「【“長崎の暑い夏の日々、様々な鬱屈と哀しみを抱えて生きる人達の群像劇。”深い喪失からの僅かなる再生を感じさせる作品の雰囲気と共に、オダギリジョーの圧倒的な存在感に魅入られる作品でもある。】」夏の砂の上 NOBUさんの映画レビュー(感想・評価)
【“長崎の暑い夏の日々、様々な鬱屈と哀しみを抱えて生きる人達の群像劇。”深い喪失からの僅かなる再生を感じさせる作品の雰囲気と共に、オダギリジョーの圧倒的な存在感に魅入られる作品でもある。】
■長崎の街で暮らす治(オダギリジョー)の元に、ある日妹(満島ひかり)が娘の優子(高石あかり)を連れてやってくる。
博多の中州で店を出す男に誘われたといって、優子を暫く預かってくれと言って。
5歳の息子アキオを豪雨の日に、長崎特有の斜面に立つ家の直ぐ傍を流れる側溝の濁流に呑み込まれ、その喪失感から、妻(松たか子)と別居し、定職にも付かずに生きている治。だが、治は優子を預かった事で、彼女の父親代わりとして生きようとするのであった。
◆感想
・今作は、松田正隆の戯曲が原作である事もあり、観る側に画面で映される事柄から、様々な事を推測させる。
例えば、冒頭の豪雨の中での長崎の傾斜地に立つ家々の傍の側溝を流れる濁流を映すシーン。その後、治の家の内部が映され、訪ねて来た妻が仏壇にお供えが出来ていないと治を詰るシーンで、この夫婦に何が起きたかが分かるのである。
・今作の共同プロデューサーも務めるオダギリジョーは、今作のような哀しみを抱きながら生きる男を演じさせたら、一級の俳優だと思っている。
私が、今作の治を見て思い出したのは、心の傷を抱えながら、職業訓練校で学ぶ男を彼が演じた、縊死した佐藤泰志の原作を山下敦弘監督が映画化した「オーバー・フェンス」である。あの映画も、喪失から再生して行く男を描いた映画であった。
・今作でも、直接的には描かれないが、造船の街長崎で溶接工として働いていた治が、”会社が倒産したのだろう”職場の仲間だった男(三石研)は、タクシー運転手として新たな生活を始めるも、ある日、仕事中に交通事故死する。その事も登場人物達の台詞で語られるのみである。
その葬儀の場で男の妻(篠原ゆき子)から”貴方は、奥さんとうちの夫の関係を知っていたんでしょう!”と激しく詰られるシーンは、凄い迫力である。治は情けない姿を晒すのみである。戯曲的なシーンでもある。
更に、治の後輩(森山直太朗)は治の妻と新たな生活をすると、治が務める様に成った中華料理店に来てその事を告げ、彼に土下座するのである。
そして、その後、治は豚の太い大腿骨をちゃんぽんスープの基にするために叩き割っている時に、指を三本切り落としてしまうのである・・。
・又、治が酔った時に亡き5歳の息子アキオの事を語り、慟哭するシーンはキツカッタけれども、治がずっと抱えて来た深い深い哀しみが漸く現れたシーンでもあった。妻には見せなかったが、優子が来たお陰で治の心が解放されたのだろうな、と思ったな。
・一方、母から預けられた優子もスーパーでバイトを始め、ナカナカ馴染めない中、徐々に恋人らしき男が出来たりするが、進展はしない。
彼女は、部屋の中の柱に付けられた治の息子の身長を刻んだ柱の傷を見つめるのである。
◼️そして、長い断水からの突然の土砂降りの突然の雨が降る中、優子は雨に濡れながら、笑顔で踊るように盥に水を貯め、治と共に水を飲むシーン。
”渇水からの、天からの水・・。”
今作を象徴するシーンだと思ったな。
<突然やって来た優子の存在が、心を閉ざしていた治の心を、ゆっくりと解いて行く様を、今作は文学調のタッチで描いて行くのである。
そして、優子は母と遠き国カナダへと旅立つのであるが、治の表情はどこか落ち着いており、二人がタクシーで出発した後に、坂の途中の小さな煙草屋でいつものように”今日も暑いね。”と言いながら、煙草を一箱買い、坂道をゆっくりと登って行くのである。
今作は、喪失からの僅かなる再生を感じさせる作品の雰囲気と共に、オダギリジョーの圧倒的な存在感に魅入られる作品でもある。>
驚く程オーバーフェンスに似ていると自分も思いました。高石さんはじめ松さん、満島さん、光石さん、直太朗迄脇への投入が半端無かったですけど、ストーリーは淡々、ビールも1缶しか無い。