職を果たした中華料理店で、調理中に包丁で自らの指を三本切り落とすという事故にも遭い、まさに踏んだり蹴ったり。
そんな治のもとに、妹・阿佐子(満島ひかり)が、姪の優子(髙石あかり)を半ば強引に預けていきます。ようやく優子との間に小さな絆が芽生え始めた矢先、気まぐれな阿佐子が突然彼女を連れ戻してしまうという展開も加わり、まさに不幸の連続といえる物語でした。
こうして書き出してみると、徹底して暗い内容のように見えるのですが、実際に鑑賞してみると、坂の街・長崎の穏やかな風景と、ゆったりとした空気感が全編に漂い、不思議と重苦しさを感じさせません。そして、どんな逆境にも飄々と生きる治の姿に、かえって勇気づけられるという印象すら覚えました。
特に印象的だったのが、物語の冒頭と終盤で繰り返される大雨のシーン。これは、息子を失った過去と向き合う治の内面を象徴するものであり、また、バケツで雨水を集め、それを治と優子が一緒に飲む場面に象徴されるように、優子との関係を通して、治の心に突き刺さっていた「喪失」の棘が、少しずつ抜け落ちていく過程が丁寧に描かれていたように思えました。渇水に見舞われた夏の長崎は、乾ききった治の心のメタファーであり、そんな彼の心に慈雨=潤いをもたらしたのが、他ならぬ優子でした。
作中唯一の挿入歌として登場したのが、持田が酔ったときに口ずさんでいた「長崎は今日も雨だった」という点からも、まさに「雨」というモチーフが全編を貫く、象徴的な作品だったといえます。
物語自体は地味な部類に入るかもしれませんが、オダギリジョーをはじめ、松たか子、髙石あかり、満島ひかり、高橋文哉など、主役級、4番バッター級の実力派をズラリと並べた俳優陣は、実に豪華でした。ただ面白かったのは、それぞれが目立ちすぎることなく、逆に本作の物語世界に完全に溶け込んだ演技を見せてくれたところでした。
流石に主役のオダギリジョーは、いつものようにヨレっとした風情の中にも独特の色気を漂わせていましたが、松たか子は『ファーストキス 1ST KISS』の時のキラキラ感満載の演技から一転、くすんだ日常を背負った妻役を深みのある演技で表現していました。
中でも特筆すべきは、優子を演じた髙石あかり。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや『ゴーストキラー』などアクション作品での印象が強い彼女ですが、本作では、母親に捨てられ、バイト先では男(高橋文哉)に体を求められ、遅刻を理由に職も失うという不遇な境遇の少女・優子を、繊細な表情と台詞まわし、そして全身からにじみ出る演技力で見事に体現していました。
去年大ヒットした『ラストマイル』でカッコいい主人公を務めた満島ひかりも、身勝手でどこか抜けている感じの役柄を、実にそれらしく演じていました。
そんな訳で、長崎の風景と役者の演技を楽しめた本作の評価は、★4.2とします。
渇いてるから潤したい。
幼い息子を亡くし妻・恵子と別居中の小浦治、ある日妹の阿佐子が17歳の娘・優子を連れてきては預かってと…、治と優子のひと夏の生活が始まる。
長崎県の暑い夏、何気ない日常で見せ、その日常にある夫婦のいざこざを間近で見る優子、高校は行かず近所のスーパーでバイトを始めバイト先の男・立山との関係を持ちながらも治と優子の抱く心情とは…。
本作を観ての感想は何だろ!?
治の日常と妻のことで色々な心情、だらしない母親のせいで長崎で世話になる優子の日常と心情って感じでストーリーのアップダウンがない為、感想が難しい。
ただ観てて感じたのは治と優子の性格と波長が合ってて何かいい!作品雰囲気もいい!
立山演じた高橋文哉君太った!?てか体型がだらしなくてガッカリが印象に残ってる(笑)
優子は治オジサンの事好きになちゃったのかな!?
全168件中、121~140件目を表示