「失われ続ける現代人の肖像」夏の砂の上 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
失われ続ける現代人の肖像
一人の男が喪失の連鎖に呑み込まれていく姿を通じて、私たちが生きる日本社会の構造的脆弱さをえぐり出した作品。息子を事故で失い、職場を閉鎖され、信頼していた後輩に妻を奪われ、さらには親友を事故で亡くす。これだけで十分に背筋が凍るような不幸の積み重ねだが、主人公・治は自らの指を切り落とすという行為によって、その行き場のない痛みを身体に刻印する。観客は「なぜ彼はそこまでしてしまうのか」という問いに直面せざるを得ない。
本作を単なる不幸譚として消費してしまうのは容易だ。しかし視点をずらせば、これは「現代の中年男性が抱えるシステミックな孤立」の寓話として読める。高度経済成長の残滓を背負う長崎の造船所に勤めていた治は、産業構造の変化の中で職を失い、都市部へ吸収されることなく地方で取り残される。ここに、かつての日本的雇用と共同体の崩壊が重なる。仕事を失うことは、単なる所得減ではなく、アイデンティティの消失に直結する。
さらに、家庭の喪失は精神的セーフティネットの喪失を意味する。妻を信頼していた後輩に奪われるという展開は、物語的な残酷さ以上に、共同体における信頼の基盤が脆くも崩れる様を突きつける。友人関係の死による崩壊もまた、社会資本の喪失に他ならない。経済学的に言えば、治は「人的資本」「社会関係資本」「身体資本」を立て続けに失い、もはや再起の足場を持たない状態に追い込まれる。
指を切る行為は、単なる自罰行為としてよりも、むしろ「現状からの脱出手段」として解釈する方が適切に感じた。料理人として働く現場から強制的に退場し、療養や休業という制度的逃げ道を確保する。それは絶望に駆られた末の合理的判断でもあり、社会制度に穴を穿つ“最後の選択”とも言える。観客が感じる戦慄は、そこに理屈が通ってしまうことにある。
本作は決して大声で社会批判を叫ぶ映画ではない。むしろ、乾いた夏の長崎を背景に、静謐な時間と余白の中で観る者に問いを委ねる。しかし、その沈黙こそが雄弁である。誰もが生きる中で何かを失い続ける。問題は、喪失を繰り返す中で私たちに寄り添う共同体や制度がどれほど残されているかであると感じた。
治の姿は決して特異な存在ではない。中年男性の過労死や孤独死、経済困窮による家庭崩壊は、統計的にも社会問題として顕在化している。本作が描いたのは、一人の人間の悲劇であると同時に、私たちが見て見ぬふりをしてきた現代日本の縮図。
痛みは癒えずとも人生は続く。その静かな残酷さを、監督は長崎の坂と乾いた夏の風景に託した。観終えた後に残るのは、登場人物への同情よりもむしろ、自分自身や社会への問いかけであった。私たちは彼のように「砂の上」に立っていないと言えるだろうか。
