「全ては失われる、だから美しいーー駆け込みで観れた傑作!」夏の砂の上 ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
全ては失われる、だから美しいーー駆け込みで観れた傑作!
ずっと気になっていたのだけれど、映画.comでの評価があまり高くなく、どんな映画か調べることもせず、他の映画を観ているうちに今日になってしまった。日比谷での上映は、朝一番の今回が最後らしい。
結果、駆け込みで大スクリーンで観られて本当に良かった。2025年の夏は、この映画を観た夏として記憶に残りそうだ。大傑作だと思う。
非常に余白の多い映画なので、人によって感じ方は大きく違うだろう。「だから何を言いたいの?」「どこで感動すればいいの?」と戸惑う人もいるかもしれない。
それ故の“そこそこの評価”なのかもしれないが、僕のようにそれで見逃しかけるのなら、映画.comも罪深いと思ってしまう。
こういう作品がもっと制作されてほしいし、今作の監督にも、もっと自由に映画作りをしてもらいたい。もっと高い評価がついていい作品だ。
まず観はじめて、映像美に目を見張った。1ショット1ショットが完璧に決まっている。
アメリカでカラーフィルムの登場とともに、何気ない街の片隅や人々を切り取った「アメリカンニューカラー」という写真運動があったが、それを思い出した。
何気ない日常を観ること、それを美しいと感じる撮影者の喜びが伝わってくる映像美。静止画としても美しく、おそらく計算し尽くされたカメラワークに合わせて、今をときめく名優たちが非常に抑制された演技を見せる。
感情を強く表現する日本映画は予告編で敬遠してしまう僕にとって、この控えめさは心地よく映画の世界に浸らせてくれた。制作陣も役者たちも本物のプロたちの仕事だと感じた。
舞台はおそらく80年代の長崎。地元の大産業であった造船所が閉鎖された後の、渇水の夏の出来事を淡々と描く。
主人公も同級生の多くも、学校を卒業したらそこに勤めるのが当たり前の人生を歩んでいた。ところが時代が変わり、造船所の閉鎖で、当たり前のように生まれ育った地元で生きていく人々の、人生の歯車が狂ってしまう。主人公もその一人だ。
クロエ・ジャオ監督の「ノマドランド」と同じ世界を描いているとも言えそうだ。そう考えると、これは極めて現代的な物語かもしれない。アメリカのラストベルトで起きている現象や、そこから派生する政治的動き──「忘れられた人々」の物語でもある。
本作は「失うこと」「人生の有限性」が骨格になっている。長崎の夏の物語と聞いただけで、私たちは生まれる前の、終戦の夏を思い出す。高石あかり演じる主人公の名のセリフ「一瞬で消えちゃったんでしょ」も、それを明示している。
何度も映し出される長崎の街並みは、原爆で全てが失われた上に再興されたものだ。
この素晴らしい街も生活も人間関係も、いつ突然終わるかわからない。その危うさが映画全体の通奏低音であり、主人公の人生そのものとして表現される。
彼は子供を失い、職を失い、妻を失い、友を失い、体の一部すら失う。それらは淡々と描かれ、痛みは日常の隙間から漏れ出してくる。
だが、この「いつ全てが終わるかわからない」というメメントモリ感覚こそが、日々や空間を美しく輝かせるのだ。この映画の圧倒的な映像美はその感覚を強く支えている。
やがて、一夏を一緒に過ごし、主人公の面倒を一生見るとまで言ってくれた姪も去っていく。
オダギリジョー演じる主人公は全てを失ったとも言えるが、そこに悲惨さはない。体の一部まで失った彼には、遅かれ早かれ全ては失われる──それが早いか遅いかの違いだけだという諦観、あるいは悟りのようなものが生まれたように見える。
「全ては失われるもの」という前提に立てば、この世界の片隅での一夏の出来事、そこで起きる数々の喪失体験も、一回限りだからこそなんとも尊く、美しいものとなる。
限りある人生をどう観るのか、それによって見える景色も変わり、人生が意味あるものと感じられるかどうかも決まる。そんなことを感じさせてくれる映画だった。