劇場公開日 2025年5月9日

「小さな痛みに向き合う」リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5小さな痛みに向き合う

2025年5月12日
iPhoneアプリから投稿

リー・ミラーが残した戦争の実相が、
ケイト・ウィンスレットと、
監督エレン・クルス(『エターナル・サンシャイン』等ミッシェル・ゴンドリー作品のD.O.P.時代はなぜかクラスではなくクルス、馴染み深いので以降クルスで)

の卓越した手腕によって、
単なる伝記映画の枠を超え、
本作は多くの戦争映画とは一線を画す、
独自の視点と表現で観客の心に迫る。

なぜ、

本作が〈一線を画す〉作品となっているのか。

具体的に触れていこう。

それは、
歴史の表舞台を飾るスクープや大事件を安易に追いかけることをせず、
むしろ「小文字」の現実に目を向ける徹底した姿勢にある。

パリ解放、
青酸カリで自決した家族の顛末、
あるいは収容所の惨状といった、
歴史的にも有名な出来事をなぞるように描きながらも、

それらをセンセーショナルに消費することなく、

そこに隠されている個々の、
名もなき人々の「見えない傷」や「深い痛み」を、
リー・ミラーのまなざしを通して写真に残していく過程を丁寧に描写する。

ナチス、A.H.、チャーチル、スターリンといった「大文字」で語られる権力者(他の例、トランプ、プーチン、ゼレンスキー)の影に隠れた、
市井の人々の心の動きこそが、

この映画の主題であり、リー・ミラーが追い続けた【伝えるべき事】なのだ。
エレン・クルスの演出(撮影は別のスタッフとはいえ影響は大だろう)、

そのリアリズムと暗部の描写において、
本作の主題と見事に同期する。

ストロボを焚く光の閃光、
あるいは、
丹念に光量を計測する仕草、

といった写真撮影の現場における細やかな演出は、
単なる描写を超え、
リー・ミラーが実際に残した【歴史的な写真群と、
今我々が目にしている映画の映像の絶対温度をシームレスに繋ぐ】役割を果たす。

それは、クルス特有の技術が織りなすリアリズムであり、
観客はあたかもミラーのレンズ越しに、
あの時代の生々しい光景と感情を追体験するかのようだ。
(ゴンドリーのシームレス手腕も凄かった)

それぞれの「小さな痛み」にしっかりと軸足を置くことで、
個人の悲劇がやがて普遍的な歴史の「大文字」へと繋がっていく様を鮮やかに描き出す。

これは、ドキュメンタリー、フィクション、
そして伝記作品のいずれの分野においても「教科書的手法」と言えるだろう。

類似作品が数多く存在する中で、
本作がひときわ「出色の作品」として輝くのは、

その手法が表層的な模倣に終わらず、
人間の尊厳と痛みに向き合っているからに他ならない。

そして何よりも、
リー・ミラーという写真家、

ケイト・ウィンスレットというプロデューサー兼俳優、

エレン・クルスという監督、

の三位一体となった「ひとの痛みに向き合う」それを観客に自分事として突きつける、
という揺るぎないスタンスこそが、
本作に深いメッセージを与えている、

それは、単にひとの傷みを伝えるという行為に留まらない。

映画やドラマといったフィクションの枠を超え、
ニュース、報道、雑誌といった、
あらゆるメディアの「存在意義」そのものも問われる、
極めて今日的で普遍的な問いを観客に投げかける。

果たしてメディアは、

表面的な出来事や大きな物語の裏に隠された真の人間性を掬い取れているのか?

この問いかけは、
我々がさまざまな情報と向き合う現代社会において、
看過できない重みを持つ。

本作は、単なる戦争の記録ではない。

それは、
時代と人間を見つめ続けた一人の人間の魂の軌跡であり、
観る者に痛みを伴う深い情動を促し、
メディアの根源的な存在意義をも再考させる、
極めて意義深い作品である。

その「小文字」の描写にこそ、
戦争の真の顔と、
人間の強さ、
そして脆さが凝縮されている、

と言われているような気がした。

【蛇足】

まんが、「ゴルゴ13」で、
デューク東郷の出生の秘密やルーツを追う作品はいくつかある。

ルーツを追うものは必ずゴルゴ13によって消される。

その中でも「日本人 東研作」「芹沢家殺人事件」
「ミステリーの女王」はなかなかスリリングな内容だ。

「ミステリーの女王」の中で、
ゴルゴを小説化しようと試みるマッジ・ペンローズ、

作家ペンローズは、
夫の名前繋がりと、
真実を追う姿勢で、
リー・ミラー説があったが、
讃美歌13番が鳴り始める前にやめておこう・・・

蛇足軒妖瀬布
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